情愛
情愛 ただいま、と飛雄馬が自宅マンションの鍵を開け、扉を開けると何やら楽しそうな笑い声が耳に入り、思わず顔を綻ばせる。
練習のあと、用事を済ませていくから先にうちに来ていてくれと伴に話してから別れたのがつい1時間ほど前のこと。
「ほほほ、伴さんたらもう」
「いや〜明子さんにそんなに笑っていただけるとは光栄のいったりきたりで……」
頬を赤く染め、頭を掻いたところに飛雄馬の姿に気付いた伴が、おう、星ぃ!とその手を振った。
「あら、飛雄馬。おかえりなさい」
「ただいま、ねえちゃんたちずいぶん盛り上がってたみたいじゃないか」
伴の声で飛雄馬に気付いた明子も彼の方に視線を遣ってから、にこやかに微笑む。
「伴さんの話がおかしくて……うふふ」
「ふぅん。そうかい」
手を洗い、キッチンにて冷蔵庫から出した麦茶の瓶をコップに注ぎつつ飛雄馬は相槌を打つ。
「星にもあとで聞かせてやるわい」
「ああ、よろしく頼む」
飛雄馬が冷たい麦茶を口に含んだところで、明子がそろそろアルバイトに行かないとと座っていたソファーから立ち上がった。
「それじゃあ伴さん、ごゆっくり」
言うと、明子は身支度を整え、部屋を出て行く。
「思ってたより早かったのう」
「ねえちゃんとふたりで楽しかったみたいだな」
「ばっ!?そっ、そんなことは……」
かあっ!と伴は耳まで赤く染め、図星だったか目をしきりに瞬かせる。
「なに、ねえちゃんはモテるからな。ふふ、学校に行っている間もよく手紙をもらっていたなんて話を聞く」
「う、うむ、ううむ……そうなのか」
口ごもり、伴は鼻の頭を指で掻く。
「おれはそんな浮いた話などひとつもないからな。ギプスの軋む音が気味が悪いとクラスメイトなど誰ひとり寄り付かなかった」
「星、それは」
「事実さ。遊びに誘ってもとうちゃんと練習があるからと学校が終わるなり、一目散に帰宅するおれを皆気味悪がっていた。その点はねえちゃんも同じかもしれん……年頃の女の子は皆恋に遊びにと楽しんでいるさなか、学校が終われば夕食作りや家の片付けが待っている。ふふ、ねえちゃんはここに来て少し顔の肌艶が良くなった気さえする」
幼少期を思い出すかのようにぽつりぽつりと言葉をひとつずつ紡ぎながら飛雄馬は伴の座るソファーの隣へと腰を下ろす。
「ねえちゃんもおれも、とうちゃんの顔色を伺いながら生活していたからな。自分の家だというのに安らぐことすら出来なかった。だから、ねえちゃんのあんな顔を見ることができたのは素直に嬉しいさ」
「うちの親父もだいぶ変だとは思っておったが、星の親父さんに比べると……あ、いや」
しまった、と伴は口元を手で押さえ、目を泳がせる。
「ねえちゃん、アルバイトが楽しいと言っていた。自分でお金を稼ぐことがこんなに充実して幸せなこととは思わなかった、と。ねえちゃんには、せめて人並みの幸せを掴んでほしいと願う」
そこまで言ってから、飛雄馬はテーブルの上にあった野球の雑誌を手にする。
パラパラと雑誌をめくりつつ、
「そう言えば伴、ミットがもうボロボロになっていたと話していたが、これなんかどうだ?いつも練習に付き合わせてばかりで悪いから、今回はおれが……」
と、飛雄馬が伴の目線までミットの掲載されているページを広げ、掲げたところにぎゅうっと大きな広い胸へと抱き寄せられた。
「星。他人のことばかり気にかけるのはお前のいいところじゃが、たまには自分のことを考えたってバチは当たらんぞい!」
「……伴。その言葉、そっくりそのままきみに返すぜ……いつも世話になってばかりですまない」
「世話になっとるのはおれの方じゃい!礼を言うべきはおれじゃい!」
伴が感極まり泣き出したか声が震え、その体も微かに戦慄き出す。
あたたかい。
そして、なんて力強い腕だろうと飛雄馬は思う。
伴とおれの出会いもとうちゃんが仕向けたこと。
伴はおれのものごとに対する姿勢が好きだと言ってくれたが、それだってとうちゃんがおれをそう育てただけのこと。
ねえちゃんは長屋を出て、自由の身になれたかもしれない。
でも、おれは、結局、何も変わってなんかいないんじゃないか。
「…………伴」
飛雄馬はか細い声で自分を抱く男の名を呼ぶと、彼の背に回した指でその衣服を強く掴む。
けれど、おれが伴をあたたかいと思うことは、伴を愛しいと思うことは、嘘偽りない、本当のことだ。
たとえそれが、とうちゃんの思惑通りだったとしても、おれは伴のことがとても大事な存在だと思うし、どうしようもないほどすきなんだ。
抱き締めていた体から少し距離を取ると、伴は頬を滑り落ちる涙を拭うことなく飛雄馬に口付けをせがむ。
飛雄馬もまた小さく微笑むと、上気した赤い頬に一筋の涙を伝わらせながら彼の唇に、そっと自身のそれを押し当てた。