少し、ニホンの街を歩いて帰りマースと言うビッグ・ビル・サンダー氏を気を付けてと見送ってから、伴は、「わしらも帰るとするかのう」とニンマリ笑った。
飛雄馬もまた、ああと頷いてかぶる帽子を外して額に浮かんだ汗を拭う。と、それをじっと見つめる視線に気付いて、どうした?と尋ねた。
「あ?う、いや、なんでもない。なんでもない」
「なんでもないことはないだろう。何か言いたいことがあるならハッキリ言うといい」
恥ずかしそうに視線を逸らしてぶんぶんと手を振る伴の側に歩み寄って、飛雄馬は彼の顔をじっと見上げる。
「う、む、う………」
みるみるうちに伴の顔が真っ赤になって、飛雄馬は何事かと目を見開く。
「体調でも悪いか」
「う、うんにゃ。そうじゃのうて……そのだな、その、触ってみてもええかのう」
「触る?何を」
先程からまったく要領を得ない伴の言葉に飛雄馬は内心不安さえ覚える。
触ってみたい、とは一体何のことなのか見当も付かず、その先の言葉を待った。
「髪をな、触ってみたい」
「髪?ああ、フフ……切りに行かねばと思っているうちにここまで伸びてしまった。こんなものでよければ触るといい」
そ、そうか、と伴は恐る恐る手を差し伸べて、飛雄馬の耳の下数センチまで伸びた少し癖のあるふわふわとした黒髪に触れた。
思っていたより柔らかくて、汗をかいたせいか、ほんの少し濡れている。
指を通してみて、伴は指で飛雄馬の頬に掛かった前髪を退けてやった。
「明子さんは癖っ毛だったかのう」
「いや、ねえちゃんはかあちゃんに似たのか癖はなかった。おれの髪はとうちゃんに似ているらしい」
「ふぅむ。しかし、5年でここまで伸びるものじゃろうか」
「伴も、5年の間にずいぶん貫禄が出たじゃないか」
「き、気にしとることを」
ふふっ、と飛雄馬は吹き出して、伴の手に自分の手を這わせるとそのまま顔に触れさせてから、彼の掌に頬を擦り寄せた。
「5年と、一口に言うが5年もすると街並みも、人も世間も変わってしまう」
「わしは、5年経とうと10年経とうと星に対する思いは変わらんぞ」
「……………」
果たして、そうだろうか、と飛雄馬はかつて自分の球を捕り続けたせいで真っ赤に腫れてしまったのがまだ記憶に新しい伴の左手の暖かさに目を閉じる。
ああ、それでもこの掌の温度はあの頃のままで、触れる肌はなんて優しいのだろうか。
「ほ、星……」
遠慮がちな声が降ってきて、飛雄馬は目を開ける。
すると今度は反対に目を伏せた伴の顔がそうっと寄せられたものの、飛雄馬は顔を逸らすようにして彼を拒絶し、身を翻し距離を取った。
悲しげに伴の顔が歪んで、唇がぐっと引き結ばれる。しかして伴は一瞬、苦しそうな表情を浮かべたがすぐにニコッと笑みを浮かべ、帰るとするかのう、と続けた。
「伴、おれは、今も昔もきみにはたくさん世話になっているし、感謝してもしきれない程だ。しかし、もう、自分の身を固めることを視野に入れてもいいのではないか」
「そんな、ことを考えちょったのか」
橙の空が濃い青に侵され、夜がすぐそこまで来ていることをふたりに知らせる。
「帰ろう、おばさんが心配するぞ」
言って、飛雄馬は立ちすくむ伴の隣を通り過ぎ、グラウンドを出て行こうとする。
「星、わしはもう、子供ではない。それに、一緒に野球はやれんが、それでも星の力になりたいと思った。わしは野球に、いや、何事にも一生懸命な星が好きなんじゃい。だからのう、その、いらんとか言わんでくれんかのう」
「いらん?馬鹿な、おれは伴のことを思って……」
「わっ、わしのことを思うのなら、身を固めろとか言うんじゃないわい!さっき言うたこと、聞いとらんかったか?5年後も10年後もわしは星のことを愛しとると、言ったじゃろう!」
「…………伴」
足を止め、飛雄馬は伴の立つ背後を振り返る。
「星にまた会えて、わしは嬉しいぞい」
「ふふ……いつ愛想を尽かされるか」
「またそんなことを……」
「伴」
飛雄馬は苦虫を噛み潰たように顔をくしゃっと歪めた伴を手招きし、何事かと足早に歩み寄った彼に対し、耳を貸せ、と囁く。
「耳?」
怪訝な顔をして身を屈めた伴の太い首に飛雄馬は腕を回すや否や、彼の唇に己がそれを押し付ける。
「ほ………っ、」
突然のことに驚き、伴は刹那、呼吸するのも忘れたがすぐに目を閉じ、飛雄馬の柔らかな髪を指で梳くようにしてその後頭部に手を添える。
自分の体を抱く腕と、触れる唇は熱いほどで、飛雄馬は出来ることならもう二度と、この熱と離れ離れになることがないように、と微かに開いた唇から口内に滑り込む舌の温度に酔いつつそんなことを一人、思った。