結婚式
結婚式 朝食の時間が終わり、暇を持て余す時分。
扉を叩く軽いノック音で、飛雄馬は読んでいた雑誌を閉じると、どうぞ、と返事をする。
体を預けているベッドの上体を起こした、いわゆる半座位の格好で、飛雄馬は扉を開けた来客に対し、視線を投げ掛けた。
「星くん……」
名を呼びつつ顔を出したトレンチコートを羽織った丸眼鏡の青年──左門豊作に、飛雄馬は、左門さんか、と表情を緩める。
「ご無沙汰しとります、星くん」
「いや、来てくれるだけでありがたい。ちょうど退屈していたところだから嬉しいよ」
「退院が決まったて話ば聞いたけん、寄らせてもらいました。それで、そのう」
何とも歯切れの悪い左門の発言に、飛雄馬は苦笑し、どうしました?と尋ねた。
すると、左門がトレンチコートのポケットから何やら白い封筒を取り出し、ついと飛雄馬に手渡してきた。
「なんです、これ」
「そのう……わしと京子の結婚式の招待状ば今日は届けに来たっです」
「………………」
頬を赤らめ、照れ臭そうに笑う左門から結婚式の招待状だという白い封筒を受け取り、飛雄馬は、日取りは?と尋ねる。
「今度の日曜ですたい。わしに親はおらんし、京子には親兄弟はおらんけんが、身内と星くんや花形くん、伴くん、牧場くん、それに星くんのお父さんとお姉さんば呼ぼうと思っとるとばってん…………迷惑になるどか」
「今度の、日曜……」
「星くんば誘うとはたいが悩んだとばってん、京子がぜひ来てほしいて言うけんが……」
「時間は?」
「朝の九時から……」
「九時……」
そうか、京子さんと左門さんは、結婚、するのか。
飛雄馬は封筒の表に書かれた星飛雄馬様への文字に視線を落とし、少し、遅れるかも知れないが、出席させてもらうよ、と微笑む。
「星くんの、おかげですたい。何もかんも……わしは感謝してもしきれん。わしゃ星くんに何の恩返しも出来んで世話んなりっぱなしで不甲斐なかばい」
度の強い、眼鏡の下から左門がぼろぼろと涙を零し、声を震わせながら言葉を紡ぎ、飛雄馬は、泣かないでくれ、と彼を慰める。
「そんな、おれは礼を言われるようなことは何もしていない。左門さんの誠実さ、真面目さが京子さんに伝わっておれも嬉しいよ。きっといい家庭をふたりなら築けるさ」
「星くんにこぎゃんこつ言うともおかしかばってん、京子の居場所ば探すこつから始めて……何べんも何べんも高飛び先に足ば運んで、手紙ば送って……ようやくデートできたつはそれから一ヶ月ぐらい経ってからのこつで……プロポーズしたともつい最近でから」
「京子さんは東京に?」
「わしが何があっても守るち言うたら……そのう……」
「ふふっ……」
「わっ、笑わんでほしか……わしもまさかこぎゃん台詞自分で言うてにゃ思いもせんだった」
「左門さんの弟さんたちには紹介したのかい」
「まだ母親の恋しか年頃ち言うのもあってすぐに慣れちくれて、京子も弟や妹が欲しかったて話でから……京子はあがん見えて料理も上手くて……今度星くんもよかったらうちに飯ば食いに……」
「それはよかった。ふふ、やはり左門さんの目に狂いはなかったな」
「星くんが、速達ばくれたけん……あれがなかならわしの片思いで終わっとった恋たい」
鼻を啜り、眼鏡を外すと目元に溜まった涙を拭ってから左門は再び眼鏡を掛け直す。
「……駅で急いで書いた手紙で読みづらかったとは思うが……」
「なんの、そぎゃんこつなか……そぎゃんこつ……星くんは、野球ができん体になったとに、わしだけこんな幸せでよかとかなてずっと思いよります……星くん……わしができるこつなら何でんするけん遠慮なく言うてほしか」
