近接
近接 「……う、っ」
一度、花形は唇を離すと、飛雄馬に唾液を飲み込む間を与えてやってから、再び、その濡れた唇に口付けを与えた。
飛雄馬か背中を預ける選手通用口に繋がる廊下の壁は、彼の体温でぬるく温まってきている。

試合のあと、長島監督と少し話をしていたために、ベンチを離れるのが遅くなった飛雄馬をヤクルトのユニフォームを身に着けた花形が追いかけてきたのが、つい10分ほど前になるだろうか。
まさかの人物の到来に飛雄馬はぎょっとしたが、今や義理とはいえ兄弟の間柄。
彼の妻となった姉の顔を汚しまいと飛雄馬はそれを無下にすることなく、どうしました?と己を呼び止めた理由について尋ねた。
すると花形は、その問いかけに対し、特に何か用があったわけではないが、と言葉を濁してきたもので、思わず飛雄馬は怪訝な表情を浮かべ、自身よりやや背の高い彼を見上げると、はぁ……と呆れたような声を溜め息混じりに漏らした。
「ああ、そうだ。思い出した。明子が試合が終わったらうちを訪ねてほしいと言っていたよ」
「ねえちゃんが?」
わざわざ、何の用だろう?と思いつく限りの理由を脳裏に描きながら目を瞬かせていると、花形がほんの少し、自分との距離を詰めてきたもので、飛雄馬は壁を背にしながら少し立ち位置を変える。
「…………」
この人は、ねえちゃんと結婚してからというもの、やたらと距離を詰めてくることが多くなった。
いくら身内になったとは言え、それは書類上のことで、おれからしてみれば何ひとつ変わってはいないのに。
花形が古巣の阪神ではなく、ヤクルトから球界復帰を果たしたことに関しては正直、驚きもしたが、ねえちゃんには悪いと思いつつも、またあの頃のようにやり合えるのだと武者震いもしたもの。
試合後にこうも馴れ馴れしく話しかけてくるなど、左腕投手時代からは到底考えられない。
そんなことを考えているうちに、花形は壁を背にした飛雄馬の正面に立っており、そのまま彼の顔を覗き込むがごとく身を寄せてきた。
「…………」
慌ててそれから逃れようと身を翻した飛雄馬の顔の横、その壁に右手をつくと花形はニッ、と得意の笑顔を浮かべてみせた。
うっ、と短く呻いてから飛雄馬は唇を引き結ぶと目を細め、花形を睨む。
「人の話は最後まで聞けと、親父どのはきみに教えてくれなかったのかい」
「さっさと、話してくれたらいいだけの話で、こんなに距離を詰める必要、は……ァっ!」
目の前の彼を見据え、口を開いた飛雄馬の言葉ごと飲み込むように花形は唇を押し付けると、間髪入れず、そのまま舌を口内に滑り込ませてきた。
口の中を巧みに這い回る舌の動きに、飛雄馬は一瞬は反射的に閉じた目を開け、腕で花形の体を押し戻そうとしたが、そのまま背中に手を回される結果となった。
「っ、ふ……ぁっ」
「静かにしたまえよ。ここをどこだと思っているのかね」
「だれが、っ……」
息も絶え絶えに言い返した飛雄馬の表情に、花形はふふっと笑みを溢すと、YGマークのついた野球帽を自由の利く左手で脱がせてやりながら再び、唇を寄せた。
「口を開けてごらんよ、飛雄馬くん。きみも物足らんだろう」
「っ、っ……」
閉じ合わせた唇を舌先でそろりと撫でられ、飛雄馬はビクン、と身を震わせる。
すると、飛雄馬の背に添えられていた花形の帽子を持ったままになっている手がするすると下にくだり、腰から尻にかけてに掌を這わせてきた。
その感触に、肌が粟立って、飛雄馬は思わず体を小さく戦慄かせると唇から吐息を溢す。
「フフッ……」
ちゅっ、と唇を啄み、花形は笑みを漏らすと飛雄馬の歯列の奥へと舌を滑らせる。
唾液を纏った甘い舌をそれぞれに絡め合いつつ、飛雄馬は微かな吐息を口から漏らす。
