金木犀
金木犀 ふと、降り立った駅のホームで微かな金木犀の匂いが鼻をくすぐり、飛雄馬は歩みを止めた。
背後では発車を告げるベルが鳴り響き、電車がゆっくりと動き始める。
人もまばらな駅構内、師走まであと2ヶ月を切った秋の日の昼下がり。
飛雄馬は頭に乗せているYGマークのついた黒の野球帽を目深にかぶり直すと、鼻からゆっくりと息を吸った。
別に、何か宛があってこの駅で降りたわけじゃないが、まさかこんなことで彼を思い出すなんて、と飛雄馬は再び歩み出す。
共に過ごした時間が多すぎて、何をするにも彼のことが頭をよぎる。
桜の花にせよ、ひまわりの花にしろ、秋の紅葉や金木犀のこの濃い香りにしたって全部。
彼は、金木犀の匂いは濃すぎて鼻の奥が痛くなってかなわんと言っていたか。
それを聞いて、おれは何と答えたのだったか。
飛雄馬は改札に立っていた駅員に切符を渡し、そのまま駅を出る。
日差しが眩しい。
10月にしては珍しく汗ばむような陽気で、夏の装いで道行く人もちらほらと見受けられる。
遅めの昼とするかと飛雄馬は辺りを見回し、ポケットの中の小銭と相談してから入る店を決めた。
手持ちがあまりない。
昼を食べたら何か日雇いのアルバイトを探すことにしよう、とひとまず、ラーメン屋の暖簾をくぐって、飛雄馬はカウンター席に腰を下ろした。
昼飯時でもないため客はおらず、店主らしき白髪混じりの気難しそうな中年男性がひとり、厨房の奥にて煙草を咥え新聞を読んでいたが、飛雄馬の姿を見るなり、火を消すと、立ち上がった。
「中華そばをひとつ」
「…………」
飛雄馬が言うと、店主は無言のまま鍋を取り出し湯を沸かし始める。
無愛想な職人気質の人だな、と飛雄馬はクスッと笑みを溢しつつサングラス越しに辺りを見回す。
壁に貼られた手書きのメニューは日に焼けたものだろうか、はたまた煙草の脂によるものだろうか茶色く変色し、ところどころ文字も掠れ読めなくなっている。
炒飯や餃子などもあるのか、などと飛雄馬がひとつひとつを見遣りつつ考えていると、腹がぐうと鳴った。
その音が聞こえたか店主は1度、手の動きを止めたがすぐにラーメンの麺を別の鍋に沸かした湯の中に投入した。
それから、そう間を置かずに丼に入ったラーメンが飛雄馬の前に置かれた。
薄い琥珀色の中に沈む黄色がかった麺。
その上に並べられたメンマとチャーシューやネギの輪切り。
醤油のいい香りが漂って、立ち昇った湯気のせいで飛雄馬のサングラスが曇った。
飛雄馬はサングラスを少し下にずらして店主を見遣ったが、こちらに背を向けて何やら鍋を振っているようで、気付く様子も見られなかったために、そのままサングラスを外すとカウンター上に置いた。
いただきます、と手を合わせてから飛雄馬はそばにあった箸立てから割り箸を取ると、ラーメンを啜る。
スープの程よく絡んだ縮れ麺は暖かく飛雄馬の腹を満たしてくれる。
自家製だろうかチャーシューも長く煮込まれているのか柔らかく、口の中で解けた。
すると、店主がカウンター越しに白い皿にこんもりと盛った炒飯を寄越してきたために、飛雄馬はえっ!?と思わず声を上げる。
「頼んだ覚えは……」
「なんの、サービスよ。あんた、昔巨人にいた星飛雄馬だろ。顔を見てすぐわかったよ」
「…………!」
店主は顔をくしゃっと歪めるようにして微笑むと、
「おれの家内が病気で死んじまってよ。ひとりじゃとても店、切り盛り出来ねえから、喪が開けたら畳んじまおうって思ってた。でもよ、あんたの、巨人の星の野球、見てたらさ、勇気もらえてよ……いつか礼、言いたかったんだ」
と、ぽつりぽつりと語ってくれた。
「……………」
