急病人
急病人 人が倒れたぞ!の声に続いて上がった女性の悲鳴に日の落ちかけた冬の東京をふらりと歩いていた飛雄馬は歩みを止め、背後を振り返った。
声のした周辺にはすでに人だかりができており、誰かが救急車なりを呼ぶだろう、面倒事には関わらんでおこう、と飛雄馬は考えたものの、このまま見て見ぬふりはできぬと踵を返し、転倒したという人物の元へと駆け寄る。
そうして、周りを囲む人々の輪の中心にいた人物──スーツ姿の青年に懐かしい面影を見て、思わずその名を叫びそうになって、口を噤む。
差し伸べた手を、一度は引っ込みかけた飛雄馬だったが、彼は自分の知り合いでこの後のことはおれが面倒を見るから大丈夫だと観衆らに告げ、青年の腕を取るなり、己の肩に回すと彼の体を引き起こした。
「うぅ……」
熱い、と飛雄馬は青年の体に触れた瞬間、異常な熱さを彼から感じる。
サングラス越しに横目で顔を見遣れば、意識はあるものの目は据わり、頬も紅潮している。どうやら高熱を出し、倒れたらしいことは飛雄馬にも想像できた。
これしきのことで倒れるなど、らしくない……と飛雄馬は額に汗を滲ませながらタクシーを呼び止め、青年の巨体を後部座席に押し込むと、自分も続けて隣へと乗り込んだ。
どちらまでと尋ねた運転手に、近くの医院までと告げてようやく一息吐く。
勢いのままに体を起こし、肩を貸しながらここまで来たが果たしてこれでよかったのだろうか。
彼は何か重篤な持病を抱えているのではないだろうか。救急車を呼んでもらうべきだったのだろうか。
それに──他人の空似ということも考えられんことではない。おれは、とんだ失態を演じてしまったのではないだろうか。今になってそんな後悔の念に襲われて、飛雄馬は隣で項垂れる青年の顔をまじまじと見つめた。
「ほし……ほしよ、きさま、どこにいるんじゃあ…………」
ああ、間違いない。
飛雄馬は唇を引き結び、鼻から冬特有の冷たい空気を吸い込むと滲んだ涙を青年に気付かれぬようサングラスを外し、拭った。
そう、間を置かぬうちにタクシーは個人経営の内科医院へと到着し、無愛想に後部座席のドアを開けた。
どうもと飛雄馬は礼を言うと、運賃をコートのポケットに入れていた小銭で支払い、ここで待っていてほしいと運転手に告げてから乗り込んだときと同じように青年へ肩を貸すようにしてタクシーから降ろすと、医院の戸を開ける。
混み合う時間ではないのか中に患者はほとんどおらず、受付で偽名を遣い、名を名乗ると、連れ合いに熱があるようでと伝えた。
少々お待ちください、と受付の看護婦は言うなり、奥へと引っ込んでからこれまたすぐに飛雄馬の偽名であるトビタの名を口にする。
飛雄馬は再び青年の体を支え、診察室へと入ると、白髪頭の医者に熱が高いようで街中で突然倒れたんですと訳を話した。
ふんふんと白い鼻髭を蓄えた医者は頷き、診察室の丸椅子に座らせた青年の額に手を当て、口を開けさせてから喉を見るなり、風邪でしょうなと笑った。
「かぜぇ?」
青年が間の抜けた声を漏らし、飛雄馬はほっと胸を撫で下ろす。
「注射を一本打てば治りますぞ」
「ちゅうしゃ!?い、いやだ!わしはぜったいうたんぞい!」
「…………」
熱にうかされているのか子供じみたことを口にする青年に飛雄馬は眉をひそめたが、あえて咎めることはせず、成り行きに任せることとした。
