困憊
困憊 キィっ、と部屋の扉が開く音で伴は目を覚ます。
廊下から微かに漏れる明かりが眩しく、伴は星か?と扉の隙間の向こうに立っているらしき青年の名を呼ぶ。
と、呼ばれた彼は、その声に反応したか、部屋の扉を閉めるのもそこそこにふらふらと覚束ない足取りで伴の横たわるベッドまでやって来ると、そのままベッドの上へと倒れ込もうとする。
危うく、自分の上になんの受け身も取らず倒れてこようとする彼の体を間一髪のところで腕を伸ばし、伴はぎゅうと己の懐に抱き締めた。
「あ、あ……伴よ、ここはきみのベッドだったか……」
「ええんじゃい、星。疲れとるんじゃろう。さっさと眠るとええ」
「伴……ふふ、やっと森さんも捕れるようになってくれた……これで、公式試合でも、使える……」
ぼそぼそと小さな声で伴の胸に顔を埋める彼──星飛雄馬は呟き、自分を抱く男の背中へと腕を回す。
彼が──星飛雄馬が新たに開発した魔球を監督以下、ONらに披露したのがつい数日前のことであったか。
打撃の神様と呼ばれた川上哲治でさえもあまりのことに驚き、目を丸くした消える魔球。
まるで夢でも見たのではないか、と皆が呆気にとられ、ぼうっとなってしまっている中、巨人軍の正捕手、森祇晶と星飛雄馬との秘密の特訓は開始された。
いくら飛雄馬が消える魔球を正確に投げられたとしても、その打者の後ろにいる捕手がミットに収めることが出来なければお話にならないのだ。
打者の立つ位置まで到達する前に、忽然と姿を消す球を捕るには相当な練習をこなす必要がある。
高校時代からの親友である伴に対しては飛雄馬も少し甘えの面が出て、しっかりと捕れない彼に対して野次や冗談が飛ぶこともあった。
しかして、正捕手を務める森祇晶は飛雄馬よりもだいぶ年上であったし、何より、大先輩でもある彼に対し、しっかり捕ってくれよ、なんてことは口が裂けても言えなかった。
だからこそ、飛雄馬は肉体的疲労はもちろんだが、精神的に疲れ果ててしまい、こうして、本来ならば自宅のあるクラウンマンションに帰るべきところに、以前、入寮していた宿舎を訪れてしまった、というわけだった。
「お疲れさまじゃい、星。おればかり先に休んですまんのう」
「いや……おれの方こそ、部屋を間違えたりなんか、して…………」
言いつつ、飛雄馬は訪れたらしき睡魔に抗うこともせず、薄汚れたユニフォーム姿のまま伴の腕の中で眠りにつく。
明日、少し早めに起こしてやって家でシャワーくらい浴びるように言ってやらんとな、と伴は、眠ったせいでやや重くなった飛雄馬の体を自分のベッドの上へと横たわらせてやった。
少し、星のやつ、痩せたんじゃないだろうか、と体の上に布団をかけてやりながら伴はそんなことを思う。
体格のせいか、元々あまり量を摂らない星はここのところ練習漬けでろくにめしを食う暇もないと言っていた気がする。
食うよりも寝ることが優先で、帰宅するとすぐこうして眠ってしまうのだ、と。
ただでさえ体力を必要とするプロの野球選手が太るならまだしもだんだんと痩せていくなんてことはあってはならんことだろう、と伴は飛雄馬の眠るベッドの前に椅子を持ってくるとそこに腰掛ける。
しきりにあざだらけになったおれのことを心配してくれていたが、1番に気遣うべきは己のことだろうに。
「星は、どんどん駆け上って行ってしまうのう」
たったひとり、共にジャイアンツに入団したおれを置いて星は行ってしまう。
それでええ、それでええ。
おれは星のためにジャイアンツに入ったようなものじゃからな。
青雲生だった時分に、牧場春彦から事の真相を聞いたときには取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
だからこそ、他人のために自分の身を犠牲にする星を近くで見守り、そのせいで傷付いた星を支えてやれたらと思った。
他人の痛みや苦しみ、悲しみを自分の事のように感じてしまう星だからこそ、その悩み苦しみは人一倍だろう、と思ってのこと。
それなのに、星はおれの手の届かぬところに行ってしまう。
おれは同じジャイアンツにいながらも、遠くで見ていることしかできない。
活躍できないことが悲しく、辛いのではない。
星のそばにいてやれないことが何よりも辛い。
「ばん……伴、近くに、いるのか」
「ほ、星?なんじゃ、どうした。どこか痛むか?湿布か何か貰ってきたほうがええかのう?」
ふと、目を開けた飛雄馬が伴を呼び、呼ばれた方は椅子を後ろに倒さんばかりに勢いをつけ立ち上がった。
「いや、いてくれたのならいい……ふふ、やっぱり、伴がそばにいてくれた方がよく、眠れる……」
慌て、飛雄馬のもとに駆け寄った伴に飛雄馬はニッ、と微笑むとまた再び目を閉じ、寝息を立て始める。
一瞬、呆気にとられた伴だったが、そういえば明子さんも夜はアルバイトに出てほとんど家にはいないと言っていたか、とあの広いマンションの部屋を思い出す。
星は夜はあの部屋でひとりぼっちなのか。
疲れた体や心を労ってくれる人間はすぐそばにはおらんのか。
「…………」
伴は飛雄馬の気持ちよさそうにすやすやと眠る寝顔を見下ろしつつ、グスッと鼻を鳴らすと、座っていた椅子に再び腰を下ろし、目元を数回手で拭ってから、彼もまた少し睡眠を取るためにゆっくりと目を閉じたのだった。