帰宅
帰宅 ふと、夜中に目を覚ました飛雄馬は床に敷いた布団で眠る親友を起こさぬようにベッドから抜け出すと、部屋を出て、用を足してからリビングへ向かう。
すると、ちょうど姉の明子がアルバイトから帰宅したようで、玄関の辺りで物音がした。
「あら、飛雄馬。起きてたの。伴さんは?」
「おかえり、ねえちゃん。伴はとっくに寝てるよ。いつものことさ。それにしてもずいぶん、遅かったじゃないか」
「残業で遅くなってしまって……夕飯は食べた?」
「うん。ねえちゃんは?」
「今から食べるわ」
「何か作ろうか」
靴を脱ぎ、コートをハンガーへと掛ける明子を見遣り、飛雄馬は姉にコーヒーでも淹れてやるべく、台所へと立つ。
ありがとう、と明子は答え、リビングに置かれたダイニングテーブルに着くと、大きな溜息を吐いた。
壁掛け時計は二十三時を指している。
女性の帰宅時間としてはずいぶん遅い気もするが、大丈夫なのだろうかと姉の心配をしつつ、飛雄馬はやかんの湯が沸くのを待った。
「人が辞めてしまって、店長さんも困ってるみたい」
「そうなのか。ねえちゃんも大変だね」
インスタントコーヒーを用意したふたつのカップにそれぞれ注いで、飛雄馬は、何が食べたい?と彼女に尋ねる。
「いいのよ、飛雄馬は寝てちょうだい。明日も早いでしょう」
「いや、大丈夫。ねえちゃんと少し話もしたくてさ」
「話って?」
「大したことじゃないけど、最近、ろくに話もできてなかったからさ」
「ふふ、言われてみればそうね。長屋にいた頃は嫌でも顔を合わせていたから」
「ねえちゃんは今の生活が不満かい?」
「え?」
どうして?と続け様に声を上げた明子から視線を外し、飛雄馬はやかんから沸いた湯をマグカップへとそれぞれ注ぎ入れた。コーヒーの香りが漂い、心を落ち着かせる。
「ちょっと訊いてみただけさ……」
そう、答えてから、飛雄馬はカップを両手に姉の待つリビングへと向かい、彼女の前にひとつを置いた。
「変な飛雄馬」
「ふふ……」
明子の対面になるように飛雄馬もテーブルに着き、コーヒーに口を着ける。
「そうね、充実していると言えばそうだし……自分の自由になるお金が手元にあるって心強いわ」
「アルバイトは大変かい」
「色んなお客様がいるから、大変なこともあるけど楽しいわよ。飛雄馬もどうかしら」
顔を見合わせ、飛雄馬と明子は互いに吹き出す。
ねえちゃん、楽しそうだ。よかった。
おれがいない間はアルバイトをしている、なんて聞いたときは心配したものだが、ひとまず一安心だ。
「花形さんも遠征のときは顔を見せてくださるの。デートに誘われることもあるけど……」
「花形さんが?」
コーヒーを吹き出しかけ、飛雄馬はほんの少し顔を赤らめた明子の顔を見つめる。
「でも、いつも断っているの。彼には悪いけれど」
「断るって、どうしてさ。花形さんとのデートを新聞にすっぱ抜かれでもしたら困るからかい?花形さんはそんなことを気にするような男じゃないと思うけどな」
「そうじゃなくって、私と花形さんの関係を気にして試合に集中できなくなったらと思うとどうしても」
「…………」
「飛雄馬のおかげでねえさんもこんなに素敵なマンションに住んでいられるんですもの。あなたに迷惑は掛けたくないわ」
「迷惑だなんて……おれのことなら心配してくれなくても大丈夫だよ。せっかく誘ってくれているんだから一度くらいはOKしてやったらいいじゃないか」
「そうかしら……」
「そうさ。今だって遠征先の名産品を送ってくれたり……健気じゃないか」
コーヒーを啜り、飛雄馬は地方の土産店で菓子を選ぶ花形を頭の中に思い描く。丁寧に手紙まで添えてくれていると言うのだから、相当ねえちゃんに惚れているのだろう。今までおれととうちゃんのせいで苦労したねえちゃんが掴みかけている幸せを棒に振ることはない。それに、花形さんならおれだって安心してねえちゃんを任せられる……。
「飛雄馬がそんなに言うのなら、今度お誘いがあったときはOKしてみるわね」
「それがいいさ……きっと花形さんも喜ぶよ」
「…………」
「ねえちゃん?」
「実を言うとずっと迷っていたの。こんなことを言って飛雄馬を困らせてしまうんじゃないかって。でも、いざ話してみたらなんてことなくて拍子抜けしちゃった」
「案ずるより産むが易しって言うじゃないか」
「本当ね。ホッとしちゃった。さあ、ねえさんも軽く食事をしたら寝ちゃうから飛雄馬も寝なさいな」
「ありがとう。話してくれて」
「こちらこそ聞いてくれてありがとう。おやすみなさい。カップはそのままでいいわよ」
「うん」
空になったカップをテーブルに置き、飛雄馬はおやすみなさい、と明子に伝えてから、自室へと戻る。
出ていったときと同じく、親友・伴は大いびきをかいている。ねえちゃん、うまくいくといいけれど。
なんて、人の心配をしている場合じゃないな。
おれは明日の試合の心配をしなければ。
ベッドに潜り込み、飛雄馬は、明日も勝つぞ!と気合いをひとつ入れると目を閉じる。
体が温まったお陰かすぐに眠気はやってきて、飛雄馬は親友のいびきを子守唄にしながらゆっくりと眠りに落ちた。