薫風
薫風 球を捕れる捕手がいてこそ投手は輝く。
飛雄馬はゴクリ、と生唾を飲み込んで、己の立つ位置からある程度離れた先にいるキャッチャーマスクとプロテクターを装着した男の姿をじっと見据えた。
飛雄馬が青雲高校に入学して、早いもので間もなく一ヶ月が過ぎようとしている。
それは即ち、飛雄馬の目線の先にいる彼──伴宙太と出会ってからの月日もそれと同じくらいと言うことになる。
弱小野球部の応援団長を買って出た元々、柔道部の主将を務めていた伴と飛雄馬の出会いはそれこそ最悪であった。
父親の権威を笠に、はたまたその腕っ節の強さを武器に野球部顧問の天野先生までをもいいように扱い、幅を利かせていた彼を一喝したのが飛雄馬だった。
今まで、伴自動車工場社長の一人息子という肩書きも手伝い、学校内だけでなく知り合う人々にはかしずかれ、褒められることはあっても貶されることなど未だかつて経験したことのなかった伴にとって、飛雄馬の叱咤はそれこそ青天の霹靂に近いものがあった。
しかして今、彼は青雲高校野球部に正式に入部し、飛雄馬の捕手として豪速球を見事受け留められるまでになっている。
「おうい星ぃ、さっさと投げんかあ」
「あ、ああ」
そんな声が飛んで、飛雄馬はモーションを起こすと構える伴のミットの中に球を投げ込んだ。調子は最高に整っている。伴のミットが球を受けた際に響いた乾いた音もそれを如実に物語る。
「いいぞ〜星ぃ。もういっちょう!」
球を投げ返しながら伴が叫ぶ。飛雄馬はそれを右手で受けると、帽子のひさしを抓んで目深に被り直した。
今でも昨日のことのように思い出す。うさぎ跳びでダイヤモンドを周った日、その晩に伴宙太は飛雄馬の家を訪ねてきた。
青雲野球部の正捕手でさえ捕れなかった星の豪速球をおれが捕手となって受け留めてやる、そう、伴が言ってくれたあの日のことを飛雄馬は一生忘れることはないだろう、と思う。
名門・巨人軍に入団するためにはまず甲子園に行くのが第一条件であり、そこでどう活躍するかによって今後の全てが決まると言っても過言ではない。
いくら速い、誰も手出しのできない球を投げることが出来ようとも、それを受ける捕手が存在しなければ、投手など何の役にも立たない。ただでさえ飛雄馬は投手一本槍で来ている。
打つ方はからっきしであるがゆえに、なおのこと左腕から全身全霊をかけ繰り出す豪速球を受ける相手がいなければ甲子園出場など夢のまた夢だ。
飛雄馬は右手のミットで受けた練習用の硬球を手にすると、じっとそれを見つめる。 近くでは他の野球部員たちがそれぞれに打撃練習をしたり、投球練習をしている声が飛雄馬の耳には入る。
「星ぃ?調子でも悪いのかあ」
叫びながら伴は曲げていた膝を伸ばし、立ち上がった。すると一陣の風がグラウンドに吹き荒れて、辺りは騒然となる。
帽子が吹き飛ばされた者もいれば、目に土埃が入って呻く者も見て取れ、伴は参ったなとばかりにキャッチャーマスクを額まで上げると、球を見つめたままの飛雄馬の元に駆け寄った。
「すごい風じゃったのう、星ぃ。どうした。考え事かあ」
「………青雲に入学してよかったと、しみじみ考えていた」
「な、なんじゃあ、藪から棒に」
「そして伴、きみに出会えて良かった」
球を握り締め、飛雄馬は伴を仰ぐ。
程よく日に焼けた飛雄馬の頬は体を動かした熱気のためか赤く染まっており、澄んだ大きな黒い瞳が笑みの形を作って、口角はニコリと上がった。
その表情をまともに見てしまったために、伴はかあっと頬を赤くして、顔を逸らす。 ああ、なんて良い表情をするんだろう。こんなに屈託のない笑みを向けられたのは果たしてどれくらいぶりだろうか、と伴は吹き出す額の汗を拭いながら考える。
自分のそばにいたのはおれの肩書きやその裏にいる親父に用がある者ばかりで、誰一人として伴宙太個人を見てくれるものはいなかった。
柔道の世界だってまったく手応えなど感じられず、練習にも身が入らない日々が続いていたところで、のらりくらりと子供のままごとのような野球をやっているわが校の野球部が目に入った。
いい暇潰しになればいいと思った、ただそれだけのこと。
親父は何でも紅洋高校の天才打者などと呼ばれている商売敵の花形モータースの息子が野球部にいるということで、何としても打ち負かしたいとの考えで野球部育成には力を入れていると聞いたが、この体たらく。いい玩具になると思った。親父の魂胆などどうでも良かった。
まり打ちまり投げなどちゃんちゃらおかしいと、そう、あの日まで、星飛雄馬という男に出会うまでは、そう思っていたんだ。
「き、急になんじゃい、そんなこと言うてもだな、何も出らんぞい」
「ふふ………別に何も期待しとらんさ。伴が何か考え事か、と訊いてきたから答えたまでで」
「少し休憩を取る!五時まで各自水分補給なりをするように!」
突風の悲劇を見兼ね、顧問の天野先生がベンチから叫んだのを聞き、伴と飛雄馬はそれぞれ顔を見合わせると、行こうぜ、と走り出す。
この数日後、花形率いる紅洋高校が練習試合を持ち掛けてくるなど今は知る由もない二人は五月の麗らかな陽気の中、爽やかな風を受け、グラウンドを駆けた。