片恋
片恋 「飛雄馬くんは?」
先に巨人寿司を訪れた丸目に、この店を一人で切り盛りする店主の一人娘である幸子が尋ねた。
「センパイなら後から来るってよ。ちょっと後援会長と話があんだって」
「ふぅん、それならいいけど。キミ一人じゃつまんないもん」
「なんだと?」
「へへーん」
「こら、お客さんをからかうんじゃねえ」
父に咎められ、幸子はペロリと舌を出すと、カウンターに着いた丸目の隣に腰掛ける。
「おじさん、おれ、穴子が食いてえ」
「ふんだ。飛雄馬くんがいないと一軍戦にも出られないくせにでかい顔しちゃってさ」
「な、なんだよ!センパイだっておれがいなきゃ蜃気楼ボール投げられないんだぜ!」
「サチ!いい加減にしろ!はい、お待ちどおさま」
皮肉を口にする幸子を叱咤し、幸子の父は丸目の座る席の寿司げたへと握った穴子を乗せる。
と、そこで店の電話が鳴り、彼は手を手拭いで拭うとその電話に出た。
どうやら馴染みの客らしく、声を上ずらせ電話口で楽しそうに話している。
「始まった」
幸子がその様子を目を細め睨み付け、はあ、と溜息を吐く。
「センパイ、遅えな。すぐ来るっつったのによお」
出入り口の引き戸の上に掛けられた時計を仰ぎ、丸目がぼやく。
「気になる?飛雄馬くんのこと」
頬杖をつき、ニヤニヤと笑みを浮かべつつ幸子が訊く。
湯呑みの中身を啜っていた丸目はその言葉にブッ!と吹き出し、噎せ込んだ。
「な、何だそりゃ。べ、別におれはよぉ、お前が退屈だと思ったから」
「………女の子の勘を侮っちゃダメよ。フフ、バレバレなんだから」
「そ、そりゃあ、すげえ人だとは思うぜ。うちの弱小野球部を甲子園準決勝までたった一人で導いた投手だしよ、それにあの巨人軍に二度も返り咲いたんだしな。長島監督の背番号まで譲り受けてよ」
「それだけ?」
「それだけってなんだよ。ま、まだ何も知らねえよ、おれはあの人のこと」
「寮の部屋、一緒なんでしょ?話とか、しないの」
話、話か、と丸目は湯呑みを握り、中に映った己の顔を見下ろす。
「大した話は、しねえよ。おれが話しかけてばっかでさ。見りゃ分かんだろ、あんまりベラベラ喋るようなタイプじゃねえよ、センパイは」
「だからこそ、余計に気になる?ホの字でしょ、飛雄馬くんに」
「ばっ、だから違うって言ってんだろ!尊敬や憧れこそすれ、そんなんじゃ……ねえよ。あの人は、そういう目じゃ見ちゃいけねえ人だ。あの長島監督や王さんでさえ一目置いてる……」
「………雲の上の存在ってこと?」
「ウン、そう、かも知れねえな。あの、ヤクルトの花形って、知ってんだろ。センパイのお姉さんと結婚した、昔の阪神の」
うん、と幸子は頷く。
その花形もセンパイを追って、ヤクルトに入団したって話だぜ。花形コンツェルンの専務の座を捨ててよ、と丸目は湯呑みに口を付け、一息に飲み干す。
「………飛雄馬くん、イイ男だもんね」
「話聞いてたか?」
怪訝な顔をして丸目が幸子を見遣る。
「だってあんなカワイイ顔してるのに、試合ともなれば表情から目つきから変わっちゃうんだもの。キミだって見たことあるでしょう?マウンドに立った飛雄馬くんの顔。そりゃあ、みんな射抜かれて当然だと思うわ」
「……………」
そう、あの目だ──と丸目は空になった湯呑みをカウンターの上に置き、ゆっくりと目を瞬かせる。
野球一筋に生きた男の瞳。
あの黒く大きな双眸の奥に宿る炎に焼き焦がされ、人生そのものを狂わされた人間もいると聞く──いや、他人事ではない。
もしかすると、おれ自身もそうかも知れない。
あの日、青雲高校野球部の激励に訪れたセンパイに会わなければ、派手な啖呵を切ってミットを構えた際、あの人の表情が、纏う雰囲気が変わったのを見なければ、そうすればおれはこうして、センパイの来訪を待つこともなく、レスリング部で今も部員らと汗を流していたかも知れない。
「いやあ、すまんすまん。つい話が長引いちまった」
「もう、父さんたら。いつも何をそんなに話すことがあるのよ」
幸子とその父の声に丸目はハッと我に返る。
「あ……」
