家事
家事 この日、午前のミーティングを終え、寮で休んでいた飛雄馬は、寮長からおまえの元・女房から電話だぞなどとからかわれ、慌てて部屋を飛び出し、受話器を受け取る。
「変なことを言うのはやめてください」
受話器の送話口に手を当て、飛雄馬は唇を尖らせそう言ったが、肝心の寮長はどこ吹く風ですまんすまんと笑い声なんぞを上げつつ、廊下の向こうへと去って行った。
まったく、寮長も寮長だが、伴も伴だ。
こちらが休みのたびにこうして電話をかけてきて、人の迷惑も考えてほしいものだ。
飛雄馬は胸中で伴に八つ当たりしながら、受話器を耳に当てると、どうした?と単刀直入に尋ねる。
返答次第では少しお灸を据えるべく、怒鳴りつけてやろうかとも考えたが、耳に当てた受話器の向こうから聞こえてきたのは星ぃ〜頼むよぅ〜などといった伴の情けない声で、飛雄馬は、何かあったのか?と低い声で訊いた。
『いつもうちに掃除や洗濯、その他諸々をしに来てくれるおばさんがおったじゃろ』
「……ああ、よく覚えている」
飛雄馬は、自分が伴と知り合った当初から彼の屋敷に出入りしているお手伝いさんの女性をひとり、脳裏に思い描く。今はおばさんと言うより、お婆さん、と形容する方が近い年齢まで来ているが、ふたりは彼女を今まで同様、おばさん、と呼んでいる。
『そのおばさんが熱を出してここ数日寝込んどるんじゃあ。それで家の中は荒れ放題じゃし、飯は店屋物か外食ばかりでほとほと困り果ててしもうてのう』
「……それは、心配だな」
飛雄馬は今までの会話の流れから察するに、一緒に見舞いに行かんか、とでも言われるものだと思っていた。しかして、続いて伴の口から発せられた言葉は恐るべきものであった。
『それでじゃな、星、おまえにうちの家事全般を頼みたいんじゃい』
「…………」
飛雄馬は受話器を手にしたまま、なんと答えようか、しばし口を噤み、思案する。
まさかそう来るか、という予想外なところを攻められた驚きに加え、今まで伴には散々世話になったのだし、それくらいならお安い御用だと請け負ってやりたい気持ちもある。
しかし、ここで伴を甘やかすとろくなことにならないに違いない。
左腕時代に同じ寮の部屋で生活したこともあったが、朝はいつもおばさんに起こされることが当たり前で、自分で起きたことなど一度もないなどと言われ、心底驚いた記憶が今更蘇る。
洗濯も自分でしたことはないし、食事のあとの片付けもしたことがないと言っていたか。
だったらこの機会に是非とも覚え、技能を身につけ、今後に活かすべきなのではないか、と飛雄馬は考えたが、まずそれを教える指南役が必要だな、と思い直し、わかった、と答えた。
それから寮長にわけを話し、飛雄馬は寮から出た大通りにて捕まえたタクシーで伴の屋敷へと向かう。
およそ一時間ほどタクシーに揺られ、到着した先、伴の住む大豪邸の戸を叩いて、飛雄馬は出迎えてくれた家主を押し退け、早速掃除に取り掛かった。
幼い頃から姉の手伝いをしていた過去はもちろん、クラウンマンションで数ヶ月程度ひとり暮らしをしていた経験もある飛雄馬は、テキパキと屋敷中の目につくゴミを拾い集め、ゴミ袋にそれらを押し込んでから一部屋一部屋丁寧に掃除機を掛けていく。
その中で、洗濯かごに山盛りになっていた使用済みのシャツや下着、タオル類を洗濯槽に放り込み、洗剤等を適量そこに入れ、飛雄馬は水量や時間を設定するツマミをメモリに合わせ、回した。
こんなに洗濯物を溜めて、着替えはどうしたんだと尋ねてみれば、新しいものをその都度買っていたなどと返され、飛雄馬は大きな溜息を吐いた。
「うう、面目ないわい」