しばらく、打つ、打たないの押し問答が続いたが、遂には医者が根負けしたらしく、薬を出すから飲めと言われ、追い出される形で青年共々飛雄馬は診察室を後にする。薬を出してきた受付の看護婦に大変ですねと苦笑され、飛雄馬も苦笑いを浮かべつつ勘定を済ますと、待っていたタクシーに青年を押し込み、隣に乗り込む。
行き先はと尋ねる運転手に青年の屋敷の住所を伝え、疲れたなと額に浮かんだ汗を手で拭う。
「ここは、どこじゃあ。わしはさっきまでえきまえをあるいちょったとおもうんじゃが、なんでびょういんに?そしてきさまは……」
青年はしゃべれるまでに回復したのか、ふいに口を開き据わった目をこちらに向け、己の置かれている状況について尋ねてきた。
「あんたは街中で突然倒れたんだ。風邪だと医者の先生は言っていたが、どうして熱があるのにあんなところを歩いていたんだ」
「ねつぅ?うそをいうな。わしゃねつなぞ……」
目眩でも起ったか青年は言い淀み、どっと座席に凭れる。
「大丈夫か」
「う、ぅ……わしゃほしをみつけるまでかえらんぞい……」
「…………」
ばかなやつ、と飛雄馬は半ば呆れつつも、変わらんな、伴は、と鼻を啜り、窓の外へと視線を遣った。
あれから数年が過ぎ、建ち並ぶ店舗や住宅、風景も変わるものもあれば変わらぬものもある。
懐かしさと寂しさを覚えながら、飛雄馬はいつの間にか眠ってしまっている青年──伴の寝顔を見遣り、きみは後者だろうか──とそんなことを考えた。
そのうちに、タクシーは屋敷前へと辿り着き、飛雄馬はコートのポケットの中にあった小銭と紙幣で運賃を支払うと、釣りはいいと言うなり、着いたぞと伴を揺り起こす。
「ん、んん……?ここはどこじゃあ……」
「きみの家だ。さっき自分で行き先を伝えただろう」
そんな嘘を吐き、飛雄馬は屋敷に繋がる門を開けた伴の後に続く。と、屋敷の前では、長い白髪をひとつに纏めた老女が慌てた様子で右往左往しており、伴の姿を目に留めるなり、坊っちゃん!と大声で叫んだ。
「宙太坊っちゃん!あなた、風邪をひいて高熱が出ているのに今までどこで何を!」
「う、あの、それは、そのぅ……」
おばさん──飛雄馬は伴の屋敷の家政婦である彼女を敬意を込めてこう呼ぶ──の前ではさっきの威勢はどこへやら借りてきた猫のように大人しくなった伴に代わり、どうやら星とやらを探して街をうろついていたようです、と事の顛末を語ってみせた。
「まあ、まあ!あなたが坊っちゃんを屋敷まで?ありがとうございます!感謝してもしきれません。坊っちゃんに何かあったら旦那様に何と言われるか。さあさあ、上がってくださいな。私はこの屋敷の家政婦でして、坊っちゃんのことはこんなに小さいときから……あ、いえ、すみません。話が逸れました。ほら、立ち話もなんですから」
「いえ、おれは……」
「坊っちゃんの恩人に何のお礼もせず帰っていただくなんてできません。どうかお上がりください」
「…………」
きっぱりとそう言われ──丸め込まれたとも言うが──飛雄馬は返す言葉もないままに促される形で伴の屋敷へと足を踏み入れる。
その間も伴はふらふらとおぼつかない様子で靴を脱ぎ、板張りの廊下を歩くと、寝室へと入った。
飛雄馬も後を追う形で伴の寝室へと入り、敷かれていた布団の上にどっとうつ伏せに倒れ込んだ彼の体の下からやっとのことで掛け布団を引き出し、その身に掛けてやった。
ふう、と大きな溜息を吐いた飛雄馬だったが、閉じられていた部屋と廊下を区切る襖が音もなく開いたために、ハッとそちらを見遣る。
「こちらです。すみません、ご迷惑ばかりお掛けして……」
「いえ……」
