環境
環境 「星よ、その、先日、きさまの家を訪ねたときにちらっと目に入ってしまったんじゃが……」
放課後の練習を終えた帰宅途中に、伴がいつになく神妙な面持ちのまま口を開いた。
「ひどい貧乏暮らしで驚いたか?」
自嘲し、飛雄馬は笑うと、でも、何だかんだ気に入ってるんだぜとも続ける。これは強がりでもなく、嘘をついているわけでもなく、本当のことである。
一度、ギブスを無理矢理に装着させた赤川が長屋を訪ねて来たことがあったが、友人と呼べる人間がうちを訪ねたのは初めてのことで、妙に気恥ずかしく、そして嬉しかったことを覚えている。
それも、青雲の野球部でおれの球を捕ると言ってくれたのだから。
「いや、そうじゃのうて……写真をだな……」
「写真?」
「うむ。箪笥の上に置かれていた女性の写真……あれは星のお母さんか?」
女性の写真、で合点がいき、ああ、と飛雄馬は声を漏らすと、うん。おれのかあちゃんさ。おれが物心つく前に病気でな…と漏らし、足元に転がっていた石をひとつ、蹴飛ばした。
貧乏長屋暮らしで母親のいないおれを伴はどう思うだろう。他人と親密になるということは、自分の家庭環境についても相手に知られてしまうのだ。
何も一から十まですべて打ち明ける必要もなかろうが、そのうちの一から五くらいまでは話しておかねばならぬことも今後出てくるだろう。
「う、うむ……そ、そうなのか。おれにもおふくろはおらんでのう。父兄参観に顔を出すのはいつも親父でありがたいことなんじゃが、寂しかったことを覚えちょるわい……」
「そう、なのか」
歩を進めつつ、飛雄馬は蹴飛ばした石が再び足元に現れたことで、それをまた蹴り飛ばす。
「おれもおふくろの顔は写真でしか知らんわい。親父に尋ねるといつもはぐらかされてばかりでのう。おれのおふくろも星のお母さん同様、病気で亡くなったっちゅう話じゃが、あんな親父だもんで無理もないと思うわい」
「似ているな、おれたち。いや、おれにはねえちゃんがいるが──」
「まったく、羨ましいぞい」
隣を歩いていた伴に突然肩を抱かれ、飛雄馬はその腕の太さと衝撃に体勢を崩し、前へと転びかけた。
「うっ!」
「おっと、すまん!星はちびすけだから今までの柔道部員どもたちと同じに扱ってはいかんのう」
「ちびすけは余計だぞ、伴」
でへへと笑い、頭を掻く伴の隣を歩きつつ、飛雄馬はこの柔道から野球へと転向し、おれの球を捕ると宣言してくれた友に対し、親近感を覚えた。
何もかもが正反対のような人間だが、唯一、互いに母がいない。それだけが共通点。
あの渾身の投球を捕ってくれた瞬間から、おれは伴宙太には一目置いているが、この告白が彼へと抱く印象を更に変えてしまった。おれにねえちゃんはいてくれたが、やはり父兄参観にかあちゃんの姿がないことは寂しく思っていたし、教室で母親の話をする級友のことは羨ましく思っていた。この男も、それは同じだったのだ。
「こんなちびすけがあんな球を投げるんじゃからのう」
隣を行く友人の胸中など露知らず、伴はガハハと声を上げて笑うと、飛雄馬の頭をその大きな両手で叩いた。
「…………」
「す、すまん。調子に乗りすぎたわい」
飛雄馬の態度に驚いたか、伴は手を引っ込めると申し訳なさそうに肩をすくめる。
応援団長だと連日グラウンドに現れ、野次を飛ばしていた頃とはまるで別人のような伴に飛雄馬は吹き出し、人は変わるものだなと微笑む。
「…………」
と、伴が立ち止まるなり、じっとこちらを見つめて来たため、今度は飛雄馬がきょとんと彼を見上げることとなった。
「急に立ち止まったりして……どうしたんだ?」
「そうじゃい。おれは、伴宙太は星飛雄馬という男に出会って生まれ変わったんじゃい。親父の権力を傘に威張り散らし、柔道全国制覇と言う肩書きを鼻にかけ、青雲の英雄はおれだけでいいとばかりに星を潰そうともしてしまった。天野先生や野球部の連中にもひどいことをしてしまったわい」
「…………」
「おれはきさまと巡り合わせてくれた星の親父さんには感謝してもしきれんわい。親父さんがおれを選んでくれなんだら、おれはいまだに野球部で怒鳴り散らしちょったろう」
「伴……」
「年はおれの方がふたつも上じゃが、野球に関しては星の方が何年も先輩じゃからな。これから色々と教えてくれると助かるわい」
ニコッ、と伴は満面の笑みを浮かべると、よろしくたのんます!星先輩!と右手を差し伸べてきた。
「先輩は余計だぞ。まったく、一言多いな」
飛雄馬もまた、右手を出し、差し出された伴の手を握る。こちらの手を力強く握り返してくる温かく大きな手に飛雄馬は何だか泣きそうになって、大きく息を吸う。すると、何を思ったか伴がいきなり手を引き、右手を握られたままの飛雄馬は、思わずつんのめる形で目の前の彼の胸へと飛び込んだ。
「星よ!親父さんの言葉を借りるわけじゃないが、末永くよろしく頼むぞい!」
「っ……!」
そのまま、ぎゅうと抱き締められて、飛雄馬は思わず息を呑む。なんと大きくて、広く厚い胸だろう。そして、なんと熱いことだろう。背中を抱く腕はまるで丸太のようで、身動きが取れない。
