寒夜
寒夜 寒い夜だった。飛雄馬は一度は寝入ったものの、寒さで目が覚めてしまったために同じ宿舎部屋の向かいのベッドで眠る伴の元へとそっと歩み寄り、足元の方から布団の中に潜り込んだ。
大きな腹を上下させ、飛雄馬が来たことなど露ほども知らぬ伴はいびきをかき、幸せそうに眠っている。
自分よりだいぶ高い伴の体温で温められた布団の匂いと肌触りが心地よく、飛雄馬はそう数分もせぬうちに、うとうととまどろみだす。
「むにゃ………星……ふふ、よっしゃあ。捕ってやるから思いきり投げてこーい」
眠りかけていた飛雄馬であったが、伴の声にハッと覚醒し、起こしたか?と恐る恐る彼の顔を見遣ったが、しっかり目を閉じ寝息を立てている。
寝言か、と苦笑さえ浮かべつつ、飛雄馬は伴の懐に身を寄せると、彼の胸に顔を埋める。規則正しい鼓動の音が耳に入って、飛雄馬は再びまどろむ。
「星……」
するとどうだ、眠っているにも関わらず、夢でも見ているのか伴は飛雄馬の体をぎゅうと抱いた。温かい。むしろ、熱いくらいだ、と飛雄馬は鼻から大きく息を吸うと今度こそちゃんと寝入るために長く息を吐いてから目を閉じ全身の力を抜く。
ああ、こうしていると小さい頃を思い出した。隙間風だらけのあの長屋で、雪の吹き荒ぶ夜、薄い布団の中で冷たい体を抱き締めてくれた、あれはかあちゃんだったろうか、それともとうちゃんだったろうか。
もしかすると夢であったかも知れない。
それでも、今こうして自分を抱いてくれる伴のぬくもりは本物だ。
伴もいつか、かあちゃんみたいに離れていってしまうんだろうか、とか、いつかは彼もまた結婚なぞして、誰かのものになってしまうんだろうか、とか、そんなことを考えた。彼には彼の人生があって、それを縛りつけることは出来ないし、そんな権限だって持ち合わせちゃいない。
ああ、どうしてこんなことを考える。
早く寝なければ、明日の練習に差し支えると言うのに。
はじめは、おれの球を捕ってくれる相手というそれだけだった。
花形との試合でトチったとき、おれは彼を一瞬、憎みさえした。けれども、彼もまた一生懸命に野球に取り組み、中退したおれを追いかけるようにして名門・巨人軍に入団してくれた。
自分の会社を継げとわめく親父さんに反発して、その敷かれたレールから自ら外れることを選んでまで、伴は巨人に入ることを選んだ。
父のことを、とうちゃんのために巨人の星になろうとするおれとは大違いだな、と飛雄馬は目を開け、ちらと伴を仰ぐ。
それから外れることを許さなかったとうちゃんと、自分の意志でそこから脱した伴。 おれが持っていないものを、彼はすべて持っている。体格だってそうだし、生い立ちだってそうだし、生きる姿勢だってそうだ。いつも落ち込むおれを励まし、支え、勇気づけてくれるのは伴なのだ。
寒いから、こんなことを考えるのだろうか。ああ、伴の布団になど潜り込まなければよかった。
隣に眠る男を起こさぬよう、そっと飛雄馬は体を起こす。すると、ふいにベッドについた手の上へと何やら温かなものが触れて、飛雄馬はドキリとしながら、そちらに視線を落とした。
「……………!」
いつの間に目を覚ましていたらしき伴が彼自身の掌で飛雄馬の手を包み込むようにして握り締めてきており、飛雄馬は慌て手を振りほどこうとしたが、今度はその手首を掴まれる。
「起きてたのか」
観念し飛雄馬が口を開く。
「人が気持ち良く眠っていたところに冷たい体で忍び込まれて来たら誰だって目を覚ますわい」
「………それは、すまない……また、寝てくれ。と言って、すぐ寝れるようなものではないだろうが……」
ばつが悪く、飛雄馬は視線を右へ左へと落としつつ言葉を歯切れ悪く紡いだ。
「別に怒っとりゃあせんわい。謝らんでもええ……星、またおまえ、嫌なことを考えていたんじゃろう」
「いや、そんなことはない。ただ、変に冷えるから」
「…………」
ベッドを軋ませ、伴も体を起こすと、布団から出たために冷え切ってしまった飛雄馬の体を抱き締め、「ずっと一緒に、星のそばにおるから安心せい」と囁く。