「少しは覚えろ、伴。今はボタンひとつで何でもやってくれる時代だぞ」
「そ、そりゃ、そうじゃが、今まではおばさんが全部やってくれとったし……」
「将来、伴の嫁さんになる人は苦労するだろうな」
洗濯槽の中に注ぎ込まれた水が洗剤と洗濯物とを撹拌させ、乗せた蓋の下でガタガタと音を立て始めたのを確認してから飛雄馬は、皮肉をぽつりと溢し、掃除機掛けを再開する。
「わしには星がいるのに嫁さんなんかいらんわい」
「…………」
聞こえなかったふりをして、飛雄馬は部屋の隅に掃除機の吸い口を当てた。
それにしても、おばさんはこの広い屋敷の掃除をいつもひとりでしていたんだろうか、と飛雄馬は額に浮いた汗を拭いつつそんなことを考える。
サンダーさんとここに居候していた頃、手伝いますよと申し出たことも何度かあったが、おばさんはおれに練習に集中してほしいと言って、一度も手を出させてはくれなかった。
今になって思えば、ずいぶんと申し訳ないことをしてしまった。
「星ぃ、わし腹が減ったわい」
「伴、おまえいくつになった?自分が情けないと思わないのか」
伴のぼやきに掃除機を操る手を止め、飛雄馬は彼に詰め寄ったが、いいや、伴には世話になった恩がある。
そんなことを言ってはいけない、と考え直し、無心で部屋の細々としたゴミを吸っていく。
「な、何か買う物はあるか?冷蔵庫の中が空っぽなんじゃ」
「…………」
飛雄馬は作り置きが利きそうな料理の種類と手順を頭に思い描きつつ、一度掃除機のスイッチを切り、コンセントを抜くと、伴に卵や旬の野菜の品々、肉や切り身の魚類を買ってくるように伝え、廊下に出ると今度は隣の部屋の掃除機を掛けていく。
そうして、広い屋敷の部屋すべて掃除機を掛け終え、洗濯の終わった衣類たちを脱水槽に入れ替えてから飛雄馬はようやく一息吐いた。
あとは脱水の後に洗濯物を干してしまえばいい。
食事の準備は、伴が帰ってからでいいだろう。
今から米を炊いては時間が掛かってしまう。
買うように伝えたうどん麺を使い、昼は簡単に済ませてしまうことにしよう。
しかし、考えてみればおれもこうして本腰を入れて片付けや料理などをするのは、何年ぶりになるだろうか。クラウンマンションに住んでいた頃、ねえちゃんが行方不明になってからは空いた時間に掃除をして、食事を作って、洗濯物を回して……寮にいると自分がすることと言えば、洗濯と部屋の微量な掃除くらいなものか。
日々、誰かのお陰で今の生活が成り立っていることを忘れてはいかんな、と飛雄馬は洗濯機を見つめ、空腹に耐えかね、音を立てた自分の腹を撫でた。
するとちょうど伴が帰宅したらしく、玄関先で物音がしたような気がして、飛雄馬は彼を出迎えるべく長い廊下を引き返す。
本当ならこの廊下も雑巾掛けなりした方がよいのだろうが、それは昼食を終えてから伴にさせることにしよう。
「おかえり、伴」
「おう、ただいま、星」
両手いっぱいに買い物袋を下げた伴を出迎え、飛雄馬は微笑む。
「思っていたより早かったな」
「なに、星を待たせるといかんと思ってのう。ふふ、なんだか新婚さんみたいじゃい」
「ばか。早く台所に持っていけ」
馬鹿とはひどいのう、馬鹿とはと背後でぼやく伴を置いたまま、飛雄馬は買い物袋をひとつ手に、廊下を歩く。一足先に台所に到着した飛雄馬は鍋に水道水を注ぐと、それをコンロにかけ、遅れてやって来た伴にうどん麺の在処を尋ねた。
「おう、こっちの袋じゃい」
「ありがとう」
沸騰した鍋でうどん麺を三玉茹でつつ、飛雄馬は二口あるコンロのもう一方でしょうゆやみりんを使い、だし汁を作る。
