星く〜ん!と部室の鍵を職員室へと返しに行った帰りに、廊下の向こうから名を呼ばれ、飛雄馬は歩みを止め、背後を振り返った。
部員の誰かが忘れ物でもして、鍵について尋ねてきたのだろうかと最初は思ったが、どうやら声をかけてきたのは野球部の誰か、ではなく、例の漫画家志望の彼のようで、かぶっていた学生帽を手に取ると、飛雄馬は小さく会釈をする。
「はぁ……はぁ……っ、ふぅ、はぁ、ごめんよ。呼び止めちゃって……」
すると、声をかけてきた彼──牧場春彦は廊下の向こうから飛雄馬の許に駆け寄ってくるなり、ニコリと微笑んでは見せたものの話せる状態にないようで、前傾姿勢を取ったままぜえぜえと全身で呼吸をしている。
大きなスケッチブックと学生鞄を片手に額の汗を拭う牧場に対し、飛雄馬は、待ちますからまずは落ち着いてください、と労いの言葉をかけた。
「うん……うん……ごめん。日頃の……運動不足がね……ふふ」
「今まで美術室に?」
やっと落ち着いてきたか、顔を上げ、ようやく視線の合い始めた牧場の顔を飛雄馬は見つめ、そんなことを尋ねる。
「うん……そう。仕上げたい絵もあったしね……」
「絵ですか。それにしたってこんなに遅くまで……」
「それはお互い様さ……きみも伴くんと部の練習が終わったあとも残って練習してるんだろう」
そういえば、伴くんの姿が見えないようだけど、と辺りをきょろきょろと見回す牧場に、飛雄馬は伴なら先に帰りましたよ、と返し、行きましょう、と廊下の先を指差す。
牧場が走ってきた廊下の奥には美術室に繋がっており、飛雄馬が指差した先には、生徒の靴箱が所狭しと並べられた昇降口がある。
「う、うん。そうだね」
促されるままに上靴から通学用の革靴に履き替え、一足先に昇降口の外へと出た牧場の後に続くようにして飛雄馬もまた、外に出た。
「仕上げたい絵とは差し支えなければ伺っても?」
「え?」
ふたり並んで正門までの道程を行きつつ、飛雄馬は隣を行く男にそう尋ねる。
「漫画の絵とは違うんでしょう」
「あ、うん、まあ、ね。近く、コンテストがあってさ。それに応募してみようかと」
「漫画の方はお休みですか」
「いや、並行してやっていくつもりだよ」
そう言って、どこか誇らしげに頬を緩め、笑顔を作る牧場の顔が眩しく、輝いており、飛雄馬は直視できず顔を逸らす。
抱いた夢に向かってひたむきに、一直線に向かおうとする彼の何と素晴らしいことか。
それに比べて、おれときたら。とうちゃんや、ねえちゃんに喜んでほしい、楽な暮らしをさせてやりたいなんて邪な理由で野球に打ち込んでいる。
自分の夢のために一生懸命、命を燃やす人は美しい。
以前、牧場さんのことを、ひどく罵ったこともあったが、彼には彼なりの信念があって、夢に向かいひたすら努力を重ねているだけなのだ。
「それは……素晴らしいことですね。応援してますよ」
「うん、それでね、そのコンテストに出したい絵のモデルがきみなんだけど……承諾してもらえるかな」
「え?」
今度は飛雄馬が驚きのあまり声を上げる番で、思わず歩む足まで静止するに至った。
「マウンドから真っ直ぐ、前を向いてバッターを見つめる星くんの姿がとても好きなんだ。それに、強く漫画家になろう、と思い始めたのもきみを見てからのことで……ああ、いや、こんな話をするつもりじゃなくて……あれ?」
「なんだか、照れるや。ふふ、モデルに関しては気にせず」
精一杯、強がって飛雄馬は微笑むと、青雲高校の正門を出たところで牧場と別れる。
「今度、時間があるときにでも美術室に来てくれないか。きみにも一度、見てほしい」
「はい、行きます。牧場さんもいつでも見学にきてください」
別れ際に手を振り、そう言った牧場に飛雄馬は会釈し、父と姉の待つ長屋に帰るべく歩を進める。
それから、見に行こうとはしたものの、日々に忙殺されなかなか時間が取れずにいた飛雄馬の耳に飛び込んできたのは、例の絵が入選したとの知らせだった。
その週の日曜に、飛雄馬はひとり、絵が飾られているという美術館まで彼の作品を見に行き、牧場春彦の瞳を通して見た自分の姿に、誇らしいようなくすぐったいような、そしてどこか物悲しい感情を抱いた。