片恋
片恋 おかえりなさい、と出迎えた明子に対し、花形は口を開くなり、飛雄馬くんは?と問う。
飛雄馬なら客間にいるわ、でも、眠っているから起こさないであげて──の声がスリッパを履き、廊下を行く花形へと投げ掛けられる。
「眠っている?飛雄馬くんが?」
歩みを止めた花形が振り返ると、明子は頷き、よっぽど疲れているみたいね、と答えた。
「…………」
「あなただけでも先にお召し上がりになっては?」 「いや、起きるのを待とう。明子は先に食べていても構わんよ」
ニコリと微笑んでから花形はそのまま飛雄馬のいると言う客間へと向かうと、彼を起こさぬよう扉をそっと開ける。
すると、明子の言葉通り、ソファーの肘掛けを枕に横臥寝の格好で寝息を立てている飛雄馬の姿が目に入って、花形は珍しいこともあるものだ、と苦笑してから部屋に入ると、後ろ手で扉を閉めた。
彼が、眠っている姿を目の当たりにするのは病院での一件以来か、と花形は飛雄馬の横たわるソファーの反対側の端に腰を下ろす。
中日の伴くんとの最終打席。
飛雄馬くんが放った大リーグボール3号の一投は完全試合達成と言う偉業と引き換えに、彼の左腕の命脈を永遠に絶った。
この花形とも共にあったと言っても過言ではないその左腕。
ぼくはあの日、明子と一緒に試合観戦のために球場を訪れていた。
一見、冷たく、なんの感情も抱いてはいないように見える飛雄馬くんが放つ大リーグボール3号と呼ばれる代物は、一投、一投ごとにその身を削り、左腕の寿命をすり減らしていく。
時折、痛むか左腕を押さえる様子が見えたところで、完全試合達成に湧く観客や巨人軍の選手らはそんな仕草など気にも留めてはいなかった。
「……………」
マウンドで左腕を押さえ、うずくまった飛雄馬くんを通報を受けた救急隊員らが病院へと移送するその救急車に乗せてもらったぼくは、痛みに呻く彼に駆け寄ることも、声をかけてやることもできず、どうか命だけは無事であってくれ、と願ったものだった。
一通りの検査を受け、病室に帰ってきた飛雄馬くんの見守りを頼まれたぼくは鎮痛作用のある注射を打たれたらしく今は痛みも忘れ、ぐっすりと眠る彼の顔をただじっと見ていた────。
花形は自身が近くにいることなどまったく気付きもせず寝入っている飛雄馬の横顔を見つめる。
あれから5年の月日が経った。
ぼくは花形コンツェルンの専務となり、今はボールに触ることもバットを握ることもない。
行方知らずとなった飛雄馬くんの身を憂い、涙を流す明子をなだめ、慰めているうちに交際が進み、夫婦となって間もなく4年ほどになるか。
その5年の間に、きみは一体、どこで何をしていたと言うのだろう。
興信所から関東近郊にて草野球の代打を3万で請け負うYGマークの野球帽をかぶった男が、星飛雄馬に酷似しているとの報が入ったとき、ぼくがどんなに嬉しかったか、きみは知らんだろう。
花形はソファーに乗り上げ、飛雄馬の体を跨ぐような体勢を取ると座面に手をつき、身を屈める。
「飛雄馬くん」
囁くように名を呼んで、花形は飛雄馬の頬に口付けると体を起こし、再びソファーに腰を下ろす。
「…………」
その際、ソファーが軋んだ衝撃で飛雄馬は目を覚ましたらしく、頭を上げ辺りを一通り見回したところでここがどこか気付いたか慌てて体を跳ね起こした。
「あっ!花形、っ」
「目覚めたかね」
素知らぬ振りで花形は柔和な笑みを浮かべる。
飛雄馬は視線を左右に泳がせ、すまない、と小さな声で呟いてから、更に言葉を紡ぐ。
「まさか眠ってしまうとは……」
「ふふふ、なに。きみの活躍はいつもテレビで目の当たりにしているさ。無理やりうちを訪ねさせた明子はもとよりぼくに責任がある。飛雄馬くんが謝ることではない」
「…………」
そこで空気を読んだか飛雄馬の腹の虫が鳴り、花形は吹き出すと夕飯にしようか、と明子を呼ぶために腰を上げる。
きみは客なのだからゆっくり待っていたまえ、とともすれば手伝うと言い出しかねない飛雄馬に釘を刺すと花形は廊下に出てから、つい先程彼の頬に触れた唇をひとり、愛おしげに撫でた。