「こんばんは」
「飛雄馬くん!」
扉が開く音がし、幸子の弾んだような声に丸目は出入り口の方向を振り返る。
幸子が呼んだ通り、そこに佇んでいたのは丸目がセンパイと呼ぶ、ジャージ姿の星飛雄馬その人であり、傍らには青雲の後援会長でもある伴宙太も三揃いのスーツの格好で頭を掻きつつ立っていた。
「いいんかのう、わしもお邪魔してしまって」
「オジサンなら大歓迎よ!」
「オジサン、オジサンねえ」
幸子にオジサンと呼ばれた伴は顔をしかめたが、席に着いていた丸目の姿を発見すると表情を一変、険しくさせた。
丸目は彼が得意とする柔道でぶん投げられた経験もあり、はたまた星の女房役をやってくれと頭を下げられたこともあり、どことなく伴宙太のことが苦手であった。
そうでなくとも、星飛雄馬のかつての女房役と言うだけで妙に意識してしまう節もある。
「お前も来てたのかあ」
伴が丸目にそんな声を掛けた。
「来てちゃ悪いんですか。センパイに先に来とけと言われたから来たんですよ」
「丸目、待たせて悪かったな。好きなものを食べるといい。おれがここの勘定は持つ」
「え!飛雄馬くん、いいのよ!そんな、お代はオジサンから貰うから!」
「え?う、う〜ん、弱ったのう」
さっきまで幸子が座っていた場所、丸目の隣に飛雄馬が座り、その隣に伴が座った。
そこで、幸子とその父、伴と飛雄馬とで昨日の試合について話が盛り上がり、何となくその会話に入りづらくて丸目は寿司げたの上に置かれた寿司をモソモソと口に運ぶ。
伴は燗を付けた日本酒も煽って一人上機嫌である。
そんなに、センパイが好きならあんたが捕手、やってやりゃあ良かったじゃんか──なんて、喉元まで上がってきた言葉を銀シャリと共に飲み込んで、丸目は、帰る、と席を立った。
「丸目」
「寮長には話しておくからよ。ごゆっくり。ごちそうさんでした」
ひらひらと挙げた右手を振りつつ、丸目は一人店を出て行く。
雲一つない、星の綺麗に輝く夜空を見上げつつ、寮への道のりをゆっくりと歩いた。
すると、背後から、丸目!の声がして、はたと歩みを止め、こちらに駆け寄ってきた飛雄馬の姿に丸目はドキッと体を跳ねさせた。
「センパイ……なんで」
「なんでって、おれと丸目とバッテリーを組んだ以上、一蓮托生だと言っただろう。お前だけを一人帰すわけにはいかんさ」
「伴、さんと、話、いいのかよ」
「伴?ああ、酔うとやたらと絡んでくるからな。ふふ、気にしてたのか」
隣を歩きつつ、飛雄馬は微笑む。
マウンドを降りればそんな顔をして笑いかける、球団の皆に愛されるこの人を好きになんてなってしまったらバチが当たる。
それこそ、悪趣味な言い方をすれば、地獄の業火に焼かれてしまうに違いないのだ。
ああ、きっとあのヤクルトの花形だって、大洋の左門だって、伴のオッサンだってそうなんだろう。
この人の瞳の奥の揺らめきに狂わされてしまったんだろう。
「丸目?」
「あっ!な、なんか、話……」
「いや、心ここにあらずというような、ぼうっとした様子だったから」
「へ、へへっ。ちょっと考え事を」
ごまかし、丸目は鼻の頭を人差し指で掻いた。
「悩みがあるんなら話すといい。おれで良ければ話は聞くし、捕手の在り方について訊きたいのなら伴だっている。心に淀みがあると試合でヘマをするぞ」
そんなこと、誰が言えるというのか。
丸目はまた、ごまかすようにヘヘっと笑うと、こちらを何を言うでもなく見上げてきた飛雄馬の澄んだ瞳にふうっと吸い込まれそうな気がして、慌てて視線を逸らした。
「丸目?どうした」
「い、いや、何でも、ねえ。何でも……センパイ、腹ごなしに寮までランニングといかねえか」
「…………ああ」
一瞬、飛雄馬の顔に陰が差したものの、彼もまた頷くと先に走り出した丸目の後を追う。頭上では黄色い満月が辺りを照らし、煌々と輝いている。
丸目は隣を走る彼に抱いた感情を払拭するためにただ無心で、一心不乱に走ったし、飛雄馬は荒い呼吸を繰り返しつつ走る丸目の横顔を何を言うでもなく一瞥してから、ふと夜空に輝く月を振り仰いだ。