「飛雄馬くん」
球場から出てすぐのところで飛雄馬は名を呼ばれ、ギクリと体を強張らせた。
自分の名を飛雄馬くん──と独特な呼び方をする人間はひとりしか知らない上に、その人はできれば顔を突き合わせることを避けたい相手だったからだ。
「は、花形さん……」
こちらに歩み寄って来る彼の──義兄の名を口にすると、飛雄馬は愛想笑いを浮かべ、まだ帰ってなかったのか、と続ける。
本日の巨人─ヤクルト戦の試合終了から優に一時間は経過している。一刻も早く愛車に飛び乗り、愛妻の待つ自宅に帰るべきだろうと飛雄馬は思ったものの、口には出さず花形の返事を待った。
「きみが出てくるのを待っていた。ずいぶん遅かったようだが、長島さんと明日の話をしていたのかね」
「はあ、まあ……そんなところだが、待っていたとは何の用です」
「なに、今日の試合についてさ。素晴らしかったと一言伝えたくてね。ただ、このままでは終わらせんよ、と」
「わざわざ、それを伝えるためだけに?」
早くこの時間が過ぎないだろうかと花形が去ってくれることだけを願っていた飛雄馬だが、彼の言葉を受け、眉間に皺を寄せる。
「飛雄馬くんもこのまま勝ち続けられるとは思っていまい。油断大敵だよと伝えにね」
フフ、と花形の唇が不敵に歪み、笑みが溢れた。
「…………」
「そんな怖い顔をしないでくれたまえ。ほら」
言うと、花形は何やら後ろ手に隠していたものを差し出してきて飛雄馬はドキッと一瞬、己の心臓が跳ねるのを感じたが、彼が手にしたものがコーヒーの缶であったことに気付くと、安堵しつつ、これは?と訊いた。
「道中、飲みたまえ。大したものではないが」
「…………」
いらん、と突っぱねようとも考えたが、飛雄馬は缶を受け取るべくおそるおそる手を差し出す。
そうして手渡された一本の缶。
互いに無言のまま所有者の移った缶は指にひやりと冷たく、ほんの少し、飛雄馬の緊張を解き解した。
「コーヒーは嫌いかね」
「い、いや……そんなことはない。いいんですか、いただいても」
「今更返せとは言わんよ。フフ……」
「ありがとう、ございます……」
まさか義兄から物をもらうとは夢にも思わず、飛雄馬は手にした缶をまじまじと見つめる。
「……では、また」
花形はこれでもう用は済んだとばかりに飛雄馬の横を通り過ぎていく。声をかけようかと背後を振り返り、去りゆく花形の背を飛雄馬は見遣り、口を開きかけたが、結局言葉を紡ぐことなく小さくなる義兄の姿を目で追うことに留めた。
缶を受け取ったことで自宅に来いとでも言われるのではないかと、そんな断りづらい状況を作る魂胆かと少しでも勘繰ってしまった己の猜疑心の強さに辟易しつつ、飛雄馬は夜空を見上げ、溜息を吐く。
それから、自分も帰宅するべく歩み始めてから缶のプルタブを上げ、中身を一口、口に含む。
ミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーは甘く、試合後の疲弊しきった体に滲みゆくのがわかる。
あれは、花形さんなりの激励のつもりなのだろうと飛雄馬は義兄の意外な不器用の一面を垣間見た気がして苦笑すると、夜空に輝く星を眺めつつ、明日の試合も絶対に勝つぞと己を奮い立たせた。