伴のその言葉に飛雄馬は鼻の奥がじわじわと熱くなるのを感じつつ、遂には瞳をもこみ上げてきた熱いもので濡らすが、自分を抱く伴にそれを悟られぬよう、気付かれぬよう奥歯を噛み締める。
「星よう………」
「っ、すまない。眠りの邪魔をして……」
体を離し、顔を覗き込もうとしてくる伴に見えぬよう飛雄馬は顔を逸らして腕で覆い隠す。
「…………」
飛雄馬の脇の下から手を差し入れ、伴は彼の体を抱き寄せる。今更ながらなんと軽く、なんと小さな体躯であるのか。
こんな小さな体で、大の男を吹き飛ばすような豪速球を放ちうるには、それこそ血も滲むような、地獄の特訓があったに違いないのだ。その並大抵ではない苦労と苛酷さが飛雄馬の小さな体から伝わってきて、伴もまた泣きそうになりながら、飛雄馬の頬を伝う涙に唇を寄せ、それを掬い取る。
「伴、やめろ。もう夜も遅い、寝よう」
「………星が泣きやんでくれたら寝るとするわい」
「泣いてなんか………」
片方の瞳から溢れた涙を唇で掬って、もう片方からの涙を指で拭ってやりながら伴は飛雄馬の唇にそうっと口付けた。
「…………」
一瞬、びくっと飛雄馬は身を震わせ目を開けたが、すぐに瞼を下ろすと目の前の彼の太い首へと腕を回す。
最初は互いに唇を啄むようにして口付け合っていたが、呼吸のために僅かに開けた唇の隙間から伴が飛雄馬の口内に舌を滑らせた。
「あっ、いや………」
顔を振り、それを拒んだ飛雄馬に、伴は何が嫌なんじゃい、と不満げに尋ねる。
「もう、夜中の1時だぞ……明日練習が終わってからでもいいだろう」
「起こしたのは星じゃぞ。おれを眠らせたいのなら責任を取れ」
「……………」
「ふふ、嘘じゃい。変なことをして悪かったのう。寝よう」
それ以上、伴は踏み込んでくることなく、飛雄馬の体から離れると再び布団の中に潜ろうとする。
「伴は、優しいな。おれが嫌と、やめろと言えばやめてくれる」
「…………そりゃあ、そうじゃろう。無理して物事を進めて好転するとは思えんからのう」
飛雄馬の言葉が腑に落ちないようで、伴は首を傾げる。
「おれは、小さい頃からずっと、いやだとか、やめたいなんて言って聞き入れてもらったことがないから……」
「…………親父さんにか」
頷き、飛雄馬は、「自分の意見をこうして聞き入れてもらえるのは、嬉しいことなんだな」と続けた。
野球以外のことで、何かを褒めてもらえたことは飛雄馬が物心ついてからはほとんどなかった。
テストで100点を取れば、1位を取れば、褒めてもらえるとそう思ったのに、とうちゃんが口にするのはいつも、「それでこそわしの子じゃ」であったし、それが飛雄馬にとっても当たり前だった。
投球コントロールが良くなって、球速が速くなっていくにつれて、「よくやった」「さすがだ」と褒めてくれた。
だからこそ、飛雄馬は野球を嫌悪しつつも、父に褒められたいがために、父を失いたくないがために、懸命に努力した。
だからこそ今があり、こうして巨人軍の投手として活躍できているのだ。
「………野球をやっていなかったら、おれはどんな人生を歩んでいたんだろう、と考えんこともない。でも、野球をやっていなかったら、きみとは出会えていなかったのだと考えると、野球をやっていてよかったなとも思える」
風がガタガタと窓を揺らす。
「…………」
「ふふ、寒いと妙なことばかり考えるな」
自虐するように笑って、飛雄馬はベッドから下りるために体の向きを変えた。その体を背中から抱きすくめられ、飛雄馬はその温かさに身震いする。
「星がやりたいように、やりたいことをやったらええんじゃい……誰かがやめろと、無理だと言おうともおれは星の味方じゃあ」
「……………」
この言葉を果たして、おれは信じてしまっていいのだろうか。おれもまた、とうちゃんのように伴の人生を壊してしまうことになりはしないだろうか。
ああ、それでもおれはこのあたたかい腕を振りほどけない。冷えた体に染み渡る熱をおれはいつまでも感じていたい。
いつか、伴と離れる日が来たとしても、それまではどうか、この腕に甘えていたいと、そんなことを飛雄馬は己を抱く彼の腕に触れつつ、思った。