共依存
共依存 降られてしまったな、と飛雄馬はずぶ濡れの格好のまま、自宅のあるマンションの廊下を歩く。
突然の雨。待ちゆく人々も飛雄馬と同じように濡れ、足元が濡れるのも厭わず雨宿りできる場所を求め、駆け足で通り過ぎていく──降り出したのがマンションの近くであったことはせめてもの幸運だろうか。
ふと、飛雄馬は部屋の扉の前に佇むものが、もぞりと動いた気がして歩を止める。
雨で冷えた体の、その背筋を更に冷たいものが滑り落ちて、首を振る。
そういえば、誰かが自宅にファンが押し掛けて来て追い返すのに骨が折れたと言っていた気がする。
もぞもぞと未だ動き続ける何か──もその類だろうか。飛雄馬は相手が諦めるのを待とうかとも考えたが、冷えた体を温めることが先決だ、と意を決し、恐る恐る、扉の前にいる何か──の傍に歩み寄った。
「…………!」
そうして、距離を縮めたことでようやく判明した人物──の正体に息を呑み、飛雄馬は、伴、と彼の名を呼んだ。
「星、何度か電話したんじゃが、応答がなかったもんでつい……」
「今日は親父さんの用事でうちには来れないと言っていなかったか」
正体不明の何者かが親友・伴であったことに安堵し、飛雄馬は笑みなどを口元に携えつつ、部屋の鍵を開ける。
「気まぐれ屋の親父じゃからな。実家に顔を出してみれば親父は不在で、留守を預かるように言われた秘書からは今日はもう帰っていいと言われてのう」
「ずいぶんな仕打ちだな」
「まったくよ。腹の虫が治まらんわい」
玄関先で濡れた靴と靴下を脱ぎ、飛雄馬はシャワーを浴びてくるから適当に寛いでいてくれと伴に告げ、濡れた体を温めるために浴室へと入った。
それから、熱い湯を浴び、髪と体を洗ったところで浴室を出、伴の待つリビングを素通りし、自分の部屋で下着と上下の衣類を身に着けると、改めて親友の前に姿を現す。
「めしは食ったのか」
窓辺のテレビの前に並べたソファーに腰掛けている伴に飛雄馬はそう、尋ねる。
「おう、近くのラーメン屋で食ってきたわい」
伴は答え、炒飯と餃子のセットにしたら途中眠くなって参ったわいとも続けた。
「ふふ、それはよかった。おれも夕食を食べた帰りに降られた次第さ」
「まったく。親父のせいで休日が無駄になったわい」
「まあ、そう言うな。心配してくれる親がいるのは羨ましいと思うぜ」
肩に掛けたままになっていたタオルで髪を拭い、飛雄馬はばつが悪そうにしている伴の顔を見つめる。
「いい加減子離れしてほしいもんじゃい。いつまでも口出ししてきおってからに」
「親父さんは伴には安定した人生を送ってほしいんだろうさ。ベンチ温め要員としてではなく……」
コーヒーでも入れようかと飛雄馬は言ったが、伴はお構いなくと答え、星はどう思っちょる?と反対に今度は質問を投げ掛けてきた。
「どう、とは?」
「おれがいなくなってもいいのか?」
「それは、困るが……おれとしてはおれの女房役として終わるのではなく、一軍の正捕手は無理としても打者として活躍してほしいと思っとるさ」
「なに、その一言が聞けただけでこの伴宙太、大満足じゃい」
ソファーに座ったまま、伴は自分の胸を拳でドンと叩き、にっこりと飛雄馬に笑いかける。
「おれはきみのためを思って……」
「心配するな星よ、おれは星のそばを離れるつもりはないぞい!」
ふいに立ち上がった伴が、飛雄馬の体をぎゅうと掻き抱く。急いでここまで来たのか、汗の匂いがほのかに香る、温かな腕とその力強い抱擁に、飛雄馬は伴の腕の中で頬を緩めた。
伴はそう言ってくれるが、おれはいつまで、ここに縋っていていいんだろうか。