「大げさだな、左門さん。おれが野球ができなくなったのは誰のせいでもないし、左門さんが負い目を感じる必要もまったくない。遅くなってしまったが、おめでとう、左門さん」
「星くん……」
飛雄馬は、京子の小指のことを左門に尋ねようかとも思ったが、口にはせず、沈黙を貫くこととした。
彼女は、うまく動かぬ小指のことを左門に打ち明けたか否か現時点では不明であるし、わざわざ彼女が話す意味もないだろうと思ってのことだが──できることなら、彼女と、自分だけの秘密にしておきたい、ともそう思った。たしかにあの場には彼女をアネゴと慕う竜巻グループのメンバーらも存在していたが──おれは、彼女のことを────。
「…………」
「星さん、診察の時間です」
扉の向こうからノック音と共に、看護婦が声を掛けてきて、飛雄馬はハッと我に返る。
「星くん、長居してすまんこつです」
「いや、ありがとう。きっと、行かせてもらうよ」
「…………」
左門がニコリと微笑み、扉を開けた看護婦と入れ違いになるよう病室を出て行く。
飛雄馬もまた、看護婦に促され、病室を出る。
そうして、入院棟とは少し離れた場所にある整形外科医の診察を受け、退院の日時の説明を受けた。
ねえちゃんも、花形さんと付き合い始めたなんて話を聞いたのはつい先日のことだったか。
診察からの帰り道、飛雄馬は見た目は以前と何ら変わりない左腕をさすりつつ、自身の姉のことを頭に思い描く。おれの入院中、ねえちゃんを病院まで送り迎えしてくれたのは花形さんだという。
そのやり取りの中で急速に仲を深め、近々結婚するという話も出ているとの話だった。
もうこちらは大丈夫だから面会にも来てくれなくていいとは伝えている。
皆、それぞれの道を歩みつつある。
伴もまた、しばらくは入院していたものの、すでに球界に復帰し、とうちゃんの代わりに入った中日新コーチのもとで活躍しているとのことだ。
おれは、これからどうすればいいのか、未だに答えが出ないでいる。
野球をやれと言われ続け、それができなくなった今、おれはどうやって、何をして生きていけばいいのか。
ふらりと立ち寄った病院内の売店で目に止まったスポーツ紙の中日、伴の特大ホームランの記事。
飛雄馬はふいと視線を逸らし、パック入りの飲料を手に、レジへと並ぶと勘定を済ませ、病室へと戻る。
左腕を用いて日常生活を送るには何ら支障はない。
しかし、野球だけができない。
購入したパック入りの飲料をテーブルに置き、飛雄馬は退院の支度を始める。
退院は明日、左門さんの式は明後日。
マンションの部屋の整理をして、退去までには少し日にちが必要だろう。それまで、どこに身を隠すか。
「…………」
おれがいなくとも、世界は回る。
野球のできないおれが、ここに留まる必要はない。
飛雄馬はパック入りの飲料にストローを刺し、中身をゆるゆると啜る。
病室の窓の向こうでは雪が舞っており、飛雄馬はパックの中身を啜りつつ、その光景を見遣った。
正月も終わり、世間は普段通りの生活に戻りつつある中で、できれば、新年は病院の外で迎えたかったものだな、と空になったパックをゴミ箱に放り投げながら、そんなことを思う。
すると、昼飯だと看護婦が扉越しに声を掛けてきたため、はい、と返事をして、飛雄馬はベッドへと腰掛ける。明日が退院ですねおめでとうと言う彼女に、ありがとうございます、と小さく会釈してから、テーブルの上に置いたままにしていた結婚式の招待状を、飛雄馬は病室備え付けの引き出しの二段目に仕舞った。
──この日、左門が会ったのを最後に、飛雄馬は五年もの間、忽然と皆の前から姿を消すことになるのだが、今はまだ、誰もそれを知る者はいない──。