愛想笑いを浮かべ、飛雄馬はこちらへと言われるがままに部屋を出た。
「玄関に薬の袋がありましたが、病院にまで連れて行ってくださったんですね。本当に何とお礼を申していいか……」
「ああ、いえ……勝手な真似をしてしまってこちらこそ申し訳ない」
「とんでもない。ありがたいことです。坊っちゃん、二、三日前からお風邪を召してらしたんですが病院には行かん、寝れば治るの一点張りで困っていたんです。会社も休んでしばらく大人しく眠っていたかと思えば私の目を盗んでいつの間にか……本当によかった。坊っちゃんがご無事で……」
目元に涙を溜め、震える声で囁くおばさんに飛雄馬は、何と言葉をかけていいものやら考えあぐね、口を閉ざしたまま彼女の後ろを着いていく。
「…………」
「そういえば、あなた様のお名前をお伺いしていませんでしたね」
台所を案内され、ダイニングテーブルに着くように言われた飛雄馬は素直に椅子に腰を下ろす。
「おれ、ですか。おれの名は…………」
星です、その一言を飲み込み、トビタです、とおばさんに告げ、飛雄馬はお構いなく、とも続けた。
「トビタ、さん。そうですか。ふふ、ごめんなさいね。坊っちゃんの昔のご友人に雰囲気が似てらっしゃって……」
「昔の?」
「ええ、ご存知ないかしら、巨人の星。星飛雄馬って選手」
「…………」
ポットから新しく茶葉を入れた急須に湯を注ぐおばさんの背を見つめ、飛雄馬はしばらく黙っていたが、存じております、とぽつりと囁く。
知っているも何も、おれがその星です──その言葉を、どうぞと出された湯呑みの茶で喉奥に流し込み、飛雄馬は、彼がどうかしたんですかと続けた。
「坊っちゃんの高校時代からの大親友で、何をするにもどこに行くにも一緒だったんです。坊っちゃんも星さんの後を追って巨人に入って、一緒に野球をして……それはそれは楽しそうでした。いつもは寮生活をしてらしたんですが、たまにこちらに帰ってくるとずっと星さんの話をしてらして……でも、星さんはあるとき、ふらりと姿を消してしまって」
「行方不明、ということですか。そういえばさっき、彼、その、伴さんも星、星と譫言のように言っていました」
「ええ。左腕をね、左の腕を試合の最中に壊して、それで入院していた病院から突然いなくなってしまわれて……坊っちゃんは休みのたびに東京や関東近郊を探して回ってらっしゃるんです。今回の風邪は雪が降っているのに上着も着ないで奥多摩を歩いていたからとか……昔、奥多摩で星さんと特訓をされたそうです。それでもしかしたらそこに、って……」
「……そんな、ことが」
「あら、嫌ですよ。こんな話、するつもりじゃなかったのに……夕飯は召し上がられました?」
話題を変えようと笑い声を上げたおばさんに、いえ、と返事をしかけた飛雄馬の前に、ふらふらと真っ赤な顔をした伴が現れ、なにをしとるんじゃあ、と低い声で尋ねた。
「…………!」
椅子から立ち上がり、飛雄馬はおばさんに寝かしつけてきますと断ると、伴を宥めるようにしながら廊下へと出た。
「どこにいったかとおもったぞい。めがさめたらきさまのすがたがみえんからしんぱいになったわい」
「もうしゃべらなくていい。早く部屋に戻れ」
「もうひとりはいやじゃい。さみしいのはこりごりじゃい」
「…………」
大きなくしゃみをし、鼻を啜った伴を部屋に戻るよう促し、そのまま布団に潜り込んだ彼の傍らに飛雄馬もまた、腰を下ろす。
