企画
企画 忙しい合間を縫って来てもらって悪いねえ、と雑誌の企画担当者は愛想笑いを浮かべつつ、自社の長い廊下を歩く。
飛雄馬はこの日、とある少年雑誌の簡単な質疑応答を受けるべく出版社へと出向いている。
大リーグボールと称される荒唐無稽な、いわゆる魔球を放るジャイアンツの星飛雄馬の人気は野球少年らの間でも高く、誌の発行部数が伸び悩んでいた雑誌出版社はこの企画を次号の目玉として売り出すことに決めていた。
当の本人──球団事務所から指示があり出版社を訪ねた星飛雄馬は己の肩に出版社の存亡、と言うと些か大袈裟ではあるが、雑誌の廃刊の危機がかかっているとは露知らず、何を聞かれるのだろうかとインタビューが始まる前からそわそわと落ちつかない様子ではあった。
そんな彼の緊張を解そうと、やたら饒舌に話しかけてくる担当者に当たり障りのない返事を返しながら、飛雄馬は案内されるがままに応接室へと足を踏み入れる。
すると、中に置かれた椅子に既に腰掛けている人影が目に入り、飛雄馬がどきっと心臓を跳ねさせたのも束の間、その人影が──にやりと口角を上げ、笑ったのだから堪らない。
まさかの人物との邂逅に息を飲んだ飛雄馬がその場で立ち止まり、なかなか部屋の奥に進もうとはしないのを不審に思った担当者が中を覗いた。
と、阪神の背番号10を背負う男の姿がそこにはあって、えっ!と担当者もまた素っ頓狂な声を上げた。
「なぜ花形さんがここに!?確かにインタビューの予定は入っていたが、部屋はここではないはず──」
着ているスーツのジャケットの胸ポケットから手帳を取り出し、それをパラパラとめくりながら飛雄馬を応接室に案内した担当者は何やら焦ったような表情を浮かべたまま部屋を出ていってしまう。
「あの……!」
部屋の出入り口を振り向いた飛雄馬の目の前で入り口の扉は閉まり、部屋は完全な密室となる。
「おやおや、誰かと思えば星くん……ふふ、こんなところで会うとはね」
「花形、さん、も呼ばれたんですか」
よりによって花形とかち合うとはと飛雄馬は視線を泳がせつつ、どうしたものかと思考を巡らす。
部屋を出て行っても行く宛はないし、ここを案内してくれた担当者と行き違いになっても困る。
しかして、花形とふたりきりというのもなんとも居心地が悪いような気がしてしまう。
「担当者もすぐ戻ってくるだろうさ。まあ、とにかく座りたまえよ」
「…………花形さんも、何かの企画で?」
尋ねながら飛雄馬はなるべく花形から遠い場所にあった椅子へと腰を下ろした。
「球団事務所を通されてはね。断るに断りきれんさ。きみも気は乗らんが事務所の意向ならとそれに従ったのだろう」
「…………」
頭の中を読んだのか、と訊きたくなるほど的確に花形は飛雄馬の胸中をズバリ言い表した。
「フフ、その顔を見るとどうやら当たりのようだね」
言って花形は腕組みをし、足を組む。
相変わらずこの人は、と飛雄馬は阪神のプリンスだ、村山実の再来だと持て囃される彼の顔を見つめる。
飛雄馬自身、自動車にはまったく興味がないために知らなかったが、花形モーターズと言えば関東近郊では知らぬ者はいないというほど巨大な自動車修理販売会社。
数多くの下町自動車工場を傘下に持ち、自社ブランド名を掲げた富裕層向けの外国産車のみならず、庶民的な大衆車も手頃な価格で販売しており、今や日本一の修理販売実績を誇るのではないかとも言われている。
その社長の息子というのが、阪神で背番号10を背負い白球を追う彼──花形満。
高校を卒業したらすぐアメリカに留学するのでは、などという話も出ていたが、まさか中学で始めた野球にそのまま傾倒するとは、と言った記事が一時期新聞の紙面を賑わせたこともあった。
その理由についても花形はあまり多くを語らず、それが却ってミステリアスな一面も垣間見せ、皆そのわけを知りたがった。
もちろん飛雄馬もその中のひとりで、花形が実業界入りを蹴ってまで阪神に入団したのか、その真の理由についていつか尋ねてみたいとも考えていた。
「何か、ぼくの顔についているかね」
目を閉じ、眠っているかに思われた花形が口を開き、飛雄馬は慌てて顔を逸らす。
花形に指摘され、飛雄馬の心臓はびくん!と跳ねたのち、速い鼓動を刻む。
見ていることを咎められるとは夢にも思わず、飛雄馬の全身にはじわりと汗が滲む。
「…………」
何か言わなければ、と飛雄馬が口を開け、花形の名を紡ごうとした刹那、コンコンと部屋の扉がノックされ、先程そそくさと姿を消した担当者が顔を出した。
「いやはや、星さんすみませんねえ。部屋、新しいところを用意しました。案内しますんでよろしくお願いします。花形さんもすみませんね」
「…………」
飛雄馬は頭をぺこぺこと下げつつハンカチで額の汗を拭く彼をしばらく見遣っていたが、ハッ、と弾かれたように微動だにせず椅子に座ったままの花形を瞳に映す。
「星さん?」
「あ、い、行きます」
訝しげに呼ばれ、飛雄馬は勢い良く立ち上がると、こちらを見ようともしない花形の顔から視線を外すことなく担当者の後を追って部屋を出る。
花形という人間は、おれをどこまで知っていて、おれは彼の何を知っているんだろうか。
彼のことをこれ以上知ったところで、何も関係性が変わるとは思えないが。
飛雄馬は担当者の後ろを歩きながら、ここでまさかの再会を果たすほど、奇妙な縁で繋がったライバルにふと、思いを馳せた。