介抱
介抱 酔った伴から今すぐ家に来るようにとの電話があったのが、つい二時間ほど前になるだろうか。
取り次いでくれた寮長からは古女房から電話だぞ、とからかわれ、午前様は許さんぞとも釘を刺され、嫌々タクシーに乗り込んで訪れた伴の屋敷。
しかして、来客用のチャイムを押し、応答を待ってみても一向に返事はなく、飛雄馬はまた眠り込んでおばさんに迷惑を掛けているんじゃないだろうかと暗澹たる気持ちを抱きながら、そっと玄関の戸を開けた。
戸には鍵は掛かっておらず、そればかりか玄関先まで響いてくる伴のいびきに辟易しながら飛雄馬は、お邪魔しますと社交辞令を口にし、屋敷に上がり込むと、彼が眠っているであろう和室へと板張りの廊下を進む。すると、ある和室の襖の向こうから眠っているであろう伴を揺り起こしているおばさんの声がして、飛雄馬はやっぱりかと溜息を吐くと、こんばんは、と廊下側から声を掛けた。
「ぼっちゃん。宙太ぼっちゃん。起きてくださいよう。星さんですよ!」
「むにゃ、なに?ほしぃ?星がにゃんでうちにおるんじゃあ」
「ぼっちゃんがお呼びになったんでしょう!星さん、開けてくださいな。ババには手に負えませんで」
「はあ……」
いっそ見なかったふりをして帰宅したい本音を押し殺し、飛雄馬は廊下と部屋とを隔てる襖をそろりと開ける。と、畳の上に大の字になったスーツ姿の伴の姿があり、辺りには酒の瓶がいくつも転がっている。
彼のそばには齢六十をとうに超えたであろう、伴の屋敷のお手伝いさん──飛雄馬は彼女を敬愛を込めておばさんと呼ぶが──がばつが悪そうに佇んでいた。
「ぼっちゃん。起きてくださいよ」
「おばさん、代わります。遅くなってすみません」
「ああ、もう、本当にすみませんね。ぼっちゃんたら珍しく早く帰ってきたと思えば急にお酒を飲み出して、酔っ払って星さんに突然電話なんてして……」
「慣れていますよ。ここは任せてください。こちらこそ伴のことでいつも申し訳ないです」
「そんな星さんが謝ることでは……昔はちっちゃくて可愛かったんですけどねえ。もうババではどうしてやることもできませんで……それでは星さん、何かあったらすぐに呼んでくださいね」
そうとだけ言うと、おばさんはそそくさと部屋を出て行き、残ったのは高いびきをかく伴と、情けなさから溜息ばかりを吐く飛雄馬のふたりのみである。
飛雄馬は伴の側まで歩み寄ると、その場に腰を下ろし、名前を呼びつつその大きな体を揺り動かす。
「伴、起きろ、伴。お前が来いと言うから来たんじゃないか」
「う〜ん、星、星よう。わしゃきさまに会えんで寂しいわい……」
「伴!」
「ふにゃ……」
鋭く、飛雄馬が名を呼ぶと、伴はとろんと蕩けた瞳を向けてきた。そうして、おう!星か!と言うなり、勢いよく体を起こすや否や、会いたかったぞ!と両手を広げ、飛雄馬を抱き締めに掛かった。
しかして、酔っ払いの挙動などすぐに読めてしまい、飛雄馬は難なく伴の抱擁から逃れると、何の用だ、と尋ねる。
「人恋しくて呼んだのか」
「人恋しいんじゃないわい。星に会えんのが寂しかったんじゃい」
「子供みたいなことを言うな、伴」
「何遍電話しても忙しいだの手が離せないだの、終いにはしばらく電話してくるなと来たもんで、わしゃ寂しゅうて寂しゅうて」
「どうせそんなことだろうとは思っていたが……」
「じゃから会いに来てくれて嬉しかったぞい」
にんまり、伴は赤ら顔に笑みを浮かべ、飛雄馬の顔を覗き込む。ああ、昔からこの笑顔には弱いな──と飛雄馬は一瞬、絆されそうになったものの、これでは味を占めるだけだと考え直し、もう会えたんだからおれは帰るぞ、と立ち上がる。
「あまりおばさんに心配を掛けるなよ」
「も、もう帰るのかあ」
「帰って明日の準備をしなければ」
「う、じゃあ、あの、そのう……ええと……」
「…………」
足元で自分の倍はありそうな体格の伴がまごまごともたつくのを見下ろし、ここぞと言うところで押しが弱いのは相変わらずだなと苦笑しつつ、彼の動向を見守る。
「ち、ちゅーしてもええかのう。いや、だめならいいんじゃ、だめなら……うん、その、すまん。帰ってくれえ……」