彼の無邪気な笑みに救われていていいんだろうか。
そんな不安はいつも付き纏うが、それでも今はこの温かさに溺れていたい。
「ほ、星……」
「またか、たまにはしない日があってもいいんじゃないか」
がばと飛雄馬から距離を取った伴が、目を閉じ、唇を尖らせた。飛雄馬は苦笑し、顔を僅かに傾けると伴の唇へと自分の顔を寄せる。
「雨なんて聞いてなかったのに……」
その刹那、突如として玄関の扉が開き、飛雄馬の姉・明子が顔を覗かせた。
「……!」
「あら、伴さん、いらしてたの」
「お、お邪魔しとりますわい。明子さぁん」
明子の登場に慌ててふたりは距離を取り、伴は取り繕うように笑うと、自分の頭を掻く。
飛雄馬は、濡れた上着を脱ぐ明子に対し、コーヒーでも入れようかと問い掛ける。
「あら、ありがとう。夕飯は食べたの?姉さん、先にシャワーを浴びてもいいかしら」
「うん、おれもさっき浴びたところさ」
「体を冷やさないようにね。飛雄馬もだけどもちろん伴さんも」
「あ、ありがとうございます。おれにまでそんな……」
伴の言葉に微笑みを返し、明子は一度自室に入ってから先程の飛雄馬と同じく浴室へと消えていく。
シャワーの水音か、雨のそれか判別のつかぬ音が部屋の中には微かに響き渡る。
「…………」
「そろそろ帰るわい。急に訪ねたりしてすまんかったのう」
「気を付けて帰れよ。さっきのねえちゃんの言葉じゃないが、体を冷やさんようにな」
「おう……」
のそのそと大きな図体を揺らし、玄関先へと向かう伴を見送るべく、飛雄馬は彼の後ろ姿を追う。
そうして、靴を履き、こちらを振り返った伴に、また明日な、とそんな言葉を囁く。
「星、明日からも一緒に頑張ろうぜ」
「おれが今、そう言ったじゃないか。傘、持っていくといい」
玄関先の傘立てに刺さっている一本に飛雄馬は目線を遣り、伴に持っていくように勧めた。
「そ、それはそうじゃが……いいじゃろ。別に。お言葉に甘えてお借りするわい」
「…………」
「…………」
ふたり、顔を見合わせてから、そっと唇を重ね合わせる。
「…………」
「星、また明日」
「ああ」
名残惜しそうに部屋を出て行く伴が扉を閉めるのを見守り、飛雄馬は浴室から出て来た姉を振り返る。
「あら、伴さん、お帰りになったの」
「今日は元々会う予定じゃなかったからね」
「そんなこともあるのね。姉さん、あなたたちはいつも一緒だと思っていたわ」
「そりゃあ伴だって家の用事だったり……色々、あるさ。いつも一緒というわけにはいかないよ」
「ふふ……そうよね。伴さんにも伴さんの生活があるのよね。飛雄馬、姉さんのことは気にせず休んでちょうだいね。明日も早いんでしょう」
「うん……じゃあ、おれは休むことにするよ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
それだけ言い残し、飛雄馬は自室へと引き籠ると、暗い部屋の中でベッドに潜り込む。
雨の音が耳について、眠れそうもない。
しかし、無理にでも眠らなければ明日の試合に支障が出てしまう。
伴、きみはおれに気兼ねして本音を言えないんじゃないのか。今日だってそのまま寮に帰ればよかっただろうに、わざわざここを訪ねて来てくれた。
優しいきみだから、おれのためを思って、自分を抑え込んでしまっているんじゃないのか。
おれは、怖い、いつか来るであろう別れが。
「伴、おれは、きみがいなきゃ……」
飛雄馬はベッドの中で寝返りを打つと、先程別れたばかりの友人の顔を思い浮かべ、ぎゅっと唇を引き結んだ。雨は未だ、激しく降り続いている。