距離
距離 ……くん……しくん……星くん!
「あっ!」
ぎく!と飛雄馬はリビングのソファーの上で体を跳ね起こし、自分の顔を覗き込むようにして立っていた花形を仰ぎ見た。
「あれ、おれ、いつの間にか、寝て……ねえちゃんは?なんで花形さんがここに?」
数回、目を瞬かせることを繰り返し、飛雄馬は己の住まいであるクラウンマンションの室内を見渡すと、再び花形を見つめる。
「明子さんの忘れ物を届けに来たのさ。何度チャイムを鳴らしても応答がないのでね。上がらせてもらったよ。まさかとは思ったが不用心な、鍵が開いていた」
「は、はあ……?」
鍵が開いていたから上がらせてもらった?
ねえちゃんの忘れ物ならバイト先のガソリンスタンドに届けたらいいじゃないか。
飛雄馬は花形があまりに当然な顔をしてここにいるために、そんな疑問を抱くこと自体おかしいような気になって、それは、どうも、と当たり障りなく返すと頭を下げた。
「それでは星くん、明子さんによろしく伝えてくれたまえ。ぼくはこれにて失礼するよ」
「え?も、もう帰るんですか?」
あ、いや、そうじゃなくて、あれ、おれは一体何を。
飛雄馬は寝起きの頭を左右に振って、ぼんやりとした意識をはっきりさせてから順を追い、ここまでの経緯を整理する。
確か、今日は試合が組まれていなくて、伴は親父さんの用事があるとかでおれは1日家で過ごすことにしたんだったか。
それからねえちゃんは、朝から花形さんとデートとか言っていたが、何でも夕方からアルバイトが入っているから半日しか一緒にいられない、とも言っていたような気がする。
おれは午前中、部屋の掃除をしたあと午後からは届いたファンレターの返事を書いていたが、少し休憩するつもりがいつの間にか、ソファーに横になって眠っていたらしい。
参ったな、今日中にファンレターの返事を書くつもりだったのに。
「長居されて困るのはきみの方だろう、星くん。許可なく上がり込んで申し訳なかったね。部屋の戸締まりは気にしたまえ。ここのところ物騒だからね」
「あ、その、コーヒーくらい、どうです。ねえちゃんの忘れ物を届けてくれたんでしょう」
「…………」
そう、切り出してはみたものの、花形さんは十中八九、断るだろうと踏んでいる。
考えるに、彼の唇が紡ぐ言葉は、ぼくと星くんはそんな馴れ合うような関係ではないはず──などと言った、おれに冷水を浴びせるものに違いない。
しかして、姉を好いてくれる人物に、それもわざわざ忘れ物を自宅まで届けてくれた相手に、何の礼もせずただ帰すわけにはいかず、飛雄馬はおそるおそるそう、尋ねたのだった。
しかして、花形の口を吐いたは、いただこう、の一言で、飛雄馬は予想外の反応にその場に固まった。
「…………」
まさかの発言に驚きはしたが、努めて平静を装いつつ、飛雄馬はソファーから降り、そのままキッチンに立つ。
慣れた手つきで水道の水を薬缶に注ぐと、コンロの五徳にそれを乗せ、点火する。
「返事を書いていたのかね」
「えっ、あ、ああ。まだ半分も終わってませんが」
青い炎が薬缶の底を撫でる様をじっと見つめていた飛雄馬だが、花形に不意打ちぎみにそんなことを訊かれ、取り繕うように答えた。
「へえ、真面目な星くんらしい。一枚一枚手書きとはね」
「そ、そうですか?せっかく子供たちが自分の手で書いてくれたのに印刷で済ませたり、一言だけ書き添えるのではあんまりかなと思って」
「……………」
届いた葉書の一枚を手にし、しげしげとその裏表を眺めている花形に、とりあえずかけてくださいと促し、飛雄馬は湯が沸く間に用意していたカップに湯を注ぐ。
あらかじめ、インスタントコーヒーの粉を適量、そこには投入しており、湯がそれを溶かすや否や香ばしい香りが辺りには漂う。
「いい香りだ、これはきみの好みかい」
「え、いや、まさか。おれはねえちゃんが買ってきてくれるのを口にするばかりで……」
愛想笑いを返し、飛雄馬はカップを乗せたソーサーをふたつ手にしたまま花形の許に歩み寄る。