言い終えるとすぐに伴は項垂れ、耳までを真っ赤にするとそれきり黙り込む。飛雄馬は、ふふっと吹き出すと、目の前に下がる蛍光灯の紐を引き、部屋の明かりを消した。
「伴、声を出すんじゃないぞ」
「わっ、な、なんじゃあ!急に……」
ムードも雰囲気もあったものじゃないなと飛雄馬はこのやや間の抜けた親友の前に膝を折り、音もなく屈むと、そっと彼の両頬に左右それぞれの手を添える。
「一回、だけだぞ」
言い終わるが早いか飛雄馬はやや顔を傾け、伴の口元にそっと自分の唇を押し当てた。
「う、ぉ……っ、」
指が触れる頬も、吐息も何もかもが熱い。
飛雄馬は硬直したままの伴に触れるだけの口付けを与えると、ゆっくりと彼から離れた。
「…………」
未だ呆然とした伴から距離を取り、飛雄馬は、おやすみ、と彼に告げる。
「あ、おっ、おや……おやすみ……」
今日は珍しく、素直に引き下がったなと半ば残念に思いつつも、普段もこれくらいで済むのならいつでも会いに来てやるのに、と飛雄馬は閉じた襖の引手に手を掛けた。するりと襖は開き、暗い廊下へと身を滑らせた飛雄馬だったが、背後から待ったの声が掛かり、ふと、歩みを止める。
「…………」
「げっ、玄関まで送るわい……」
明日は、雪でも降るんじゃないだろうか。
伴の控えめな態度と言動に飛雄馬は些か拍子抜けしつつも、部屋を出、廊下を歩み出した彼の後ろを着いていく形で玄関先へと向かった。
「何のお構いもしませんですみませんねえ。ぼっちゃんたら、もう飲みすぎないでくださいよ」
途中、台所で水仕事をしていたおばさんが伴と飛雄馬の姿に気付いたらしく、見送りに顔を出してくれた。
ありがとうございます、と頭を下げ、飛雄馬は伴と共に屋敷を出たが、戸が閉まる刹那に腕を取られ、引き寄せられたところで強く体を抱き締められる。
「…………!」
瞬間、呼吸が止まって、全身の骨が悲鳴を上げた。
しかし、それもほんの一瞬のことで、気が付けばいつの間にか伴の唇が目の前にあって、飛雄馬は条件反射のごとく目を閉じる。
熱い唇が遠慮がちに触れてきて、背中を抱く腕の力が緩んだ。一度、呼吸のために離した唇を再び、伴は寄せてきて、その先を求めるように飛雄馬の口内へと舌を滑らせた。玄関の戸の付近を薄ぼんやりと照らす外灯の明かりがやたらと飛雄馬の目には滲みる。
舌を絡ませ合って、離れた唇が飛雄馬の上唇を優しく吸う。ぞくり、と飛雄馬の肌が粟立って、体の奥が熱を持つ。背中を抱く伴の腕を掴む指先に力を込めて、飛雄馬は吐息を漏らす。
「ふ……ぅ、っ」
立っていられない、と、そう思ったところで、ふいに唇が離されて、飛雄馬は腰が抜け支えきれなくなった体を伴の胸へと預けた。
「ワハハ、いつものお返しじゃい、星。いつも生殺しのお預けを食らうからのう。今日は星が帰ってから悶々とするとええんじゃい」
「っ……伴、っ……!」
「ほら、タクシーを捕まえてやるから帰るとええ。明日の試合は観に行くからのう」
屋敷の門を伴に支えられて出てすぐに、流しのタクシーを捕まえた彼によって、飛雄馬は後部座席へと押し込まれる。巨人軍の寮までと伴は運転手へと言付け、飛雄馬に、また電話するぞいと言い残し、ひとり屋敷の敷地内へと引っ込んだ。
それからどこをどう帰ったか覚えていないが、タクシーの運賃は乗り込む前に伴が払ってくれていたらしく、飛雄馬はようやく正気を取り戻したところで帰寮し、寮長たちへの挨拶もそこそこに自室へと引き篭もった。伴のせいで、体には熱が宿っている。
火照った体落ち着くまでは眠るに眠れず、飛雄馬は翌日の試合にて半ば寝不足のまま登板すると、客席から伴の大声がした気がして顔を上げる。
嬉しそうにこちらの名前を呼ぶ伴に一発、昨夜のお返しを見舞ってやりたいのを懸命に堪えて、飛雄馬は相手打線を完封にて試合を終える。
その晩、昨日と同じように伴から寮へと電話があったが、飛雄馬は寮長らにしばらく電話を取り次がないでほしい、ここを訪ねてきてもいないと答えてくれ、と、伝え、自室に引き篭もった。
この数日後、球団の客席から電話に出ろだの、自分の前に姿を現してくれなどと言った奇妙な野次が飛んだことは語るまでもない───。