そうして茹で上がったうどんとだし汁を丼に盛り付け、途中で刻んでおいた葱を散らせば簡単な素うどんが出来上がった。
うまいうまいとえびす顔でうどん二玉を平らげる伴を眺めながら飛雄馬もまた、丼を空にすると、今度は脱水の終わった洗濯物を干しに庭へと出る。
今干せば、夕方には恐らく乾くであろう。
大量の靴下や下着類、そしてシャツを物干し竿にシワを伸ばし、丁寧に干していくと、飛雄馬は風呂の掃除を済ませてから早速作り置きの料理の作成に取り掛かった。
物珍しそうに覗き込んでくる伴にあれこれ指示を出し、飛雄馬はこれは今日の夜の分、これは明日の朝の分と容器に取り分ける。
米の炊き方もわからぬという伴に丁寧に研ぎ方を教え、炊飯器にちょうど夕飯時に炊き上がるようセットしてから、飛雄馬は一仕事終えた安堵感に大きな溜息を吐いた。
「世話になったのう、星。わしも色々と勉強になったわい」
「気に入ったものがあったら言ってくれ。材料と作り方は教えるから」
外していた腕時計を手首に巻き直し、飛雄馬は時間を確認する。
「……そ、それでじゃ、星、今日の謝礼と言ってはなんじゃが……」
廊下を歩きながら伴が着ているジャケットのポケットから何やら封筒を差し出すのを飛雄馬はいらん、と受け取らず、おばさんを労ってやるんだな、とだけ返すのみに留めた。
「おれも伴も相変わらずおばさんには迷惑を掛けてばかりだな」
「星に嫌われんためにも自分のことは自分でするよう心掛けるわい」
「おれのためじゃない。自分のためだ。おばさんだって伴が教えてくれと言ったら快く教えてくれるに違いないさ」
「い、いや、その、昔な、もっとわしが小さい頃、おばさんに手伝うと言ったことがあるんじゃが、おばさんは坊っちゃんは座っていてください、あなたはいずれこの伴自動車工場を、いいえ、この日本の未来を担っていくお方なんですからだなんだと言われてしもうてのう」
「…………」
飛雄馬は申し訳なさそうに肩をすくめる親友を見上げ、すべての元凶はおばさんだったのか、とあのやたらに伴に甘い彼女の顔を思い出し、思わず乾いた笑いを漏らした。
「じゃが、わしも今回でだいぶ懲りたわい。自分のことくらい自分で出来るようにならんとな」
「ふふ、それを聞けただけでもここを訪ねた甲斐があった。使った食器はちゃんと洗うんだぞ」
「ええい、嫁さんを通り越して母親みたいなことを言いおるわい」
「ふふふ……また何かあったら呼んでくれ」
玄関先にて靴を履きつつ飛雄馬は微笑む。
「そんなことを言うとまた電話するぞい」
「…………」
「う、あ、その、今後は、その、控えるようにするわい」
「伴に必要とされるのは嬉しいさ」
明日はちゃんと仕事に行けよ、と飛雄馬は言い残し、玄関の戸を開け、外へと出た。
「ほ、星?」
背後で、妙な声を伴が上げた気がしたが、飛雄馬はあえて聞き返すことはせず、後ろ手で戸を閉めると、その足で大通りへと向かう。
すっかり日は暮れ、飛雄馬が見上げた空には夜の色が見て取れる。
洗濯物を取り込むことを伝え忘れたが、大丈夫だろうかと飛雄馬は一瞬、引き返すことも考えたが、後で一本電話を入れることにしよう、とその手でタクシーを捕まえる。
現役を、引退したあとのことなど今は考えたくもないが、いつかおれの右腕が必要とされないときが来たならば、あんな暮らしを送るのも悪くはないかもしれんな。
なんて、自惚れもいいところだ。
その頃には伴も所帯を持ち、いい父親になっているかもしれん。
飛雄馬は、タクシーの後部座席で揺られながら自分の右腕を左手でさすると、今はそんなことより──明日の試合に集中せねば、と窓の外、夜空に微かに浮かぶ星のひとつを睨みつけた。