耳に届く速い心臓の鼓動はおれ自身のものだろうか。
とうちゃんや、ねえちゃん以外に抱き締められたのはこれが初めてのことだ。
「おっと!すまん!調子に乗りすぎたわい!いかんいかん」
ガハハと伴は再び笑い声を上げると、飛雄馬を離し、明日からまたよろしく頼むわいと続け、見送りごっつあん!と言うなり、ひとり、先を行く。
「伴!」
夕日に向かい、歩いて行く伴を飛雄馬は呼ぶ。
伴は腕を上げ、ひらひらと手を振ると、気を付けて帰るんじゃぞいと後ろを振り向きもせずに、そう言った。
「また、明日……」
飛雄馬はそれだけ言うと、自宅への道を駆け出す。
出会えてよかったなんて、それはこっちの台詞だ。
伴がいてくれなきゃ、おれは巨人の星になるどころか甲子園出場自体、夢のまた夢で終わっていただろう。

あの腕の、胸の、なんとあたたかかったことだろう。 見慣れた光景が建ち並ぶ自宅近辺まで駆けてきて、飛雄馬は星の表札が掛かる長屋の戸を勢い良く開けた。
「おかえりなさい、飛雄馬。どうしたの、息を切らして。顔、真っ赤よ」
戸を開けてすぐの居間にて洗濯物を畳んでいた姉の明子が驚いた様子で、飛雄馬の顔を見つめる。
「え?」
「熱でもあるんじゃないかしら?大丈夫?」
「学校から走ってきたからだと思う。大丈夫さ」
明子にそう返して、飛雄馬は靴を脱ぎ、学ランを衣紋掛けへと掛けてから台所に立つと、コップに一杯、水を汲んだものを一息に飲み干す。
心臓は未だ早鐘を打ち、高鳴っている。
いや、これは今、全速力で駆けてきたからだ。
「飛雄馬よ、帰ったか」
咳をしつつ、居間に布団を敷き、横になっていた飛雄馬の父・一徹が体を起こす。
「大丈夫なのかい。起きたりして」
飛雄馬を青雲に入学させるため、働きづめであった一徹は体調を崩し、ここしばらくは床に伏せている。
そんな父を心配し、飛雄馬は彼のそばに腰を下ろすとそう、尋ねた。
「なに、明子のお陰でだいぶいいわい。そんなことより飛雄馬よ、お前、いい顔になってきたな」
「え?」
いい顔、って……?
訊き返すべく、口を開きかけた飛雄馬だったが、明子にご飯よと言われ、はぁいと返事をすると、彼女の手伝いをするべく立ち上がる。
「あら、いいのよ。飛雄馬は座っててちょうだい」
「でも、とうちゃんの世話でねえちゃんも疲れてるだろう」
「こら、飛雄馬。父親を赤子扱いするな」
「…………」
「…………」
ぷっと明子と顔を見合わせ、飛雄馬は吹き出すと、姉の言葉に甘え、ちゃぶ台の定位置に着いた。
「高校での野球は楽しいか」
「うん。楽しいよ、ただ」
「ただ?」
尋ねつつ、一徹が咥えた煙草の先に火を付ける。
「伴のことを快く思わないのも中にはいてさ。無理もないことだとは思うけど」
「ふむ。そうか」
「そうかってとうちゃん、そんな他人事みたいに……」
「まあまあ、そんな話は食事のあとでいいでしょう」
「…………」
ちぇっ、と飛雄馬は唇を尖らせたが、明子が食卓に並べ始めた夕食の品々に目を輝かせる。
それから、いただきますと手を合わせ、親子三人、夕食に舌鼓を打つ。伴はもう、家に帰り着いただろうか。今度、うちで食事でもどうかと誘ってみようか、そんなことを考えつつ、飛雄馬は明子に、おかわりと空になった茶碗を差し出す。
「ふふっ、ほっぺにご飯粒がついてるわよ」
「どっち?」
茶碗に白米をよそう明子に尋ね、飛雄馬は教えられた右の頬からご飯粒を抓む。
「それでとうちゃん、おれの顔がよくなってきたってどういう意味だい」
明子が茶碗によそう間を取り持つように、飛雄馬は一徹に先程の発言の意味を問う。
「いい捕手を得て、らしくなってきたと言うことだ。ただし、野球は投手と捕手のふたりでやるものではないからな」
「うん、わかってるさ。なんとか、部員たちに伴が認めてもらえるよう努力するよ。それに、伴は球は捕れるが、ルールについてはからっきしだからそっちも教えてやらなきゃとは思ってるよ」
「ふふふ……」
「変なとうちゃん」
味噌汁の椀に口を付ける一徹から視線を外すと、非は明子から茶碗を受け取り、煮魚に箸をつける。味の染みた身が口の中でほろりと解け、白米が進む。
ねえちゃん、腕を上げたねと笑って、飛雄馬は二杯目の白米を掻き込むと、味噌汁を啜り、ごちそうさまと手を合わせた。
早く明日にならないだろうか。早く伴に、いや、違う……。飛雄馬は首を振り、大きく息を吐く。
「変な飛雄馬」
くすくすとその様子を見ていた明子が笑い声を上げた。
「伴くんと早く野球がしたくてたまらんのだろう」
「そ、そんなわけ……!」
一徹の鋭い一言に反発しかけたが、すぐに口を噤むと飛雄馬は、おれ、とうちゃんとねえちゃんのために頑張るから、と小さな声で呟く。
ふたりからの言葉はなく、家の中はしんと静まり返った。箪笥の上で、母の写真が微笑んでいるのを目に留め、飛雄馬は、いつか伴のお母さんの写真を見てみたいな、とそんなことを思いつつ、曲げた両膝を両腕で抱くと彼の名をぼそりと囁いた。