広い寝室はひどく冷え、コートを羽織っていても寒さを覚える。飛雄馬は冷たくなった指先に息を吐き掛け、両腕をさすった。
「はいるか」
「いや、いい。風邪をうつされたら堪らんからな」
「えんりょせずともええ。あったかいぞ」
「人のことを気にする余裕があったら早いところ寝てくれないか」
「……す、すまん」
「い、いや……こちらこそ急に声を張り上げてしまって……」
「サングラス、とらんのか」
「…………」
部屋の明かりは消えている。
顔の判別などつかぬだろうと踏んで、飛雄馬はサングラスを外す。ここに来て初めて裸眼で伴の顔を見つめ、飛雄馬は彼の名を口走りそうになって、奥歯を噛む。
「ふふ……にとる。にちょるわい。ほしそっくりじゃあ……」
布団の中から伴が伸ばしてきた腕、その指が頬に触れて飛雄馬はギクッと身を震わせる。
「…………」
「きょうは、めいわくをかけてすまんのう。げんきになったら、きっとおれいをさせてもらうわい」
「気にするな。今は体を休めることだけを考えろ」
「おう。おことばにあまえさせていただくぞい……」
言うと、目を閉じた伴は、手を握っていてくれんかとふいにそんな言葉を発した。
「手を?」
「うむ……」
この期に及んで一体何を言い出すのかと思いながらも、飛雄馬は何の警戒もせぬままに布団の中から差し出された伴の手を闇の中から探り当て、そろりと握る。
すると、その瞬間、飛雄馬の視界はぐるりと反転した。声も出せぬまま頭と背中、腰を布団ではなく固い畳に強か打ち付け、飛雄馬はにわかに感じた鈍い頭痛に顔をしかめる。
と、熱く酒臭い何かが頬に触れて、飛雄馬はギクリと体を強張らせた。その熱い何か、が自身の体の上に跨った伴が寄せてきた唇であると察したときにはすでに口を塞がれている。
「う、ぅっ…………」
畳に触れていた背中の下には伴の腕が滑り込み、体を強く抱かれる。身動きが一切取れぬまま口内を好き勝手に犯されて、飛雄馬の頭の中はぼんやりと霞がかったような状態になった。
身につけているスラックスと下着とが肌から引き剥がされていくのに対し、ろくな抵抗も出来ぬままに飛雄馬は、星、と呼ぶ伴の声をどこか遠く離れた場所から聞くような感覚を覚える。
そうして、冷たい外気に晒された足に伴の熱い指が触れたことに身震いしたものの、飛雄馬はそれよりも熱を持った柔らかい何かが自分の男根を覆ったために声を上げた。
「あ、ぁっ!」
柔らかい何か──伴の舌が、口の中の粘膜が、唾液が飛雄馬の男根を無遠慮に弄ぶ。
時折、わざと聞かせるような下品な水音を立てながら男根を吸い上げ、そこに舌を這わせる。
かと思えば口を離し、その下にある尻の窄まりに唾液を纏わせた舌先を滑らせた。
与えられる強烈な快感はじりじりと飛雄馬の頭の芯を焦がし、体の奥を疼かせた。
背中を反らし、声を漏らさぬように口元に腕を遣った飛雄馬は懸命に達するのを堪え、奥歯を噛む。
素肌を預ける畳の目が飛雄馬が体をよじるたびに皮膚に擦れた。
「だしてええぞい……ぜんぶうけとめてやるわい」
きつく閉じた飛雄馬のまぶたの縁に涙が滲む。
「ばっ、ん…………っ、んぅ……!」
甘い言葉に促されるように飛雄馬は伴の口内に精を吐き、薄い腹を呼吸のたびに上下させた。
「つぎはこっちのばんじゃい……」
飛雄馬の射精が治まると同時に、伴が体を起こし、何やらごそごそと暗がりでその身をまさぐる。
逃げることも、やめろと声を上げることもままならぬまま、飛雄馬は膝を立てた両足の間に伴を受け入れ、腹の上に乗せられた脈打つ熱の大きさに腹の奥が切なく疼くのを感じた。
