感謝
感謝 「まったく。星は変わらんのう」
伴は風呂で汗を流し、薬も塗布していなければ包帯も巻いていない状態のまめが潰れ、傷だらけになってしまった飛雄馬の手を見遣りつつ、そんな言葉をぽつりと漏らす。
伴重工業専用グラウンドで伴がアメリカから呼び寄せてくれたビル・サンダー氏の教えを請いつつ、飛雄馬が打撃練習に精を出したその日の晩。
いつものように居候している伴の屋敷に帰宅してひとまず、汗を流そうということになったのがつい1時間ほど前のこと。
先に汗を流したサンダー氏は台所でダイニングテーブルに座って屋敷の家事を任されている飛雄馬とも顔馴染みの老女──おばさんと何やら楽しげに話をしている。
その笑い声を小耳に挟みながら、飛雄馬は伴の用意してくれた寝間着代わりの浴衣を纏い、彼の待つ和室の一室を訪ねていた。
「ふふ。元々打つのは専門外だし、自己流で長いことやっていたから変な癖がついてしまっていた。それがサンダーさんのおかげで改善されつつある。嬉しいことじゃないか」
飛雄馬はそう言うと、拳を握り、指を開くことを数回繰り返し、この痛みが心地良いくらいだ、とそんな冗談を交えつつ微笑んでみせる。
伴は一瞬、それを聞くなり、ぽかんと呆けたが、すぐに目に大粒の涙を浮かべ、げらげらと笑いながら星には敵わんのう、と膝を打った。
「変わらんのは伴も同じじゃないか。すぐ泣くのは相変わらずだな」
頭を拭っていたタオルを肩にかけ、飛雄馬は嬉しげに目を細めると、泣いとらんわい!と強がる伴の前で膝を折り、ありがとう、と伏目がちに囁く。
「な、なにがじゃい?」
今の今まで声を上げ笑っていた伴だが、飛雄馬の予想外の行動に驚き、大きな瞳を更に丸く見開くとその場に固まった。
「伴がサンダーさんを呼んでくれたおかげでおれの巨人復帰への道が現実味を帯びてきたように思う。二軍の選手も伴が直接交渉して集めてくれたと聞く。本当にありがとう」
「な、なんじゃい今更改まって。わしと星の仲じゃろう。そういうことは言いっこなしじゃい!」
「伴……」
「そ、そんなことより、手に薬を塗らんと」
「なに、すぐ治るさ。もう痛くもない」
「し、しかしじゃな。化膿でもしたら」
「……伴もいつもおれの球を手を真っ赤にしながら捕ってくれたじゃないか。泣き言ひとつ言わずに」
「そ、それとこれとは話が別じゃあ!」
照れ隠しからか伴はいつも以上に大声で叫びながら飛雄馬の腕を掴む。
「うっ!」
「あっ!星……」
つい、左腕をむんずと掴んでしまった伴だが、飛雄馬が顔をしかめ、呻いたために慌てて手を離し、目を白黒させた。
「なに、少し驚いただけだ。心配するな」
飛雄馬は伴の握った左腕をさすりつつ、彼を労うように言葉を紡ぐ。
「本当のことを言うとわしも怖いのが本音じゃあ。そのろくに返球もできん左腕で今度は打者に転向しようなどと……しかし、わしは星の女房じゃい。死ぬときは前のめりにの例の名文句を胸に生きる星を支えるのがこの伴宙太の役目じゃい」
「…………」
「む、いかん。ちと辛気臭くなってしもうた」
飛雄馬は泣きそうになるのを堪え、伴から視線を逸らすと肩にかけていたタオルで顔を拭う。
星?と心配そうに名を呼ぶ声に何でもないと返してから、サンダーさんとおばさんが待っている。行こう、と飛雄馬はそのまま立ち上がろうとする。
しかしてその手を今度はそっと、柔らかく握られ、ハッ!と顔を上げた飛雄馬の眼前にはすでに伴の顔が迫っていた。
「ば、っ……!」
「星……もうひとりで泣くことはないぞい。わしが、伴宙太がついとる」
「あ…………」
顔を傾けつつ、薄く開いた唇を寄せる伴に促されるまま目を閉じた飛雄馬だったが、次の瞬間、部屋と廊下とを隔てる襖が勢い良く開け放たれ、ビクッ!とふたり同時に体を戦慄かせてから、そちらの方を見遣った。
「ミスター・伴モヒューマ・ホシモ何シテマスカ。ワタシハングリーデース!」
部屋の出入り口の欄間や長押を軽々越えてしまうほどの巨体を揺らし、開いた襖の向こうから顔を出したビッグ・サンダー氏の独特な喋り口調に伴と飛雄馬は慌てて互いに距離を取る。
「今、行きます。すみません、サンダーさん」
「OH!コチラコソスミマセン。アイムソーリー。ミスター・伴トヒューマノ邪魔スルツモリナカッタ。ゴユックリ」
「……………!」
片目を閉じ、ウインクしてからサンダーは親指を立てると、オバサンニハワタシカラ話シテオキマスと言うなり踵を返し、廊下を引き返していく。
「なっ、サンダーさん!誤解だ!違う!おれと伴はそんな仲じゃ」
飛雄馬はその後を追いかけ、必死に弁解するがサンダーは口笛なぞ吹きつつ知らん振りを決め込んでいる。
「ミスター・サンダー!わしは星の手に薬を塗ってやろうと……」
やや遅れて部屋から出てきた伴が声を上ずらせながら叫ぶ。
「ウフフ、大丈夫。ワタシ理解アリマス。ノープロブレムネ」
それから、ひとり上機嫌で帰ってきたサンダーと、血相を変え台所に走り込んできた伴と飛雄馬をそれぞれ見比べ、老女は首を傾げた。
どうかしたんですか?と尋ねる彼女に何でもないと返してから飛雄馬は伴を睨みつけ、それを目の当たりにしたサンダーは再び口笛を吹く。
「うう……」
グスン、と伴は先程とは違う涙を啜って、すまん、とややサンダー氏には劣るものの、だいぶ体格のいい体を小さく縮こまらせながら謝罪の言葉を口にする。
「…………」
本気で、怒っているわけないだろう、と飛雄馬はダイニングテーブルの椅子に座ったまま、しゅんと肩を落としている彼を横目で見遣りつつ、出会った頃の彼を思い出し、顔を綻ばせた。