そうすると、花形は飛雄馬の上唇をゆるく食んで、彼の上気した頬に唇を寄せるとまた、その唇を音を立て、吸った。
「あ、っん……」
口を吐いた高い声に飛雄馬は思わず、かあっ、と赤面し、閉じたまぶた、その目尻に涙を滲ませる。
こんなところで、こんなことを……誰かに見られたら、いや、いっそ、誰か来てくれたら、さすがに花形とて、おれを解放してくれるだろう。
そう、飛雄馬が考えた刹那に、まさしく彼にとっての救世主とも思える、正体不明の足音が球場の方から響いてきて、花形はすっ、と身を引くと、次第に顔貌のはっきりしだした人影──長島に声をかけ、ニコリと微笑んだ。
「……………」
飛雄馬は唇をそっと拭い、何やら花形と談笑を始める長島に一礼すると、そのままロッカー室へと続く奥へと駆け出す。
「あっ、星!」
長島は暗がりへと消える飛雄馬を呼び止めようと名を呼んだが、既に声が聞こえる位置からは外れてしまっている。
飛雄馬はそのまま走り去り、しゅんと肩を落とした長島を慰めるよう、花形は声をかけた。
「ぼくでよければ用件、伺いますよ」
「お、おお……そうか。すまんな。いやはや、きみがまさか星のお姉さんと結婚すると聞いたときには驚いたが、結構うまくやれているようだね」
「……ええ。お陰様で」
ニッ、と花形は唇を笑みの形に歪めると、長島の話す飛雄馬への事付けに耳を傾け、素直に聞き入った。

間一髪、長島に目撃されることを免れた飛雄馬は巨人軍に充てがわれているロッカーに逃げ込むと、しんと静まり返った室内、そこに置かれた長椅子に腰を下ろすと、またしても唇を拭う。
さっきの口付けのせいで下腹部が反応してしまっている。
これが静まるまでは着替えることも、帰宅することも叶わない。
飛雄馬は何度拭っても彼の感触と熱の蘇る唇を手で擦ってから、そういえば、ねえちゃんは……そう、思ったところでロッカー室の扉が叩かれ、項垂れていた顔を上げた。
返事をしたいのは山々だが、膨らんだ臍下を見られるわけにはいかず、飛雄馬は口を噤む。
すると、きいっ、と回転式のドアノブが回って、飛雄馬はギクッ!と身を強張らせる。
「さっきはすまないね、飛雄馬くん」
既に着替えを終えた、いつもの三揃えのスーツに身を包んだ花形が開いた扉の隙間から顔を覗かせ、謝罪の言葉を口にした。
「……………」
「きみのジャイアンツの帽子を預かったままになっていてね」
花形から顔を逸らした飛雄馬だが、彼の言葉にハッとなり、視線を彼へと遣る。
「それで、ねえちゃんは」
室内に足を踏み入れ、帽子を手渡してきた花形に飛雄馬は切り出し、彼の返事を待つ。
と、花形は飛雄馬の座る長椅子に腰掛けると足を組み、彼の白いユニフォームズボンに包まれた腿をそっと撫でてきた。
「っ……う、」
ぞくっ、とその柔らかな感覚が一度は治まった飛雄馬の肌に熱を灯す。
「続きは、うちに来てからにしようじゃないか。飛雄馬くん」
「行か、な……っ」
「いいや、きみは来るさ。明子が待っているからね」
「行かん、と言っているじゃないか」
「何を、勘違いしたのか知らんが、ぼくが言った続きというのは長島さんがきみに伝えてくれと言った用件のことなのだがね」
花形の瞳に真っ直ぐ見つめられ、飛雄馬はたじろぎ、視線を泳がせる。
フフッ、と花形は得意の笑みを浮かべると、それじゃあ飛雄馬くん、また後で、と言うなり席を立ち、ロッカー室を出て行く。
「誰が、っ、行く……!」
飛雄馬は花形から手渡された帽子を頭上高く掲げ、床に投げつけようとしたが、すんでのところでそれを堪え、その橙のYGマークに顔を埋めるようにして己を落ち着かせるべく、大きく、ゆっくりと息を吐いた。