禁忌
禁忌 「ああ、伴ちょっと待ってくれ」
「ううむ、そう焦るな。まだ遅刻はせんわい」
珍しく飛雄馬が伴を待たせ、慌てて朝食をかき込んで湯呑みの茶を飲み干す。
飛雄馬が青雲高校に入学して一ヶ月が経とうとしている。飛雄馬を迎えに来た二学年上の伴宙太とこうして登下校を共にするようになって、はや二週間と言ったところか。いつもなら飛雄馬たち一家の住む長屋から少し離れたところで二人は待ち合わせをしているのだが、今日は珍しく飛雄馬が示し合わせた場所にいなかったために伴が訪ねて来ている、と言うわけだ。
「とうちゃん、ねえちゃん行ってきます!」
言って、飛雄馬は帆布性の白い通学鞄を肩から掛け朝食の片付けをしている姉と新聞を読んでいる父に背を向け玄関先で靴を履き出した。
すると、読んでいた新聞から顔を上げ、飛雄馬の父・一徹がふいに飛雄馬、と彼を呼んだために、飛雄馬ははっ!と履いていた靴を脱ぎ捨て父の元ににじり寄った。
はて、何をするのだろう?朝から肩でも揉んでやる習慣がこの家にはあるのだろうかと一瞬、考えた伴だったが、続いて目に飛び込んできた光景に彼は呆然と立ち尽くす羽目になる。
事もあろうに、飛雄馬は彼の父のそばに寄ったかと思うと、伴がいるのも構わず、一徹の唇に口付けたのだ。
それはいわゆる、そっと触れるだけのものであったが、他人の、ましてや親子同士による口付けなど未だかつて目の当たりにしたことのなかった伴はあんぐりと口を開け、そのどんぐり眼を見開いた。
「ん、行ってきます」
「おう、気を付けてな」
そうして何事もなかったかのように一徹は新聞に視線を落とし、飛雄馬は再び玄関先で靴を履く。姉の明子は何を言うでもなく食器を洗っている。
一体何が起こったのか?と伴は自身の目の前でたった今繰り広げられた光景に目を瞬かせた。夢でも見たんじゃなかろうか?いや、そんな風に見えただけやも知れぬ。目の錯覚に違いない。
伴はぶんぶんと顔を左右に振り、怪訝な顔をしてこちらを見上げる二つの瞳に気付くと、お邪魔しました!と飛雄馬の長屋を後にした。
「待たせて悪かったな」
「い、いや、ね、寝坊することくらい誰にでもあるわい」
「ふふ、間に合ってよかった」
安堵の声を漏らし、道行く学生らに混じって隣を歩く飛雄馬に対し伴はどう接したらいいか分からずにいる。
父親と口付けるなんて、いや、母親ならいいかと言われるとそうではないのだが、人のいる前でああいうことをするなんて、どこかおかしいのではないか?いや、それとも言わないだけでどこの家でもこういうことをしているのか?
伴は冷や汗をかきつつ、何度も何度も瞬きを繰り返す。そうして、伴?と名を呼んでこちらを見上げてきた飛雄馬の唇にまるで引き寄せられたがごとく目が行って、伴は視線をキョロキョロと動かした。
「伴よ、腹でも痛いのか?すごい汗をかいているが」
「い、いや、な、何でもない……こともないが、ううむ、あ、いや!こちらの話だ」
「……伴?親友であるおれにも言えないことか?」
真剣な目を向け、飛雄馬は尋ねる。
「あ、う、う……」
「伴?」
俯く顔を覗き込むようにして訊く飛雄馬にいよいよ辛抱たまらず、伴は彼の腕を取るととある路地裏に駆け込む。
朝と言うのにあまり日の当たらず、薄暗い路地で伴は飛雄馬の両肩をぐっと掴むと、神妙な面持ちで、「星よ、おまえはおやじさんといつもあんなことを、しちょるのかあ?」と単刀直入に訊いた。
「あんな、こと、とは?」
見当が付かぬか、飛雄馬は眉間に皺を寄せ、逆に訊き返してきたもので、伴はムムムと口を噤む。
「あの〜〜その〜〜」
「こんなところに押し込んで……それこそ遅刻をするぞ」
「おやじさんと、く、くくっ、口付けをいつも、しちょるのか?」
「口付け?ああ、行ってきますの挨拶のことか?それがどうしたと言うんだ」
「星よ、普通は、いや、あんなことをする家と言うのはおれは聞いたことがない。だから、おれは心底驚いた」
「…………なに?」
飛雄馬は妙な顔をして伴を仰ぐ。今までのことを思い出しているのか、視線が忙しなく左右に動いている。
「人の家庭のことにおれが口出しする権利はないと思うが、その、誰か訪ねて来ているときは控えた方が、いいと思うぞい」
「……それは、本当か?」
「すっ、少なくともおれの周りでそんな話は聞いたことがない。別にいかんとかそういう訳ではないからのう!ただ、その……」
言葉を濁す伴など眼中にないようで飛雄馬は俯き、そうか……とぶつぶつ何やら呟いている。
「む……妙なことを言うて悪かったのう。行こうぜ、青雲へ」
「…………」
伴は飛雄馬から手を離すと、路地裏から出るべく歩み出す。先に明るい大通りへ出た伴は飛雄馬が来るのを待っていたが、飛雄馬は彼に目もくれず、「すまんが先に行っててくれ」と言うなり長屋の方へと引き返してしまった。
星、と伴は飛雄馬を呼んだが、追い掛けるのも何だかばつが悪い気がして、そのまま小さくなる後ろ姿を黙って見ていた。その日、飛雄馬は学校に来ることはなく、当然部活にも顔を見せなかった。
あんなことを言わなければよかった、と思った伴であるが、後悔先に立たずである。
明日は来てくれるといいが、と伴は飛雄馬のいない、何とも居心地の悪い野球部にて他の部員に混ざり練習を行なった。
次の日、いつも通りに待ち合わせ場所に来た飛雄馬の顔に生気がなく、何やらやつれたような雰囲気に伴は何事か、と驚いたと同時に恐怖心さえ抱いたが、昨日の一件のせいで何も訊けない。
けれども、行こうぜ、と言うなり先に歩みだした彼の手を飛雄馬が強く、ぎゅうっと握り締めたために、伴は何やら察し、後ろを弾かれたように振り返る。
が、こちらを仰ぐその顔はいつもの星の顔で、それ以上伴には何も言えなかった。
ただ、きっと星はおれのせいで何やら良からぬ目に遭ったであろうことは想像できて、その悔しさと、歯痒さとどうしようもない居たたまれなさに伴は飛雄馬の手を強く握り返した。