孤独
孤独 ポケットから鍵を出して、鍵穴にそれを差し込んでからカチャリとそれを回す。
新築のマンション。近隣住民との交流はほとんど無いに等しい。
しばらく、一緒に暮らしていた姉は家にいることが多かったせいか、右隣の部屋は親子3人暮らしで、とか、左は老夫婦と犬が1匹とかそう言った内部事情に詳しく、試合や練習が終わったあと、マンションに帰ってくると何やら扉の前で話し込んでいることもあった。
長年の長屋暮らしで染み付いたいわゆる処世術と言えばそうだろうし、近所付き合いも大変だな、とその時は思った。
今になってみれば、自分も何かしら付近の住人と言葉を交しておくべきだっただろうか、と、飛雄馬は苦笑しつつ、重い扉を開け、暗い部屋の中に足を踏み入れた。
しん、と静まり返った無機質な部屋。
今では出迎えてくれる姉もおらず、くだらない世間話に付き合ってくれる親友の姿もない、自分一人では掃除をするのも手を焼く広い室内。
鍵を閉め、所定の場所に鍵を置いてから部屋の明かりを付けてそのままソファーに腰を下ろす。
ひとりとは、こんなに寂しいものだっただろうか、と天井をぼんやりと仰いで物思いにふける。
試合や練習でくたくたになって家に帰れば明るい部屋の中に姉がいて、温かい料理を作って出迎えてくれたし、その姉が行方知れずになったときも親友が励ましてくれたし、いつも何も言わずそばにいてくれた。
親友の伴が常に隣に寄り添ってくれているのが当たり前で、そんな日々がこれからも変わりなく続いていくのだと、ただ漠然とそう思っていた。
このソファーに並んで座って、伴が好きだと言う歌手の流行りの歌を口ずさむのを聞いたのが昨日のことのようで、テーブルの上に置いた読みかけの栞を挟んだままの本だって彼と一緒に本屋に買いに行ったもので、この部屋には姉との思い出以上に伴の姿を彷彿させるものが多すぎて、ひとりでいると息が詰まる。
ひとりで眠るベッドの冷たさと微かに残った伴の匂いが切なくて、悲しくて、辛くて、それでも、野球以外のことを何も知らないおれはその寂しさを紛らわす手段も分からなくて、友達と呼べる人間もいなくて、ただひとり、部屋に篭って明日を待つことしか出来ない。
おれは強いはずだった。父ちゃんに怒鳴られても殴られても涙を堪えて、耐えてきたはずだった。
野球しか知らなくても、その道一筋で生きていけば何ら困ることはないと思っていたし、クラスメイトたちやチームの先輩方と流行りの芸能人や歌謡曲の話ができなくったって、野球のルールを完璧に覚えてそれさえ守れば、誰にも迷惑をかけることはないと思っていた。
でも、それは傍らにいつも見守ってくれている人がいたからそう思えただけで、ひとりぼっちになってしまった今、何もおれには残っていない。
川上監督から与えられた栄光の背番号をつけたユニフォームを着ている間はチームの皆の足を引っ張らないようにと気を張っていても、ひとたび、自宅に帰ればこの始末で、定食屋でひとりで食べる夕食は何の味もしない。
わざと人の多い店を選んだところで、余計自分の孤独さが浮き彫りになって惨めになるだけで、あんた巨人の星だろうなんて言われた日には返事をするのも辛かった。
「…………」
冷えた体を暖めるために何か飲もう、とソファーから立ち上がり、食器棚からカップを取り出そうと戸を開けたところにひとつ、カップが転がり出て、当たりどころが悪かったか床の上で音を立てバラバラに弾けた。
ああ、おれの心のようだ、と口元に笑みを湛えて、膝を折り破片を拾う。
ずっとひとりで耐えてきて、抱え込んで、少しずつ入るヒビに気付かない振りをして、愛想笑いでごまかして、遂には壊れてしまった。
それでも、おれは壊れた破片を懸命に繋ぎ合わせて、継ぎ接ぎの心の傷を誰にも悟られないように仮面をかぶって、明日もまた16を背負ってマウンドに立つ。
「………っ!」
考えごとをしながら伸ばした手が見当違いの破片に触れて、鋭い切っ先が指を刺す。
きちんと物事に向き合わなければ痛い目を見るし、ロボットだと言われたおれにもちゃんと赤い血は流れているのだな、と、指先からじわじわと溢れる鮮血を見下ろしつつ口角を上げた。
大方、大きな破片を拾い上げてから昨日の新聞でそれらを包んで、掃除機で細かい破片を吸うと、破片の刺さった指の痛みを堪えつつ、やかんに水を入れ、それをコンロにかける。
割れたカップは色違いで揃えた伴のもので、二度ともう使うことはないだろうな、とやかんの底を舐める青い火を眺めつつ考えた。
彼を思い出させるものは、今度整理をしてしまわなければ、おれはいつまで経っても伴に縋ってしまう。
その内、やかんの注ぎ口から湯気が立って、中の水が沸騰したことを知らせてくれた。
火を止め、カップにインスタントコーヒーの粉をスプーンで掬い入れてから沸かした湯を注ぐ。
ああ、なんだってこの匂いを嗅いで思い出すのは伴の笑顔なんだろう。
苦いのは好きじゃないとミルクをたっぷり注いでから砂糖を溶けきらないほど入れて、最後はジャリジャリと音をさせながら口を動かしていた彼の顔がどうして思い浮かぶんだろう。
泣かないようにと唇を引き結んだ頬に涙が伝った。
彼が幸せであるように、と、そう願って送り出したのに、どうしておれは彼の負担になることばかり考えてしまうんだろう。
「伴……!」
親友の名を震える声で呼んでぼろぼろと絶え間なく溢れる涙を拭うこともしないで冷たい床に崩れ落ちる。
その涙を拭ってくれる人はもういないし、震える肩を抱いてくれる人ももういない。
それでも、やり場のない感情を持て余して、ただひとり、声を殺して泣いた。