喫茶店
喫茶店 やあ、伴くんじゃないか。こんなところで会うとは珍しい、と声をかけられ、伴は肩をすくめる。
声の主は他でもない父の経営する自動車会社の商売敵の花形モータースの社長の息子であり、先日彼が在籍する青雲高校野球部と対抗試合を行ったばかりの紅洋高校野球部キャプテンの花形満であった。
それまで花形満という男の名こそ知っていたが話らしい話をしたこともなく、なぜ親父がそこまで敵対視するのか疑問に思っていたが、あの日、横浜のシーサイド球場で彼と対峙したとき、初めて花形満という男の人柄がわかった。
古くからの顔見知りだという星は知り合いだ、ということ以外多くは語らなかったが、星を見る花形の目つきがどうも違うのだ。
何がどう、と言われると言葉に詰まるが、知り合い以上の感情を花形は星に対し抱いているようにしか思えず──そこまで考えたところで再び花形から声をかけられ、伴はギクッと身を竦めた。
「今日は星くんは一緒じゃないのかね」
「花形こそわざわざ東京まで何の用じゃい。フン、星、星と恋する女の子じゃあるまいし、他人に興味なぞこれっぽっちもなさそうな花形の口から星の名前が出ること自体珍しいわい」
「そうか、それならきみに用はない。失敬」
呼び止めておきながら早々にこの場を去ろうとする花形の腕をむんずと掴み、伴はちょっと顔を貸せと顎をしゃくり、近くの喫茶店へと入った。
「顔を貸せと言う割にはずいぶん洒落たところに来たものだね」
フフッ、と花形は笑みを漏らし、着いたテーブルの下で椅子に深く座ると足を組む。
休日の喫茶店は客でごった返し、店員もひっきりなしに各テーブルに飲み物や料理を運んでいる。
「単刀直入に訊くが、きさまと星はどんな関係じゃあ」
運ばれてきたグラスの中身、氷の浮いた冷水を口に含みつつ花形は目の前に座る男の顔を見据えた。
その射抜くような鋭い視線に一瞬、伴もたじろいたがそこは高校柔道全国優勝の経歴を持つ男。
殺気立った視線になどこれまで幾度となく晒されてきた。気圧されぬよう、彼を睨み返しつつ、先の言葉を待つ。
「なに、そう怖い顔をしないでくれたまえ。ぼくと星くんは古くからの知り合いだよ。それ以上でもそれ以下でもないさ」
「本当に、それだけか?」
カラン、と花形の持つグラスの中で氷が音を立てる。
「…………それだけか、とは?何が訊きたい?何かあってほしいのかね、星くんとぼくとの間に」
「そ、そうじゃないが。まったく無名の青雲高校野球部にいきなり対抗試合を、それも神奈川から申し込んでくるなぞ妙だと皆言うとったわい」
「…………」
汗をかいたグラスをテーブルの上に置き、花形は手を挙げ店員を呼ぶとアイスコーヒーを注文し、きみは?と伴に問いかけた。
おれはコーラをとしどろもどろになりつつ答えた伴に対し小さく吹き出すと、店員が去ったのを見計らってから花形は、そうだね、と先程の続きを口にする。
「ぼくの人生を変えた人とでも言おうか」
「な、に…………?」
まさかの言葉が花形の唇から紡がれ、伴は目を瞬かせる。
「きみのことはお目にかかる機会こそなかったが、よく知っているよ。伴自動車工場の一人息子で高校柔道大会では団体でも何度も優勝し、その名を轟かせていると聞く。それがまさか、急に野球に転向とはね」
キラリと花形の瞳が不気味に光った。
それを目の当たりにした伴の背筋に冷たいものが走る。
「大方、きみの転向理由もぼくと似たようなものだろう。星飛雄馬の生き様に魅せられ、魂が震えた──」
「…………」
花形の醸す雰囲気に飲まれ、伴は彼から距離を取る。額には汗が浮かび、瞬きひとつできない。
「中学で星くんの名を聞くことはなかったが高校で、それもまさかきみのようなヘボ捕手を従えやって来るとはね。この際だから言っておくが、きみよりもぼくの方が星くんのことをよく知っているし、理解しているつもりでもいる」
