家族の話
家族の話 「いたのか」
「お帰りなさい、楠木さん」
弟の見舞いから寮へと戻った楠木を出迎えたのは同室の星飛雄馬で、彼はベッド上に座っては野球雑誌をめくっていた手を止め、小さく微笑んでみせた。
夕食後の、消灯までの自由時間。
楠木はこの日、見舞いのために夕食を寮では取らなかったが、普段であれば星と共に投球練習に励む時間帯である。駅前の食堂で食事をし、帰寮したところであった。
「星のことだからまた自主トレにでも行っとるんだと思ったが」
「今帰ったところですよ。弟さんのご様子は……」
言葉を濁す星に対し楠木は、リハビリも順調でな。そろそろ退院できるそうだ、と言うが早いか、やれやれと自分のベッドの端へと腰を下ろした。
「ずいぶん、お疲れのようですね」
「弟と少し口論になってな。なに、星が気にすることじゃないさ。心配するな」
「…………」
しまった、失言だったと顔をしかめたが、案の定、星は声こそ発さないが申し訳なさそうに項垂れたのがわかって、楠木は、すまん、と謝罪の言葉を口にした。
しばらく部屋の中には気まずい、重苦しい雰囲気が漂ったが、ふいに扉がノックされたことで、場の空気が変わる。
「おう、楠木、また親父さんから手紙だぞ」
開いた扉から顔を覗かせた寮長が一通の封書を差し出してきて、楠木は、いつもすみませんとそれを受け取る。
「返事は書いてやっとるのか。たまには親父さんに顔を見せに田舎に帰ってやれ」
「はあ…………」
どこか上の空で楠木は寮長に返事をし、それからしばらくの間、受け取った封書の宛先、父の字で書かれた自分の名前を眺めていた。
「楠木、さん」
「あっ、ああ……どうした。星、何の話をしていたんだったか」
星の名を呼ぶ声で我に返って、楠木は笑みを浮かべたまま振り返る。すると、心配そうにこちらを見つめる星と目が合って、慌てて視線を逸らした。
「楠木さん……」
「あ、いや。すまん、ぼーっとして」
「読まないんですか」
「あとで読むさ、あとで、な」
楠木は自分のデスクの引き出しに封書を押し込み、笑い声を上げたものの、何となくばつが悪くて頭を掻く。
「…………」 「ふ、風呂は入ったか?まだなら汗を流しに行かんか」
「ご実家にはお父様がおひとりですか」
「う、うむ……まあ、な。おふくろは早くに病気で亡くなっとるし弟も野球をするために東京に出てきとるし」
「そう、ですか」
参った、何とか話を変えねばと楠木は思うが、何も思いつかず沈黙ばかりが続く。
「そうだ、星。さっき行った店に今度一緒に行かんか。奢るぞ」
取ってつけたように先程、夕食を摂った店の話題を振るが、星はそれには食いつかず、やはり重い空気が辺りには漂っている。
「お母様は巨人に入ることを、野球をすることに反対などされなかったんですか」
「どちらかと言えばおふくろの方が快く送り出してくれたな……親父は出発の時もおれに背を向け黙っていた。口数も少なく、何を考えているかわからん親父だったが、おれが野球を始めたのは親父のおかげでな。キャッチボールが唯一の親子の会話だったように思う。おれがプロに入る気になったのは、おふくろの治療費と弟の学費を稼ぐためでな……はは、嫌な話を聞かせた」
「いずれは、ご実家に戻ろうと?」
言われ、楠木は口ごもる。
帰ろうと、思っていたさ。お前に会うまでは。
長島監督に、星に付き合ってやれと言われるまでは。 その言葉をぐっと飲み込み、楠木は、まあ、いずれはな。五年後か、十年後か、と歯切れ悪く答えた。
「ずっとおれと一緒にはいてくれないんですか」
「…………!」
伏せ目がちに星が溢した一言に、楠木の心臓がどきりと音を立てた。
今のは、どういう、意味だ?聞き間違いか?
星は今、なんと?
「楠木さんがいなくなったらおれは誰とバッテリーを組めばいいんですか。おれの球は、誰が捕るんですか。また、おれはひとりに…………」
「おっ、落ち着け……星。おれはそんなつもりで言ったんじゃない。当分、巨人に居座るつもりだ。誰が何と言おうと」
星は少し神経質になってしまっている。
思ったように球が投げられず、結果を出せないことを焦っている。それに、星が必要としているのはおれではなく、自分の捕手役なのだ。勘違いしてはならない。妙な気持ちを抱いてしまってはいけない。
泣いているのか、震えている体を抱き締めることなど、絶対にしてはならない。
「っ……変なところを、すみません」
「い、いや。おれの方こそ変な話をしてしまったせいでいらん心配をさせてしまったな」
「いえ、楠木さんが謝ることでは……」
俯いたまま震える星に伸ばしかけた手で拳を握り、楠木は目を閉じる。
「ほ、星……もう泣くな」
「泣いてなんか……子供扱いしないでください」
ふと、顔を上げた星とほとんど不意打ちのような形で楠木の視線が絡む。頬にこそ流れてはいないが、瞳は潤み目元にはうっすらと涙が溜まっている。
楠木は星の顔を目の当たりにした瞬間、本能のままにその体を強く抱いていた。
胸に抱き留めた体は、熱く、そして見た目以上に華奢であった。
「あっ……す、すまん。つい……」
抱いた腕の力が強すぎたか、うっ!と呻いた星の声で我に返って、楠木は慌てて距離を取ると、すまん、と再び謝罪の言葉を紡ぐ。
「いえ……おかげでだいぶ落ち着きました」
目元を指先で拭い、取り乱してすみませんと謝る星を前に、楠木は、とにかくおれはどこにも行かんからと繰り返し、咳払いをすると自分のベッドへ腰掛けた。
「楠木さん」
「ん、なんだ、どうした」
「おやすみなさい」
「……ああ、おやすみ」
言うと、星はひとり、早々にベッドへ敷かれた布団の中に潜り込んだ。その後には小さな寝息が聞こえるのみである。やれやれ、どっと疲れた一日だったなと楠木は溜息を吐き、シャワーでも浴びるかと自分の荷物を漁る。
そうして、部屋を去り際、ベッドにて眠る星を一瞥し、よかった、落ち着いてくれて。あのまま星が……と一瞬、妙なことを考えてから首を振る。
しばらくその場に留まっていたが、おやすみ、星、いい夢を……と囁いてからそっと扉を閉めた。