隠し事
隠し事 「っ…………!」
投手交代、の宣言を受け、一足先に飛雄馬はベンチに引っ込むと用足しに行ってきますと川上監督に告げてから球場建物の中に入った。
一歩踏み出すごとに左腕が悲鳴を上げる。
限界が近いのは自分が一番、理解している。
大リーグボール三号。
一投、一投ごとにおれの生命を削っては、打者の握るバットを避けて通る魔球。
飛雄馬は己の上腕を袖の上から押さえ、奥歯を噛む。
あと何球、この腕は耐えてくれるのだろう。
黒いアンダーシャツのおかげで、左腕の赤い腫れは誰にも気付かれてはいない。
球場のロッカー室に入るのだって、あらかじめアンダーシャツを着込む用心深さ。
近所の町医者に頭痛がひどいと嘘をついて処方してもらった痛み止めを服用しての登板。
ここ最近は処方通りの服用では効かなくなってきていることもまた事実。
額を流れ落ちるは痛みを堪えてのじっとりとして重い脂汗。
飛雄馬は痛みに顔をしかめ、這う這うの体で選手のロッカー室へと入ると、中にあった洗面台の蛇口のハンドルを捻り、勢い良く蛇口から放出される冷たい水に左腕を晒した。
「…………」
冷たい流水が熱を持ち、疼く腕の痛みを幾分か取り除いてくれる。
先日、レントゲンを撮りに行った際、医者はなんと言っていたか。
飛雄馬は壁に設置された洗面台の真上、ふと、顔を上げれば覇気のない、顔色の悪い自分の面相がそこにある鏡には写った。
死相と言うのは、こういう表情を言うのだろうか。
瞳に光はなく、焼けた肌からは血の気が失せている。
ふふ、と力なく飛雄馬は微笑み、蛇口のハンドルを締めようと右手を伸ばした、その刹那、ロッカー出入り口の扉がなんの前触れなく開いた。
「…………!」
開いた扉の隙間から顔を覗かせた川上監督に飛雄馬はアッ!と驚き、目を大きく見開く。
「星、お前──」
「監督、さん。試合は、まだ…………」
言いかけ、飛雄馬は慌てて蛇口のハンドルを締めると濡れた腕の雫を払うように右手で肘から下をさすった。
「星は何か、隠しとらんか」
「え?」
どきん、と飛雄馬の心臓が川上監督の言葉を受け、跳ね上がる。
「最近、星の様子がどうもおかしいと皆が言うので、よくよく様子を見ていたが、しきりに左腕を気にするような仕草をしていたのに気付いてな」
「…………」
さすが川上監督だ、と飛雄馬は彼から手渡されたタオルで腕を拭きつつその眼鏡のレンズの下の鋭い眼光と、偉大なる巨人軍監督の観察眼には敬服した。
「医者には行ったのか」
「いえ、何ともありません。水に晒していたのも汗をかいたからです」
「汗を?この寒いのにか」
苦しい言い訳であることは分かっている。
しかして、ここで監督にバレてしまうわけにはいかないのだ。
飛雄馬は唇を引き結び、沈黙を耐える。
「……本当に、何でもないんだな」
監督の問いに、飛雄馬は大きく頷くと真っ直ぐ彼の目を見る。
「…………」
「わかった。妙なことを言って悪かったな。次も期待しているぞ」
「は、はい!」
飛雄馬はパアッと顔を輝かせ、微笑むと部屋を出て行く監督を見送り、渡されたタオルを握り締める。
監督から譲り受けた16の背番号に傷をつけてはならない。
この背番号を付けた以上、おれに後退はない。
幾度となく姿を消し、失意のドン底に落ちたおれの再起を監督はずっと待っていてくれた。
今、父は、姉は、親友は、そばにいなくとも、いつも温かく己を見守り、励まし続けてくれた巨人軍は常に自身と共にある。
飛雄馬は再び疼き出した左腕の痛みに顔をしかめ、自身のロッカーまでふらふらと歩み寄ると扉を開け、着替えを入れた鞄から痛み止めの錠剤を取り出す。
医者は、あの日、これ以上無理をすると左腕の筋肉が切れ、一生左手の指は動かなくなると言っていたか。
それは明日か、明後日か。
起きてすぐに左手の指が動くことを確認する朝を迎えるのも、もう何日目になることだろう。
掌に取り出した錠剤を服用するため、飛雄馬は洗面台まで戻るとハンドルを回し、蛇口から水を流す。
そうして、指を曲げ、器のような形を取った右手に水を溜め、口に含むと一気に錠剤もろとも、飲み下した。
これが効くまでにはしばし、時間を要する。
「…………」
飛雄馬はふう、と小さく息を吐いてから、緊張の糸が解けたか冷たい床の上に崩れ落ちた。
コンクリートの床がひやりと彼の肌を刺す。
そのまま飛雄馬は目を閉じ、扉の向こう、球場のグラウンドで巨人の勝利を告げる解説のアナウンスと観客の歓声を聞いた。