「な、なんじゃいその言い分じゃと、きさま、おれに嫉妬しとるのか」
伴がそう、切り出したところで店員がアイスコーヒーとコーラをふたりの座る席、そのテーブルへとそれぞれ並べ置いた。
花形はガムシロップとミルクをそのグラスの中に投入し、伴はストローを使うこともなくグラスに口をつけコーラを一気に飲み干した。
「嫉妬?まさか。嫉妬しているのはきみだろう。だからこうして呼び止め、ぼくと星くんの関係を尋ねた。端から、ぼくの目には星くん以外は映っていない。たまたま青雲の捕手がきみだっただけだ」
「…………」
くるくるとグラスの中、ガムシロップとミルクをストローで混ぜつつ、花形は何か言いたげに唇を動かす伴を一瞥し、フフンと鼻を鳴らす。
「まあ、せいぜい星くんの足を引っ張らぬよう精進したまえよ」
「きっ、きさまに、い、言われんでもおれは、星の足手まといにだけはなるまいと思っとるわい!ええい、けったくそ悪い!声なんぞかけるんじゃなかったわい」
椅子から立ち上がり、大声で叫んだせいで店内はざわついたが、伴はそれを気にする様子もなくテーブルの上に置かれた伝票をひったくり、レジへと向かうとコーラとコーヒーの代金を支払ってから店の外に出た。
まったく、星には用事があると振られるし花形には会うしで最悪な日曜じゃわい、と伴は人混みに紛れつつそんなことを思う。
花形も星と出会ったことで人生が変わった、と言っておったな。
おれに出会う前、どんなやり取りがあったか、というのはついぞ分からず仕舞いじゃったが、花形が星飛雄馬という男の物事に対する姿勢に心が動かされたというのは本当の事じゃろう。
そりゃあ、星が今現在、青雲に入学するまでどんな生活をし、どんな交友関係を結んでいたか気にならんと言うと嘘になるが、これから色々な思い出を作っていけばいいわけで、同じ学校ではない花形の知らぬ星の姿などこれからたくさん見る機会はあるだろう。
それにしても、星という人間は出会う者すべてを魅了し、人生観そのものを変えてしまうんじゃな、と伴は自宅への道のりを歩みつつ彼の顔を思い浮かべる。
おれの見込んだ通り、でっかい男じゃわい、と伴はまた明日、飛雄馬に会える嬉しさに胸弾ませながら先程のイライラはどこへやら、鼻歌まじりに家路を急いだ。
一方、ひとり残された花形は伴に奢られる形となったアイスコーヒーを口に含んで、腕を組み目を閉じる。
伴宙太という男の存在など恐るるに足らない。
星飛雄馬という存在を輝かせるための立役者にしか過ぎず、投手に捕手は必要不可欠な存在である。
ただそれだけのこと、なのに、柔道から他の格闘技に転向と言うならまだしも、まるっきり何もかもが違う野球に鞍替えとはよほどのことが彼にもあったのだろう、と花形は思う。
それだけ、彼にとっても星飛雄馬と言う人間は偉大であり、それでいて美しかったのであろう。
ああまで高潔で、一途に物事に命を懸ける人間を今までぼくは、見たことがなかった。
ただでさえ、日本人たちはぼくが花形家の人間と知るや否や目の色を変え──はたまた、ノックアウト打法を目の当たりにすればどんな不良でさえ震え上がった。
それなのに、星飛雄馬だけは違った。
ノックアウト打法を打ち破ってみせようと宣言しただけでなく、有言実行、それを見事やり遂げてみせた。
ああ、今思い返すだけでも震えが来る、あの日の感動と衝撃をぼくはきっと生涯、忘れないであろう。
花形は閉じていたまぶたを開け、氷が溶け、薄まったコーヒーをストローで吸った。
甲子園で再び相見えるにはまずは星くん率いる青雲が都大会で優勝せねば話にならない。
それまでに、伴宙太という男がどこまで伸びるか、はたまた青雲高校野球部と言う野球部とはほとんど名ばかりのチームがどのようにして結束を固めてくるだろうか、星飛雄馬と言う天才がひとりいようとも、野球は9人でするものだからね、と花形は苦笑を浮かべると、グラスの表面に浮いた水滴を指先でなぞった。