腹の上に乗せられた伴のものの先から溢れたであろう体液が肌を伝う。
「っ、あんた……正気か?こんなことをして、人を何だと思ってるんだ」
頭のをぶつけた際の頭痛は治まっている。
今は心臓の鼓動の音がひどく耳障りだ。
飛雄馬は震える声で言葉を紡ぎ、こちらを見下ろす伴の顔を見つめる。
「ここまできてやめろときさまはいうのか。はくじょうだとは思わんのかあ」
伴が腰を引き、飛雄馬の尻へと男根をあてがう。
「くっ……」
あてがわれた窄まりが期待に戦慄き、ひくつくのがわかる。全身が火照り、心臓の鼓動がまるで耳鳴りのように飛雄馬の頭の中で鳴り響く。
「いれるぞい」
「よ、せ……っあ……!」
窄まりに触れていた伴の男根がゆっくりと飛雄馬の体内へと侵入する。入口を強引に押し広げ、中を次第に満たしていく。飛雄馬は白い首筋を晒すように背中を反らし、中心を貫く熱に酔いしれた。
中を慣らすようにしながらじわじわと奥へと進む伴から逃れるように飛雄馬は体をよじる。
それから、根元までの数センチを伴が一息に腹の中に埋めたため、飛雄馬は構える暇もないまま無理やり与えられた快感に全身を戦慄かせ、悲鳴にも近い声を上げた。伴は飛雄馬の中に我が身を挿入させたことで我を失ったか、引いた腰を強く打ち付けることを繰り返し始めた。
「うぁ、っ……っ────!」
尻を伴の腰で叩かれ、飛雄馬は脳天まで突き抜ける衝撃に叫び、待ったの声をかけた。
腹の中を抉られ、突き上げられたことで軽い絶頂を迎え、中にいる伴を締め付ける。
と、口を塞ぐかのようにして寄せられた唇に飛雄馬は口付け、絡められる舌に応えた。
いく、と短く発して、二度目の絶頂に身を委ねた飛雄馬の体を伴は解放せず、体の脇で揺れていた両足を左右の腕で抱えると、より深く中を犯すようにして腰を回す。
「まっ、まてっ……!伴、っ、〜〜!!」
腹の奥を掻き回され飛雄馬は掠れた声で制止をかけたが、伴には届いていない。
星、星と譫言のように繰り返しながら伴は腰を叩きつけ、再び、口付けを求めてきた。
唇を薄く開き、伴を受け入れながら飛雄馬は腹の中に出された熱を感じつつそっと彼の首へと腕を回す。何度も、何度も唇を重ね合わせて、伴の体温を全身に感じながら飛雄馬は自分を抱く彼の名を呼ぶ。
「いやになるほどにちょるわい」
「ふ……」
ゆるく笑みを漏らして、飛雄馬はようやく離れていった伴の体の下から身を起こす。
全身は汗に濡れ、畳に接していた腰は擦れたのかヒリヒリと痛んだ。
「その、あせ、汗を流してきてはどうじゃ。浴室は出て左に曲がって……」
ここから浴室までの道のりを説明する伴に礼を言い、飛雄馬はそちらに向かうと服を脱ぎ、シャワーで汗を流す。それから体を温め、浴室から出てみれば、足元には浴衣が一枚置かれていて、伴が置いてくれたのだなと飛雄馬は苦笑し、糊の効かされた浴衣に腕を通した。今まで身に着けていた衣服や使用したタオルをどうするべきか尋ねようと、飛雄馬は伴の部屋まで戻ったが、この間に部屋の主は布団も着らず高いびきで眠ってしまっている。
やれやれ、と伴の傍らに座り、額に手を遣れば熱は下がっていた。そりゃあ眠れるはずだと飛雄馬は苦笑し、伴に布団をかけてやると、自分もそっと彼の隣に体を滑らせた。
道中、おばさんの姿を見かけることはなかったが、もう休まれたのだろうか。
そうして、気付けば眠ってしまっていたのか庭から届く小鳥の声で飛雄馬は目を覚ます。
