帰途
帰途 おや、星くん、と聞き覚えのある声で名を呼ばれ、飛雄馬はぎくりと身を強張らせる。
そうして、飛雄馬がおそるおそる、声のした方を振り返ってみれば、どうやら今から遠征先のホテルに帰るであろう阪神の背番号10を背負った彼と目が合った。
「今日はひとりかね、珍しい」
背番号10背負った彼──花形満、が飛雄馬との距離を詰めつつ、その大きな目を細めた。
「花形さんこそ、なぜこんなところに」
「ぼくの実家が神奈川にあるのは星くんもご存知のことと思うが、今日は監督に無理を言っての帰省さ。なに、車を飛ばせばすぐだからね」
フフン、といつものように鼻を鳴らし、花形は口元に笑みを携える。それは、大変だな、と当たり障りないことを呟き、飛雄馬はだったらこんなところで油を売ってないで、さっさと帰ったらいいじゃないか、と思いはしたものの、それを口に出すことはせず、飛雄馬は手にしたスポーツバッグの持ち手を握る指の力を強めた。
「何なら寮まで送ろうじゃないか。せっかくこうして会ったのだから」
「いいや、結構。気持ちだけでじゅうぶんだ。花形さんも早いところ神奈川に帰った方がいい。ご両親が花形さんに会えるのを楽しみにしているんじゃないか」
「……なに、どうせ帰ってもひとりさ。父は遅くまで帰ってこない。母も早くに亡くなっていてね」
飛雄馬はしまった、とまさかの花形の言葉に動揺し、うまく返事も出来ぬまま、唇を引き結ぶ。
早く別れたい一心で、無難なことを言ったつもりが、とんでもないことを口走ってしまったらしい。
とにかく、この場を切り抜けなければ、と飛雄馬はぐるぐると思考の回る頭でどうにかこの場をやり過ごす方法を探す。
まず、妙なことを言ってしまったことを謝罪するべきなんじゃないのか、いや、そんなことをしてしまえば却って失礼に当たるんじゃないのか。
こちらを見据える花形の視線が痛い。
申し訳ないことをしてしまった。
「…………」
「母親がいないのはきみも同じだろう、星くん。気にしないでくれたまえ」
「あ……」
飛雄馬は花形の言葉に、ホッと胸を撫で下ろし、表情を緩める。
「フフ、きみはわかりやすくていい。だが、それは短所でもある。動揺がすぐ顔や仕草に出て、われわれ打者に簡単に打ち込まれてしまう」
「そ、そう、かな。自分では気付かないけれど」
照れ隠し、と言うべきか、苦し紛れと言うべきか飛雄馬は自分の頭を撫で、微笑みを浮かべた。
この人とふたりきりの雰囲気にはどうしても耐えられそうにない。どうしても緊張してしまう。
大洋の左門さんと球場の外で巡り会っても、こうはならないのに。
いつも花形さんにやられてばかりだからこんなことを思ってしまうんだろうか。
考えてみれば、伴以上に付き合いの長い花形さんだが、ろくに話したこともないのだ。
思えば、不思議な縁で繋がっている。
「少しは自分の焦りや動揺を表に出さない努力をした方がいい、とぼくは感じるがね。これは皮肉じゃない、助言さ」
「あ、ありがとうございます、花形さん。まさか花形さんにこんなことを言われるなんて思ってもみなかった」
「いつもきみの近くには彼がいるからね。話しかけるのも一苦労さ。フフ、なんて、そんなことをもっともらしく言ってはみたが、ただの気まぐれさ。今日は偶然きみの姿を見かけたからね」
「…………」
それでは、星くん、また会おう、と何やら含みある発言を残し、去っていく花形を見送りつつ飛雄馬はしばらくその場に留まる。
花形さんは、伴のことを気にしていたのか?
まさか、花形さんがそんな些細なことを気にするとは思えない。今日は本当にたまたま──彼の言葉を借りるなら、気まぐれなのだろう。
それにしても、おれは花形さんに対する認識を、改めなければならんな──。
飛雄馬はわざわざ足を止め、助言をくれた彼のことを思い返しつつ、花形の去っていった方向に背を向け、自分もまた、寮に帰るべく足早に歩き出した。