帰路
帰路 「それじゃ飛雄馬、またね」
「ああ、ねえちゃんも体に気をつけて」
玄関先まで見送りに来てくれた明子が名残惜しげに飛雄馬に手を振る。
また来るさ、とだけ飛雄馬は返すと車を取りに先に屋敷を出た花形の待つ車庫へと向かう。
帰りはタクシーを使うからいいと一度は花形の申し出を飛雄馬も断ったのだが、せっかくだからと言う明子と花形のそれくらいのことはさせてくれ、の言葉に口を噤む羽目になった。
飛雄馬が向かった先、車庫のシャッターは既に上げられており、花形の姿も黒いキャデラックの傍らにあった。
「思ったより早かったじゃないか」
「…………」
ニッ、と微笑んできた花形に対し、飛雄馬は彼の顔を一瞥しただけで言葉をかけることもなく、彼が開けてくれた車の後部座席のドアから車内へと体を滑り込ませる。
花形は運転手に車の運転を任せることもあるが、時折なんの気まぐれかこうして自らが運転することもあるようで、飛雄馬も度々、己の姉を助手席に乗せ公道を走る彼の姿を目にすることもあった。
「若い頃はよく、首都高を走ったものさ。頭に上った血を冷ますには夜風が最適でね」
キーを捻り、エンジンをかけながら花形がぼやいた。
「……花形さんにもそんな日が?」
「ないとは言わんさ」
ちら、と花形は運転席に乗り込むとバックミラーに映った飛雄馬の顔を見遣ってから車を発進させた。
花形の屋敷のある等々力から巨人軍の寮までは車でおよそ30分と言ったところか。
「きみもうちを訪ねるのは気が進まんだろうに、フフ……明子もああ見えて寂しいのだろう」
「寂しい思いをさせているのは花形さんでは?ゴルフに接待にと毎晩帰りも遅いらしいじゃないか。あんなに広い家、ねえちゃんひとりじゃ持て余すに決まっている」
「明子もそれなりに会社の重役夫人らと付き合いがあるようで家を空けることもままあるのさ。ぼくばかりが出歩いているわけじゃない」
そういう、ものなのだろうか、と飛雄馬は座席に背中を預けつつ車窓の外へ視線を遣る。
ねえちゃんは元々人付き合いが得意なようだったし、長屋にいた頃も近所のおばさんや商店の店主らと何やら話し込むことも多かった。
おれなんかは口下手な方だからいつもねえちゃんの話をふんふんと興味深く聞くばかりで、親父に食事中の私語は慎めとよく言われていたっけ、と飛雄馬は幼い頃の思い出を反芻する。
「しかし、日曜くらいはねえちゃんに付き合ってやったらどうです。別にどこかに出かけるとかそういうことをしなくとも、ふたりで食事をするとか」
「…………明子の目は飛雄馬くんによく似ている」
え?と飛雄馬は花形の口を吐いたまさかの言葉に思わず声を上げた。
いきなり何を言い出すのか。
人の話を聞いていなかったんだろうかこの人は、と飛雄馬が再び同じ台詞を紡ごうとしたところに花形が続ける。
「明子を見ているときみを思い出す。どうしてもね。だからあまり家に寄り付きたくないと言うのもあるのさ」
「それは、どういう意味だ?」
「どういう?そのままの意味だが。きみはどう受け取ったのかね」
目の前の信号が赤になり、花形は車を停止させた。
バックミラー越しにこちらを見つめてくる瞳の圧に耐えきれず、飛雄馬は目を逸らすと車内の空気を変えるため、窓を少し開ける。
涼しい夜風が頬を撫で、飛雄馬は目を伏せると座席に深く座り直し足を組んだ。
「おれとねえちゃんの姿がかぶることで何か花形さんにとって都合が悪いことがあるのか?」
「…………きみがジャイアンツに返り咲いたというのに、なにゆえぼくはのんきにゴルフになぞ勤しんでいるのだろうかと思うと居ても立ってもおれんのだよ」
「…………!」
信号が青を示し、花形は車を走らせる。
「あの目に、見つめられると若き日のあの熱さを思い出す。5年の歳月は短いようで長い。すべて思い出にしてしまうはずだった。いいや、してしまえるはずだった。ぼくはよき夫であり、将来有望な会社重役の身でもあった。そうなろうと努めた。しかして、きみは──星飛雄馬は颯爽とぼくの前に姿を現した。完全に消えてしまっていたぼくの闘志に再び火をつけた。蘇った不死鳥の羽ばたきにぼくは再び完全に魅入られた」
一息に花形はそこまで言うと、フフフッ、と笑みを溢し、ハンドルを握る手に力を込めた。
「…………」
花形の言葉にゾクッ、と飛雄馬の肌が粟立つ。
これは武者震いによるものか、それとも車内に吹き込む風の冷たさによるものか。
おれは再び、ねえちゃんを泣かせることになるのか。
飛雄馬はきつく唇を引き結び、しっかりと前を見据えハンドルを握る彼のバックミラーに映った瞳を見つめる。
「もう間もなく着く。降りる準備をしたまえ」
「…………ねえちゃんによろしくお伝えください」
花形の言葉通り、彼が操るキャデラックは巨人の寮の敷地に入ると、建物の入口付近でその動きを止めた。
「また、遊びに来てくれるかね」
車から降り、建物の中に入ろうとする飛雄馬の背後から花形が声をかけた。
「…………あなた次第です、花形さん」
飛雄馬は振り返りもせず、そう言うと寮の出入り口の扉を開ける。
中に入り、出迎えてくれた寮長が声をかけてくれたと同時に、飛雄馬は背後で車が走り去る音を聞いた。