「生きてりゃ、辛いこと、苦しいことたくさんあるよな。でもな、おれは店畳まなくて良かったと今日ほど思ったことはねえ。まさか巨人の星の方から店に飛び込んできてくれるなんてな」
「……いただいても、」
飛雄馬はやっとのことで言葉を紡ぎ出し、店主に尋ねる。
「お、すまんな。おればっかり話しちまってよ。完全試合成し遂げてから行方くらましたってんで、何してんだろうな、元気だといいなとは思ってたんだが……」
皿の上に乗せられていたスプーンで飛雄馬は炒飯を掬い、口に運ぶ。
刻んだ玉ねぎとかまぼこ、それに葱と炒り卵の入ったシンプルなもの。
飛雄馬はその味を噛み締めつつ、泣いてしまわないよう目を閉じる。
監督にも、球団の先輩方にも迷惑をかけてばかりで、現に今だって誰に知らせもせず日本をさすらうおれの、巨人の星になるべくひたすらに、がむしゃらにやってきた野球をそんな風に見ていてくれた人がいたなんて。
親友と共に血を吐きながら開発した大リーグボールはことごとく攻略され、命より大事な左腕が壊れた今、おれには何も残っていないと思っていたのに。
「ありがとう、星さん。あんたのおかげでおれは生きてこられたよ」
「…………」
ぐすっ、と飛雄馬は思わず鼻を啜って目元を拭う。
礼を言うべきはおれの方。
今の言葉におれはどれだけ救われたか。
店主はそれから、自分にも息子がひとりいて高校を出ると都会に出て行ってしまったこと、彼も野球をやっていたが思うように芽が出ず悩んでいたこと、家内は気立てがよくとても美人だったことを話してくれた。
飛雄馬もそれを聞きつつ、ラーメンと炒飯を平らげ、手持ちがあまりなくてと切り出したものの、お代は結構と突っぱねられた。
「……おれも、おじさんの言葉に救われました。これからどうしようか、ずっと迷っていたんです。でも──」
飛雄馬が言いかけたとき、ガラガラッと店の入り口の引き戸が開かれ、ふたりはハッとそちらを振り返った。
すると、そこに立っていたのは飛雄馬より少し若い坊主頭のどことなく店主の面影を感じられる風貌の男で──彼は、2、3歩店内の中を歩いて、手にしていた旅行用の鞄をその場に取り落とすと、「父さん!」と声を上げた。
「おまえ……今まで何を……!」
店主は厨房から躍り出るなり、その男性のもとに駆け寄ると、彼を強く抱き締める。
店を訪れたのは店主の家出したという息子で、いわゆるこれが、親子の感動的な再会と言ったところか。
飛雄馬は席を立つと、涙を流しながら抱き合い昔話に花を咲かせているふたりの邪魔をしてはならないと、穿いているスラックスのポケットから小銭をすべて取り出し、カウンターの上に置いた。
そうして、サングラスをかけるとそのまま店を出る。
「……………」
「星さん!本当に、本当にありがとう……」
背を向け、駅の方に向かう飛雄馬の背中にそんな声がかかった。
飛雄馬は一瞬、足を止めたが振り返ることなく先を行く。
再び、あの匂いが風に乗り漂ってくる。
今の話を、語って聞かせたらかつての親友は何と言うだろうか。
涙もろい彼のことだから、感動して男泣きに泣くだろうか。
もうこれっきり、考えることはやめようと思うのに、思い出ひとつひとつに色があって、香りがあって、四季が移り変わるごとにそれらをひとつひとつ思い出すのだ。
いつかきっと、会える日が来たら、おれは彼を連れてまたここに来よう。
飛雄馬は金木犀の濃い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、泣くのを堪えるように青い晴天の、夏とは違うどこか物悲しささえ覚える空をじっと仰いだ。