語らい
語らい 引いては寄せ、寄せては引く波音に耳を傾けながら飛雄馬は満天の星を仰ぐ。
宮崎には東京のような高いビル群はなく、車だってほとんど通っていないせいか、やたらに空が澄んで見える。
隣に座って、共に空を見上げる美奈さんは星座や星占いなんかが好きという話で、おれは彼女が細い指で夜空を指しながらあれは北極星、だとか、上弦の月がどうとか、そんな今まで見たことも聞いたこともない話をしてくれるのがとても嬉しかった。
本を読むのも好きらしく、おれの知らない作者の有名な著書からとても素晴らしい言葉をその女性らしいふっくらとした唇で紡いでくれる姿がたまらなく愛おしい。
美奈さんは野球にあまり興味がないらしく、それが却って新鮮でもあった。
それでも、巨人というチーム名くらいは知っているようで、宮崎の県営野球場に練習に来ているのを度々、入院している少年少女らと見に来ることはあるとの話だ。
美奈さんが読んだ本や好きな偉人の話をしてくれるお返しに、と言ってはなんだが、おれは野球のルールや花形たちとの試合についてなるべく分かりやすく噛み砕いて話をしてやると、彼女は興味深く話を聞いてくれた。
それもなんとも嬉しくて、おれは美奈さんと出会ってまだ数日も経っていないと言うのに、昔からの知り合いのような気分になってしまっていて、自分の生い立ちやらこれまでのこともぽつりぽつりと話をするようになっていた。
あの橘ルミさんには悪いことをしてしまったな、とぽつりと美奈さんに溢してしまったことがあったが、彼女には彼女に合った生き方があって、それに見合った男性がきっと現れてくれるから、星さんが心配することはないわと言ってくれたおかげで、どこかホッとしたのも事実だった。
「美奈さんとは、話していて自然体でいられる。まるで昔からの知り合いみたいだ」
「ふふ、美奈もそう思っていたところです。星さんとはずっと、そう、生まれる前から知り合いだったような気さえします」
「う、運命の人、ってことですか?」
美奈の口から発せられたまさかの言葉に飛雄馬の声が思わず裏返る。
「運命……そうね、美奈が星さんに出会ったのも運命だし、あなたがお父様と夢見た巨人に入団したことも運命だわ」
「……美奈、さん?」
美奈さんがたまにこうして、どこか遠くを見つめるような儚い表情をするのがどうしても気になる。
何か、彼女にも悩みごととかあるんだろうか。
おれには話してくれないんだろうか。
おれが美奈さんに抱く思いと、美奈さんがおれに抱く思いというのは同じではなく、おれのひとり相撲とでも言うのだろうか。
「…………星さんは、運命なんてものを信じる?」
「……はい」
力強く飛雄馬は頷き、真っ直ぐに美奈の顔を見つめた。月明かりが眩しく、海面に浮かぶ月も綺麗な円を描いている。
「うふふ、星さんの瞳って綺麗だけど、とても怖い。何でも見透かされてしまいそう」
「え?そ、そんなこと、初めて言われました」
飛雄馬は頬を染め、隣に座る美奈から少し距離を取った。
いつの間にか潮が満ちていたか、ふたりの座る浜辺ギリギリまで波が打ち寄せるようになっており、飛雄馬は美奈に、少し離れましょう、と声をかける。
「…………」
「み、美奈さん?そんなところにいたら濡れてしまう」
立ち上がるでもなく、何か言葉を紡ぐでもなく飛雄馬の顔を見つめていた美奈がふいにすっ、と左手を差し出した。
打ち寄せる波は美奈の足元ギリギリまで来ており、彼女の足や服を濡らすのも時間の問題であろう。
一瞬、差し出された手を前にたじろいだ飛雄馬だったが、その手を握ると力強く自分の方へと彼女の身を抱き寄せた。
「あっ!おれ、そんな、つもり」
「いいの。星さん、このままで」
弾みで美奈の体を抱き締めてしまった飛雄馬はあたふたと取り乱すが、その腕に抱かれる彼女はそれを拒むこともせず、目の前にある厚い胸板に頬を寄せる。
「み、美奈さん…………」
かあっ、と全身の血が沸騰したような感覚に襲われ、飛雄馬は彼女の肩を抱こうかどうしようかとしばし考えた挙句、拳を握るとそのまま地面に向かいだらりと下げた。
「星さん、美奈を抱いて。うんと強く」
「え、っ!?」
どきぃっ、と飛雄馬は口から心臓が飛び出さんばかりに驚き、まさか聞き間違いではなかろうなと美奈からの続きの言葉を待ったが、それきり彼女は口を噤んだままで、ええいままよと半ばヤケを起こし、その細い体を抱き締める。
飛雄馬の心臓はこれ以上ないほどに速く鼓動を打ち、彼女を抱く手にはみるみるうちに汗が滲んでくる。
「星さんに出会うことができて、美奈は幸せです」
「お、おれも、です」
飛雄馬の緊張は最高潮に達し、最早自分が何を口走っているかもわからない状態であった。
「何があっても、星さんは美奈のことを忘れないでいてくださる?」
え?と飛雄馬は美奈の口から紡がれたまさかの言葉に自分の体温が急激に下がっていくのを感じる。
それは、つまり、どういう意味なんだ?
美奈さんは、一体、この状況で、何を思ったというのだ?
「それは、どういう……!?」
「…………」
またあの沈黙。
美奈さんは何を胸に秘め、何をひとり抱え込んでいるんだろうか。
「おれでよければ、何でも、話してください……野球のことしかろくにわからんおれだが、美奈さんが何か悩んでいるのなら、おれは、力になりたい」
「お気持ちだけで嬉しいわ。星さんにも、星さんの道があるはず。あなたのような素晴らしい人が一瞬でも美奈のことを考えてくれたのなら、それはとても嬉しいことだわ」
「み、美奈さん!」
「ごめんなさい。星さん、今日はとても楽しかった」
飛雄馬を突き飛ばすようにして美奈は彼から距離を取り、立ち上がる。
「また、会って、くれますか?」
「…………ええ、また、きっと」
その言葉を聞いた飛雄馬の顔がぱあっと輝く。
けれども、既に背を向け、歩き始めている美奈に飛雄馬の顔は見えない。
美奈さん、と飛雄馬は己に背を向け、海岸を歩く彼女の名前を呼ぼうとしてぎゅっと唇を引き結ぶと、自分もまた、泊まるホテルへの道のりを引き返す。
来るときはあんなに遠くにあった波がこんな近くにまで来ている。
潮の満ち引きは月の引力によってもたらされるものだと美奈さんは言っていた。
太陽のように皆を照らし、周りを明るくしてくれる存在も好きだけれど、あたしは夜空に燦然と輝く黄色い月が好きなのだ、と。
それならばおれは、彼女のそばでひっそり佇む星でありたいものだな、と飛雄馬は笑みをこぼすと、歩みを止め、先程美奈と見上げた星を仰ぎ見る。
すると、無意識のうちに幼い頃父と探した巨人の星を探す自分がいることに気付いて、飛雄馬は、ふふっ、と小さく声を漏らした。