「そうだ、伴、これ」
そう、言葉を口にするなり飛雄馬が何やら投げ寄越して、伴は慌ててそれを受け取った。
「あわ、わっ!」
飛雄馬が先に渡してくれたコーヒーを啜ろうとカップを持ち上げたところに投げやられ、伴は妙な声を上げる。
「まったく、それでも捕手のはしくれか?」
くすくす、と飛雄馬は笑みを溢しつつコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置くと伴の座るソファーの隣へと腰を下ろした。
飛雄馬がここ、クラウンマンションに親友・伴の手を借り荷物を運び込んだ引越し初日。
父と3人で住んでいた長屋を飛雄馬と共に出た明子は食事の支度をすると言ってつい先程買い出しに出かけた。そこで伴と飛雄馬のふたりは留守番と相成ったのである。
捕手も投手も関係ないわい!いきなり投げてきおって、と伴は喚いてから飛雄馬が寄越してきたものに視線を落とす。
と、そこにあったのは銀色に光る真新しい鍵で、伴は何じゃい、これは?と不思議そうに目を瞬かせた。
「寮の鍵なら自分で返すのが礼儀ぞい。どうせまた明日練習じゃろう」
「ばか……ここの鍵だ。ねえちゃんとおれと、それと伴の3本作った」
「え?」
伴は鍵に落としていた視線を上げ、隣でコーヒーを啜った飛雄馬の顔を見つめる。
「いらないなら返してくれ」
「い、いる!いるに決まっとる!うへへ、嬉しいのう。鍵まで渡してくれるのか」
「まあ、きみがひとりでここに来ることはまずないだろうが念の為、な……」
カップをテーブルに置き、飛雄馬は微笑みを浮かべるとこちらをえびす顔で見つめてくる伴の顔をその瞳に映した。
瞬きも忘れ、しばし互いの顔を見つめ合っていたがふいに飛雄馬が目を閉じ、ほんの少し顔を上向ける。
「あ、う?え、っ、と、その………何だか恥ずかしいわい」
「ふふ…………」
しどろもどろになった伴の近くに体を寄せ、飛雄馬は彼の太い首に腕を回す。
「明子さんも鍵をお持ちなんじゃろう。大丈夫かのう」
「なに、近くのスーパーまではだいぶ距離があるさ」
「…………」
飛雄馬は顔を傾け、伴の遠慮がちに触れてきた口付けに応えた。一瞬、躊躇ったのか伴は唇を離し、辺りをキョロキョロと見回したが、飛雄馬がすっと顔を寄せたためにすぐに目を閉じ、彼の体を強く抱き締める。
どこかまだぎこちなさの残る伴の口付けが何ともくすぐったいように思えて、飛雄馬は再び、ふふっとやった。
「ムードも何もないやつじゃのう」
「それはお互い様だろう」
「…………しかしまあ、星が部屋を借りて出て行くとは思いもしなかったぞい」
「なに、グラウンドで毎日会えるだろう」
「それは、そうなんじゃが……」
「おれにも、ふふ、色々思うところがあるのさ」
苦笑し、飛雄馬は伴の首に強く縋りつく。
伴もまた、それに応えるかのように彼の体をより強く抱いた。
とうちゃんに、反発したわけじゃない。
いつかは、おれだって、ねえちゃんだってあの家を出て行かなきゃならなかったんだから。
飛雄馬はそう、自分に言い訳し、伴に再度口付けをせがむ。
「あ、う……」
口の中に滑り込んできた伴の舌に身震いしつつ、飛雄馬は吐息混じりの声を漏らす。
「星、変な声を上げるのはよしてくれい。妙な気分になってくるじゃろう」
「仕掛けてきたのはそっちだぞ」
「…………」
伴は咳払いをひとつすると飛雄馬の耳元に口を寄せ、そっと口付けつつ彼の体をソファーの座面へと押し倒す。飛雄馬はそれに応えながら自分の上にのし掛かってきた伴の真剣な顔に吹き出しそうになるのを堪え、座面へと横たわった。
その刹那、玄関の扉、そのドアノブがカチャッと音を立てゆっくり回り始め、ふたりは慌てて体を離し、ソファーに座り直す。
「ただいま。お腹空いたでしょう。待たせてごめんなさいね」
「あ、いえ、大丈夫ですわい。なあ、星。明子さんも引越したばかりで色々あちこち見て回りたいでしょうから」
「…………」
取り繕うかのようやたらに饒舌な伴を無視し、飛雄馬はぬるくなったコーヒーを口に含む。
「うふふ、こんな綺麗なお台所、使うのがもったいないくらい」
何やら上機嫌で冷蔵庫の中に買ってきたものを仕舞う明子にちらと視線を遣りつつ、伴と飛雄馬はふう、と安堵の溜息を吐いた。
「何はともあれ、鍵、嬉しいぞい」
「あら?飛雄馬、伴さんに鍵、渡したの?」
「うん。何かあるとも思えないけど、一応さ」
ポツリと伴が口にした一言が耳に入ったか冷蔵庫に向けていた顔を上げ、こちらを見つめてきた明子に飛雄馬は頷いた。
「そうね。私も何かあったとき、伴さんがいてくれたら心強いわ」
「明子さん……」
俯き、照れ臭そうににやにやと顔を綻ばせる伴に苦笑いを浮かべながら飛雄馬はふと、窓の外にそびえ立つ東京タワーに気付く。
幼い頃はあんなに大きく、見上げるほどであったあの塔が今ではあんなに近く、今にも手が届きそうだ、と飛雄馬は眉間に皺を寄せる。
おれがしたかったことは果たして父と離れ、はたまた親友伴とも離れ、こうして東京タワーを眼下に臨むことなのか。
ああ、今は何も考えまい。新生活に胸踊らせるねえちゃんにまたへんな心配だけはさせてはなるまい。
顔を振り、ソファーの背に体を預けた飛雄馬の手を伴がそっと握る。
明子はふたりに背を向け、調達してきたらしい調味料や雑貨類を棚に仕舞っている。
「明子さんに、言いづらいことでもこの親友、伴宙太には何でも話してくれて構わんぞい」
「………」
伴の顔がまともに見られず、視線を逸らした飛雄馬の目には彼がついさっきテーブルの上に置いたらしいこの部屋の合鍵が映って、思わず泣き出してしまいそうになる。
しかして飛雄馬が無理に笑顔を作ると、大丈夫だと強がったもので、目の前の伴はそれきり、何も言えなかった。
けれども、何か言いたげに強く手を握ってきた飛雄馬の与えてくる、なぜかしら胸を締め付ける痛みに伴はぐっと下唇を噛んだ。