硬貨
硬貨 ええ!本当にいいの?と渡した50円玉を前に、目を丸くした弟の顔を思い出しながら明子はクスクスと笑みを溢した。
お父さんが日雇いに出たお金が少しあるから、久しぶりに駄菓子屋さんで好きなお菓子を買ってくるといいわ、と小さなマメだらけの手に硬貨を握らせ、背中を押してやってからかれこれ1時間ほどになるだろうか。
擦り切れ、穴の開いてしまった父と弟の靴下にそれぞれ継ぎを当て、丁寧に縫い合わせながら明子は、駄菓子屋できょろきょろとあの大きな瞳を輝かせどれにしようかと考えあぐねている弟を想像して、再び微笑む。
今日も珍しく父は日雇いに出ている。
けれどもこれも、いつまで続くことだろうか。
かつては天下の名門、巨人軍で活躍していた自負もあるらしく、父は何かと雇い主と揉め事を起こしては仕事に行くのを辞める。
そうして、お酒を飲んでは巨人への恨み事のようなことを呂律の回らぬ口で口走り、最後には決まって、「飛雄馬!グラブを持って外に出ろ!」と来るのだから堪らない。
弟は夜中じゅう投球をさせられ、寝不足のまま学校に行ったことも1度や2度ではない。
その度に、私は父が酒を飲み、眠っている間に長屋中を回って、昨夜はうちの父がすみませんと謝り倒すことになるのだ。
逃げたいと思ったこともそれこそ、何度もある。
しかして、学もない女の身で何ができると言うのだ。母が今際の際に、お父さんと飛雄馬を頼むと言った一言が、いつまでも耳にこびりついてしまっている。
私は一生、ここでこうして過ごすのだろうか。
いつか本当に弟が、巨人軍に入ることができたら、この生活も変わってくれるのだろうか。
巨人の星になる、という夢は、父や弟のものだけではなく、きっと私自身の夢でもあるのだろう。
そこまで考えつつ、一心不乱に繕いものをしていた明子だったが、それにしてもやけに弟・飛雄馬の帰りが遅い、と柱にかけられた時計を仰ぐ。
駄菓子屋まで、飛雄馬の足なら往復で1時間程度だろうに。
裁縫に集中して時間を忘れていたようで、送り出してからもう2時間になる。
まさか、事故にでも、それとも誘拐?
そんなことを考えると居ても立ってもいられず、思わず裁縫を途中で切り上げ、外出の支度を始めた明子だったが、入り口の引き戸が開くと共に、「ねえちゃんただいま」と聞き慣れた声がしたために、思わず畳の上にへたり込んだ。
「あれ?ねえちゃん、どうしたの。よそ行きの格好なんてしちゃってさ」
「ひ、飛雄馬……あなたの帰りがあんまり遅いから心配になって……」
「あ、そのことかい。ごめんよ、ねえちゃん。駄菓子屋でどれにしようか悩んでたらつい遅くなっちゃって」
「ごめんなさい。私も送り出しておきながら取り乱したりして」
へへ、と頭を掻く飛雄馬を優しく迎え入れ、明子はホッと胸を撫で下ろすと、あと少し残っていた繕いものを再開させる。
「ねえちゃんは心配性だなあ。こんな貧乏くさい身なりのやつを誘拐する物好きがいるはずないだろう」
「それはわからないわ。世の中、色んな人がいるもの。それで、何を買ってきたの?」
糸切りハサミで玉止めをした箇所を切り離しつつ、明子はそう、飛雄馬に問いかけた。
「色々、悩んだんだけど、結局買わないことにしたんだ。うち、父ちゃんがあんなだからねえちゃんがいつも苦労してるの知ってるからさ。この50円があれば銭湯にも行けるし、とうちゃんの飲み代の足しにもなるだろう」
言いつつ、明子に対し飛雄馬は50円玉を差し出してみせる。
「…………!」
明子は飛雄馬から手渡されたばかりの、体温が移りぬるく温まった硬貨に、一瞬にして自分の目頭が熱くなるのを感じる。
弟を喜ばせようと渡した50円に、まさか自分が泣かされるとは夢にも思わなかったからだ。
飛雄馬!と名を呼ぶなり、明子は弟を抱き締め、嗚咽を漏らす。
「な、なんだい急に。苦しいじゃないか」
弟に、父は何をさせようと言うのだろう。
寝不足のせいだろうか、はたまたあの薄気味悪いギプスのせいだろうか、体は同じ年頃の子供たちと比べると明らかに小柄だというのに。
「飛雄馬、頼りにならない姉さんでごめんなさいね」
「そんなこと言うもんじゃないぜねえちゃん!ねえちゃんがいてくれるからおれだってあの親父と一緒に暮らしていられるんだ」
明子は腕の中から抜け出るなり、そんな台詞を豪快に吐いた飛雄馬を見遣ると、目元に浮かんだ涙を指で拭う。
「ふふ、飛雄馬ったら」
「あ、あ〜あ。腹減ったぜ、ねえちゃん。今日のおかずなんだい?」
照れ隠しからか、話題を逸らし、視線を泳がせる飛雄馬に今から支度するわねと告げ、明子は台所へと立つと米櫃から出した米を研いでいく。
弟には、自分の人生を歩んでいってほしいと思う反面、夢を叶えることで、私をここから連れ出してほしい、と思うのは、自分勝手すぎるだろうか。
私も、父を忌み嫌っておきながら、弟に己の夢を託している時点で、結局同じなのだろうか。
「………………」
明子は、腰に巻いたエプロンのポケットに仕舞い込んだ硬貨が今は妙に重い気がして、ふと、米を研ぐ手を止めた。