しまったと慌てて飛び起きたが、近くに伴の姿はなく、明るい太陽の日差しが室内に差し込んでいるばかりで、飛雄馬はその眩しさに目を細める。布団は綺麗にかけられていて、先に起きた伴がそうしてくれたのだろうと彼なりの優しさを感じつつ、大きな溜息を吐いた。
「おう、起きたか。ええと、その……名前」
音もなく襖が開いたかと思えば、部屋着に着替えた伴が顔を出し、飛雄馬は驚いて一度は彼へ視線を向けたものの、サングラスをかけていないことに気付いて、顔を逸らす。
布団から少し離れた畳の上に転がっていたサングラスを手繰り寄せ、着用してから、飛雄馬はトビタだと名乗った。
「う、うむ。その、トビタよ。朝飯、出来とるから顔を洗って来るとええ。待っちょるぞい」
「………………」
それだけ言うと、伴は襖を来たときと同じようにそろりと閉め、廊下をこれまたゆっくりと引き返して行った。朝飯か、と体を起こし、布団を綺麗に畳んでから飛雄馬は顔を洗うべく部屋を後にする。
洗面所には客人用の歯ブラシと歯磨き粉が置かれており、それらを使って身支度を整えてから飛雄馬は伴が待つ台所へと向かう。すると、廊下にも朝飯の良い匂いが漂ってきており、飛雄馬の腹の虫がぐうと鳴いた。
「おはよう、ございます」
おそるおそる台所に顔を出し、淡々と挨拶の言葉を口にすれば、こちらに気付いた伴とおばさんが、ぎょっと目を丸くした。
「…………?」
「…………」
「ん、すまん。うちに来た客は必ず迷って迎えに行くことになるんじゃが、まさかトビタが真っ直ぐここに来るとは思わず驚いてな」
「先日は失礼しましたと帰られようとした方が廊下を何往復もされて気の毒大変でしたものね」
飛雄馬は高校時代からこの屋敷を訪ねており、各所の場所はある程度把握している。
平然としてしまっていたが、怪しまれるだろうかと思ったものの、ふたりはしきりにすごいすごいと褒め称えるばかりで、このときばかりは飛雄馬も、彼らの物事をあまり深く考えない性質にホッと胸を撫で下ろした。
それから案内されるがままにテーブルの一席に腰を下ろし、次々と目の前に並べられる料理の品数にきょとんとなる。炊いたばかりの白米と具沢山の味噌汁、焼いた魚の切り身にお浸しなどの小鉢が数点。
どれもこれもがつやつやと光っており、温かい料理からは湯気が立っている。
「食べんのか」
「あ、いや。あまりに美味しそうで驚いてな……」
「いやだ、トビタさんたら褒めても何も出ませんよ。それと、昨日はすみません。お休みになられていたらと思って部屋の様子を見に行くこともしませんで……」
おばさんの言葉にふたりはそれぞれに顔を見合わせ、どちらともなく逸らしてから、咳払いをひとつしてから伴が味噌汁を啜りつつわざとらしく話題を変える。
「おばさんは和食は得意なんじゃが洋食が苦手でのう。一度ハンバーグを食べたいと言ったときにはひどい目に遭ったぞい」
「今はちゃんと作れますからね。坊っちゃん、トビタさんに変なこと言わんでくださいよ」
「オムライスも卵がめちゃくちゃでがっかりしたわい」
「坊っちゃん!」
怒鳴られ、味噌汁を吹きかけた伴に苦笑し、飛雄馬もまたいただきますと手を合わせるとテーブル上の料理に手をつける。
温かい味噌汁が身に沁み、柔らかで落ち着いた味付けがより穏やかな気分にさせてくれた。
それは目覚めたときから感じていることで、この屋敷ではゆっくりと時間が流れているのだ。都会の喧騒から少し離れた静かな住宅街に屋敷を構えていることもあろうが、より強くそう感じられるのはおばさんと伴の人柄のお陰だろう。
