邂逅
邂逅 また、ここに来てしまった、と飛雄馬は目を細め立派な門を構えた大きな屋敷を見上げた。表札には伴、と書かれている。
ここ最近はほんのりと汗ばむ陽気の日もあればまだ肌寒く感じられるような、ともすれば体調を崩してしまいそうなほど気温の寒暖差が激しい。暦の上でも春が近く、この日は少し冷える日であった。
だからこそ、飛雄馬もここに来てしまった訳だが。
あれからもう何年が過ぎただろうか。東京の土を踏むのももう何年ぶりになるだろうか。今やねえちゃんの夫となった花形が手を回したであろう興信所のれんじゅうから逃げるように各地を転々としている。
そんな彼らの目を盗むようにして、東京へとやって来た、いや、もしかするともう既に花形の元におれの情報は届いているかもしれない、けれども、東京へはそう長居する気もない。ただ、ただ、あの親友の面影を見たかっただけだ。
飛雄馬は目を閉じ、溜息を吐くと一刻も早くこの場を離れるために踵を返す。
するとちょうど、向こうからやってくる白髪の老婆と目が合い、飛雄馬は己がサングラスを外していたことに気付き、しまったと視線を逸らした。
どこから顔が割れるか分からんと言うのに、この期に及んで何故サングラスを取ってしまったのか。まずいことになった、と飛雄馬は駆け出した。と、彼女は、「星さんでしょう!」と呼んだ。
「ひ、人違いだ」
飛雄馬は掌で顔を覆うようにして答える。無視をして走り抜けてしまえば良さそうなものだが、生来の人の良さが仇となり、つい飛雄馬は受け答えをしてしまった。
「いえ!人違いなことがありましょうか。わたしですよ、覚えていらっしゃいますでしょう。坊っちゃんの食事の世話をしておりました」
「…………」
老女がニコニコと笑みを浮かべ歩み寄って来たもので、飛雄馬は挙げていた腕を下ろすと、ええ、と頷く。
覚えているからこその逃亡劇であった。
この老女は彼女が先程口にした坊っちゃん、の言葉とその飛雄馬に対する馴れ馴れしさから見て分かる通り、伴宙太の屋敷にて彼の身の回りの世話を行っている家政婦であった。飛雄馬とは彼がまだ高校生であった頃からの顔馴染みである。
この年代特有の距離感のなさ、というとあまりに不躾だが、初めて飛雄馬が屋敷にやって来たときから彼女は色々と飛雄馬の身辺のことを尋ねて来たし、飛雄馬もそれを無下にすることなく真摯に答えた。
あまり相手にすることはないぞと後ほど伴から耳打ちされたが、飛雄馬からしてみればこの老女の明るさとその歯に衣着せぬ物言いに何となく好感が持てて、屋敷を尋ねるたびに他愛のない世間話を交していた。 そんな彼女と会うのも数年ぶりとなる。
飛雄馬はバレてしまっては仕方ない、とばかりに、老女へ向け、「お久しぶりです、おばさん」と言うなり頭を下げた。
「いやですよ!そんな他人行儀な。フフフ、すっかり、大きくなられてねえ」
そう言って笑う老女の目元には涙が浮かんでいるのが飛雄馬にも見て取れて、彼自身何だか泣きそうになった。
「坊っちゃんなら今、仕事に出ていてねえ。連絡しましょうか」
「あ、いえ………近くまで来たものですから、ちょっと寄っただけです。それに、今更会う必要もないでしょう」
「………坊っちゃん、あれから星さんの後を追うようにすぐ野球界から身を引かれてね。お父様の経営なさる伴自動車をここ数年かけて車の修理や販売だけでなく、その部品やらを製造する重工業分野を担うまでに大きくなさいました。今じゃ日本の鉄鋼の大部分は伴重工業がまかなっていると言っても過言ではありません」
飛雄馬は目を細め、老女の話に聞き入る。
互いに現役選手であった頃から、散々彼の父が野球なんぞはやめろ、と怒鳴り込んできたことが今ではどこか懐かしくさえあった。その度に伴はおれを庇ってくれ、地獄の底まで一緒じゃいと笑ってくれた。
今でも脳裏に思い浮かぶのは、彼と辛くとも楽しかった高校時代、同じ球団で汗を流したあの頃である。
高校生柔道大会の英雄の座を捨て、将来は父の興した会社に入ることを約束された申し分もない幸福な、安定した人生を棒に振ってまでおれに付き合ってくれた伴。
おれの豪速球を受け、掌を真っ赤に腫らして尚、笑ってくれた彼が、今幸福であるのなら、それは願ってもないことだ。
ああ、それを聞くことができただけでも、おれはここに来て良かったと思える。
「どこかで一人頑張っとる星に負けるわけにはいかん。いつか帰ってきたあいつを受け入れるためにわしはここでどっしり構え、盤石な体制を整えておかにゃあならん、が坊っちゃんの口癖でしてね……暇ができるとほら、星さんが住んでおられたマンションを覗きに行かれるんですよ。坊っちゃんが定期的に掃除を頼んで、家賃を払っておいでなんです」
「…………」
飛雄馬はツンと目の奥が痛むのを感じ、空を仰ぐ。泣いてはいけない。あの日からおれは泣かんと決めた。
もう泣いたところでそれを慰め、涙を拭ってくれる友の姿はないのだ。
所詮他人の人生だと啖呵を切ってはみたものの、おれの青春は彼との思い出そのものであった。
「ですから、一目だけでも坊っちゃんに………あっ、星さん!」
言いかけた老女の言葉を聞くことなく、飛雄馬は駆け出した。会いたくないかと言われたら嘘になる。肌を撫でる風が変に冷たくて未だ肌に残る体温を思い起こさせる。
今更、どんな顔をして会えばいい、いや、そんなことは悩むまでもない。きっと伴ならどんな姿のおれでも許してくれるだろう、だからこそ、会えない。
飛雄馬は住宅街を抜け、人通りの多い国道に面した商店の建ち並ぶ辺りまでやって来ると、そこでようやく足を止めた。
羽織るコートのポケットからサングラスを取り出し、飛雄馬はそれを掛けると人混みに紛れ歩み出す。早く東京から離れなければ、花形に見つかっていたら少し面倒なことになる。刹那、国道を走る一台の車が信号に従いその動きを止めた。
飛雄馬はなんの気なしにその車の後部座席を覗いて、一瞬、ハッ、とその場に縫い止められたかのように動けなくなった。
微かに開いた飛雄馬の唇は、何も言葉を紡ぐことなく真一文字に閉じ合わされる。
「…………」
再び、信号が変わり車は走り出す。
飛雄馬はその後ろ姿をしばらく見つめたあと、急ぎこの場を離れるために歩を速めた。