公衆電話
公衆電話 【受話器を手にもしもし、もしもしと幾度となく繰り返すが、電話の向こうからは何の応答もなく、その内にブツッと切られることがおよそ1ヶ月前から続いている。
電話がかかってくるのは曜日も時間もバラバラで、自分が出社してすぐのときもあれば、はたまた昼休憩後のこともあり、どうにも気味が悪い】
という相談を伴が秘書から受けたのが、今朝のことであった。
なにぃ?無言電話?と伴が血相を変え、訊き返すと、彼女は青ざめた顔をして頷き、今日もついさっきかかって参りました、と震える声でそう言った。
うちに無言電話とは相当暇なやつもおるもんじゃのう、と伴は時間も曜日も関係なくかけてくる相手に対し、時間が有り余っとるくらいならわしと代わってほしいわいとひとりごちつつ、秘書に対し、これからはかかってきた電話は自分が取るから、書類作業をしちょれと指示を出すと、特注の社長椅子に座り、デスクの上に置かれた電話機を睨む。
無言電話などと言う嫌がらせをしてくるということは、どこかのライバル会社だろうか。
しかし、昭和を50年も過ぎた今、そんな古典的で陰湿な嫌がらせをしてくるとはよほどの馬鹿か暇な人間と見た。
次かかってきたら、顔を見せろと怒鳴り散らしてやるつもりで、伴は椅子に深く座ると腕を組み目を閉じる。
ああ、それにしても、こんな時でも目に浮かぶのは星の顔なんじゃなあ、と伴は唇を引き結び、脳内に生き別れとなってしまっている親友の姿を思い描く。
別れて、もう何年になるだろうか。
季節は何度巡っただろうか。
もう、会えないんじゃろうか。
目を閉じたまま、親友に思いを馳せる伴は電話の呼び出し音が鳴るなり、目を見開くと受話器を掴み耳に当てた。
そうして、息を肺いっぱいに吸い込むと、「きさま、伴重工業に無言電話とはええ度胸しちょるのう!名を名乗れ!」と大きな声で怒鳴り散らす。
伴の怒号で部屋の窓ガラスはビリビリと震え、秘書は自分の両耳の穴を指で塞いだ。
『……宙太、無言電話とは何の話じゃ』
「おっ、おやじ!?」
無言電話の主と信じきっていた電話口の相手が、まさか自分の父であったとは思いもよらず、伴は素っ頓狂な声を上げた。
『仕事に来とるか心配でかけてみたはいいがまさか怒鳴られるとはのう』
「う、うう……ち、ちぃと、取り込み中じゃい!わしが出社しとるのは分かったじゃろ!またかけ直すわい!」
『宙太!?待て!話はまだ終わっとらんぞ!宙太!ちゅ……』
父の伴大造が呼びかける声も無視し、伴は送話器目掛け、受話器を叩きつけると、ふう〜と大きなため息を吐いてから、秘書にニッと微笑みかける。
「びっくりさせてすまんのう。次は間違わんようにするわい」
そんな言葉を伴が口にした刹那、再び、デスクの上の黒電話がけたたましく鳴り始めた。
ドキッ、と伴の巨体が椅子の上で跳ね、秘書の顔からもさあっと血の気が引く。
また親父だろうか。
それとも、取引先の営業から、はたまた贔屓にしている料亭からツケの催促の電話か。
部屋中に響き渡る無機質な呼び出し音を耳にしながら、伴の頭の中では様々な考えが浮かんでは消える。
「出ましょうか」
秘書が声を震わせつつ、黒電話の受話器を取ろうと手を伸ばしたのを制し、伴はそれを汗ばんだ手で握ると耳に当てた。
沈黙。
互いにしばし無言のまま、時が過ぎる。
「もし、もし?」
電話応対で、こんなに緊張したことがかつてあっただろうか。
過去、慣れぬ敬語を遣うことに気を取られてしまいメモを取ることを忘れ、かけ直したり、取り次ぐな、取り込み中と言えと合図を送る親父に気付かず、そのまま受話器を手渡してしまったこともあったが、電話に出ることがこんなに恐ろしいと思ったことは伴自身、初めてのことだ。
「…………」
「だ、誰じゃ……あ、いや、どなたですかのう。ここは、この電話は伴重工業に繋がっちょるが、何か用なら、まず受付を通し、アポをじゃな……」
「…………」
「き、聞こえとるんなら返事くらいしたらどうじゃ!気味が悪い!ふざけるのもいい加減に────」
「……伴、か」
「あ……!?」
ぽつり、と電話口の相手が呟いた言葉に、伴は頭に昇った血が急速に冷えていくのを感じる。
「…………ふ、ふ。声が聞きたかったといえば未練がましいが、一言、おれは元気だと伝えたくてな。電話応対をしてくれた彼女には、気味悪がらせてすまなかったと伝えてほしい。伴も、体には気をつけろ」
一瞬の間ののち、電話口の相手は至って穏やかな口調で、淡々と言葉を紡いでいく。
伴が毎日、まぶたの裏に描き続けた彼の声。
伴は己の鼻の奥がじわじわと熱くなり、瞳が潤むのを感じながらも、それを相手に悟られぬように堪えつつ返事をした。
「ほ、星?!星か?きさま、本当に」
「…………」
応答のないまま、ブツッ、と電話はそこで切られ、残るはツーッという相手との通話を遮断したことを知らせる無慈悲な不通音だけである。
「ほ、し…………!」
呼びかけてみても、何ら言葉は返ってこず、伴は手にした受話器を強く握り締める。
「ば、伴常務……?ホシ、とは?」
「…………もう、電話は来んから、安心せい」
「は、はあ?!」
「…………」
受話器を所定の位置に置き、伴は椅子に深く座るとぼうっと虚ろな目で天井を仰ぐ。
ああ、そうか……星は、元気なのか。
そうか、この日本中のどこかで、元気にやっとるんじゃのう。
つうっ、と伴の目尻から涙が溢れ、頬を伝う。
驚き、目を瞬かせながら制服のスカートのポケットからハンカチを取り出し、手渡してきた秘書に、大丈夫じゃい、と目元を押さえつつ、伴は彼女に背を向けると、その肩を小さく震わせる。

ふと、内部で人知れず、そんなやり取りが繰り広げられている伴重工業の自社ビルを、公衆電話ボックスから出てきた長髪姿のサングラスをかけた青年がじっと見上げていたが、行き交う人々の雑踏の中に紛れるようにして彼もまた、歩み始めた。