まるで漫才のようなふたりの会話を聞きながら飛雄馬は飯のお代わりをもらい、それもぺろりと平らげてからごちそうさまでしたと手を合わせた。
着替えはとっくにおばさんが洗濯を済ませてくれていたらしく、庭で他の洗い物と一緒に風に揺られているのが食事を終え、部屋に戻る飛雄馬の目に留まる。
伴は昨夜のことには一切触れてこず、飛雄馬をとある一室に案内すると、自分はそそくさと退散しようとしたために、それを呼び止め、留まるよう声をかけた。
どうやら、話題には出さないだけで申し訳ないという気持ちはあるらしい。
飛雄馬が今日は休みかと尋ねると、日曜じゃからのうと彼は返すなり、畳の上にちょこんと正座し姿勢を正すと深々と頭を下げた。
「その、昨日はすまん。わしは恩人にとんでもないことをしてしまったわい」
「なに、大丈夫さ。気にするな……」
頭を上げてくれと飛雄馬は続け、本当か?と今にも泣きそうな顔をして尋ねる伴に、熱が下がったのならもういいじゃないか、と微笑みかけた。
「優しいんじゃのう、トビタは。見ず知らずのわしをわざわざ家まで送り届けてくれたばかりか、あんなことをしでかしたっちゅうのに」
「こうして宿と食事にありつけたのだし……もう言うな。これでこの話は終わりだ」
「う、うむ…………」
しょんぼりと肩をすくめたまま頷く伴に、飛雄馬は、あんたの大事な親友とやらが早く見つかるといいなと呟き、部屋を出ると縁側から屋敷の中庭を見つめた。
綺麗に手入れされた木々が陽の光を浴び、きらきらと輝いている。大きな池には鯉が泳ぎ、鹿威しが心地良い音色をここまで届けてくれる。
「…………」
「薄着でそんなところに立っちょるとトビタが風邪をひくぞい」
背後からなにやら厚みのある上着を肩にかけられ、飛雄馬はありがとうと礼を述べると、そのまま腕を通し、しばらくぼうっと中庭を眺めていた。
「そろそろ、発とうと思う」
「なに?もう発つのか?昼飯くらい食べて行ったらどうじゃ」
「そうもいかんさ。そんなに世話にはなれない」
「そ、そうか……残念じゃわい……」
飛雄馬は縁側から庭へと下り、つっかけを履くと干してあった自分の衣服一式を手に取り、部屋へと戻る。
早くから干してあったのか服は綺麗に乾いており、これなら大丈夫だろうと飛雄馬は羽織と床を脱ぐと、取り込んだばかりの少し冷たい下着やスラックス、靴下へと足を通す。
無言のままこちらを見上げている伴に、縁があればまた会えるさ、と半ば自分に言い聞かせるような言葉をかけて、シャツとコートを纏うと、部屋を出て玄関先へと向かう。
すると、伴が声をかけたかおばさんが廊下の向こうから走り寄って来て、もうお帰りになるんですかと話しかけてきて、飛雄馬は、お世話になりましたと頭を下げた。
「またきっと来てくださいね。トビタさんなら大歓迎ですよ」
「ありがとうございます……伴、お大事にな」
外まで送るという伴の申し出を固辞し、飛雄馬はお邪魔しましたと屋敷の玄関から外へ足を踏み出す。
会えてよかった、どうか元気でいてくれ。
もうおれを探し、寒空の中をうろつくなど無茶なことはしてくれるなよ……。
その一言を飲み込み、飛雄馬は東京の街へと繰り出す。日曜の街中はこの寒さだというのに人で溢れかえっており、間もなく正月が来ることを飛雄馬に感じさせた。さて、これからどこへ行こうか。
そんなことを考えつつ、飛雄馬はふらりと人混みに紛れた。