「ありがとう」
ソファーの前に置かれたテーブルの上にソーサーを乗せると、花形が小さく会釈した。
飛雄馬はよそよそしく、いえ、と返すと、花形と対角線上になるようにテーブルの斜め向かい、いわゆる床の上に腰を下ろした。
「うちに来なくても、ねえちゃんのバイト先に届けてあげたらよかったじゃないですか。ねえちゃんも花形さんが来てくれたらきっと喜んだと思いますよ」
「なに、きみは笑うかもしれんがぼくも気が動転していてね。素直に明子さんのバイト先に向かえばいいものを気付けばクラウンマンションまでの道を走っていた」
「花形さんが?」
ふふ、と飛雄馬は思わず吹き出し、それから、しまった!と口元を手で押さえる。
「笑ってくれて構わんよ。ぼくらしくないときみは言うのだろう」
「…………」
あの花形さんが、ねえちゃんに恋をしてここまで取り乱すとは。
人間、わからんものだな。
飛雄馬は目を伏せつつ、砂糖とミルクを注ぎ入れたコーヒーを啜る。
きっと花形さんはねえちゃんに、それとなくこのコーヒーのことを訊くだろう。
それをきっかけにふたりはより一層、距離を縮め、親睦を深めるのだろう。
おれが知らないねえちゃんを、おれが知らない花形さんを、互いにそれぞれ知っていくのだ。
おれはいずれ、花形さんを義兄と呼ぶことになるのだろうか。
まさか、考えすぎだな。
ふふ、と飛雄馬は再び吹き出し、星くん?と訝しげに尋ねてきた花形に対し、何でもない、と首を振った。
「それにしても、ファンレターの件についてはぼくも勉強になった。考えてみれば一生懸命書いてくれたファンに対し印刷では礼を欠く」
しまった、また考え事をしていた──と飛雄馬はやや俯けていた顔を上げると、花形に淡々と己の思いを告げる。
「花形さんとおれじゃ届く枚数も違うでしょうし、おれがやっていることが正しいとも思いません。選手それぞれに合った返信の仕方や方法があっていいと思います。ただ、おれは、せっかくならちゃんとお礼が言いたくて」
「…………フフ、それでは星くん。返事を書くのを再開させたまえ。ぼくは失礼させてもらうよ」
いつの間にか中身を飲み干していたらしいカップをソーサーの上に戻し、花形はおもむろに立ち上がる。
「あ、どうも……」
「なに、礼を言うのはこちらさ。星くん……きみには色々と教えられることが多い」
「おれが、花形さんに?」
いつになく花形の瞳が怪しく光るのを目の当たりにし、飛雄馬は思わず視線を逸らす。
花形さんの瞳はおれのすべてを見透かす気がして恐ろしい。
今だって、慌てて目を逸らしはしたものの、握った拳の中はじっとりと汗をかいている。
距離を取っているのは花形さんではなく、おれの方。何を話していいのか、何を話せばいいのかわからなくなってしまう。
明子さんによろしく、の声に飛雄馬はハッと我に返り、玄関先へと向かう花形の後を追う。
「ねえちゃんには花形さんが来たこと、伝えておきます」
靴を履こうとする花形に飛雄馬は靴べらを手渡しつつ、姉の名を口にした。
「いや、明子さんにわざわざ伝えるまでもないさ。心配させてしまうからね」
しかして花形は飛雄馬の発言を一蹴し、渡された靴べらを使い靴を履く。
「は、はあ……?」
靴べらを受け取り、飛雄馬は首を傾げる。
「それでは星くん、今度は我が阪神タイガースの本拠地である甲子園で会おう」
「……!望む、ところだ」
花形が挑発するように紡いだ言葉に、飛雄馬は今までの態度を一変させ、彼を睨み据えるとその瞳に闘志を宿す。
「…………」
ニッ、と花形は口元を歪め、何も言いこそしなかったが、得意の笑みを浮かべたまま部屋を出ていく。
重い金属製の扉が、音を立てて閉まるのを見届けてから飛雄馬は鍵を締めると、その足でベランダへと向かう。
と、そう間を置かずに、マンションの駐車場から花形の乗る黄色のスポーツカーが車道に躍り出るのが目に留まり、飛雄馬はその姿が見えなくなるまでずっと、ベランダに立ち尽くしていた。