助言
助言 「そっちだ!追え!」
「囲い込め!」
花形は足で踏み消した煙草を携帯灰皿に押し込みつつ、きな臭い雰囲気を感じ取る。
取引先の社長らとの約束の時間が迫る夕暮れ時。
明子が車内で喫煙することを好まぬため、時折花形はこうして車道脇に車を停め、一服することがあった。
それも極稀に、月に一度あるかないかの頻度。
思考が纏まらぬとき、口寂しいとき、理由は色々あるが、今日に限って花形は少し治安の悪い、いわゆる日雇い労働者が集まる街に降り立っている。
そして案の定、花形はチンピラの怒鳴り声を聞いたのだった。
「どこ行きやがった!」
「ふざけやがって!そう遠くには行ってねえはずだ!」
絡まれでもしたら敵わんな、とばかりに花形が立ち去ろうとしたその瞬間、目の前に何やら懐かしい匂いを纏った男がふと、姿を現した。
「…………」
見覚えのある橙色の球団マークが縫い付けられた黒い野球帽を目深にかぶった彼は表情を読まれないようにか、はたまた人相が割れぬようにか濃い色のサングラスをかけている。
少し癖のある髪を肩付近まで伸ばした彼は、一度立ち止まり、背後を振り返ってから何気なく、花形の顔をその濃いサングラス越しに見遣ったように見えた。
「こっちだ」
花形は次の瞬間には彼にそう、声をかけていた。
建物と建物の隙間、路地裏と呼ばれる狭い道。
そこから花形は再び彼を呼ぶ。
「!」
男は一瞬、ためらったように前を向き、そうして後ろを見遣ってから花形の伸ばした手を取った。
その手を掴み、花形は彼の体を路地裏へと引き込む。
「あんたは……」
「静かにしたまえ」
「探せ!まだ近くにいるはずだ!」
「あっち回れ!」
何やら開きかけた口を手で塞ぎ、花形は彼の体を己の体で陰になるような体勢を取ってやりながらゴロツキたちをやり過ごすべく息を殺す。
しばらく息を潜めていると、その内に不穏な人の気配もなくなり、普段通りの街並みを取り戻したように辺りはしんと静まり返る。
「…………」
花形はそっと外の様子を見遣ってから、もう大丈夫とばかりに彼の口を塞いでいた手を離してやった。
「はぁ……とりあえず、礼を言わせてくれ。ありがとう。あんたの機転がなければおれは今頃袋叩きに遭っていただろう」
彼は帽子を取り、額の汗を掌で拭ってからペコリと頭を下げた。
その様を横目で見遣りながら、花形は取り出した煙草を一本、口に咥える。
「あんた呼ばわりとはね。フフ、あまりに他人行儀すぎないか。飛雄馬くん」
「うっ…………」
咥えた煙草の先に擦ったマッチで火を付け、花形はにやりと微笑む。
「まさかこの花形の顔を忘れたとは言わせんよ。そしてぼくもきみの、飛雄馬くんの顔はいくらサングラスをかけていようとすぐに判別がついたさ」
「馬鹿な、人違いだ。これでこの件は────」
顔を背け、この場を離れようとする、飛雄馬と呼んだ彼──の行く先を阻むよう、花形は壁に手をつく。
「これで終わりかね。命の恩人に対してあまりに冷たすぎやしないか」
「う、ぐ…………」
「…………」
男の唇が何か言いたげに動いたのを花形は見据え、ふふっと笑みを溢す。
「おれは、その、飛雄馬とか言う男は知らん。だが、何か礼をしろと言うのならその通りにしようじゃないか」
「…………では、食事でも付き合ってもらおうか」
「…………」
男の口元がふっ、と緩んだのを見留め、花形は壁から手を離すと、そうと決まればここを離れようと煙草を咥えたまま路地裏を出る。
ちらと一瞥した腕時計の短針は約束の時刻をとうに過ぎていたが、花形は前を見据えたまま、颯爽と歩き始めた。

◆◇◆◇

参ったことになったな、と飛雄馬は花形の運転するキャデラックの後部座席で足を組み黙り込む。
酔っ払いに絡まれていた女性を助けたまではよかったが、まさか追いかけられる羽目になるとは、とまさしく藪から棒のごとく現れた救世主をバックミラー越しに見遣る。
彼が、花形があの場にいてくれたからよかったようなものの、おれひとりだったら今頃どうなっていたか。しかし、その件はありがたいとしてもまさか食事に誘われるなどとは思ってもみなかった。
「フフ、まさかあんなところできみに会うとはね。まさしく青天の霹靂とでも言おうか。それともこの花形満と星飛雄馬の宿命のライバルの縁。今の流行りで言えば第六感」
「…………」
「飛雄馬くんのことだ。人助けの結果だろう。でなければあんな輩に追いかけられる理由もない」
花形は信号停車の合間、微かに窓を開け外の空気を車内へと取り込む。
寒いかね、の問いに、いいえと返し、飛雄馬は座席で足を組む。
「花形さん、は」
「もう間もなく着く……すまない。何か?」
思いがけず発言が重なり、飛雄馬は口を噤み、花形はその先を尋ねようと間を取った。
けれども飛雄馬は首を振り、もうそれきり何も言わなかった。
花形もまた、髪を撫でるぬるい風に目を細めつつ目当ての店までの道のりを走り、そのまま駐車場へと車を入れた。
何やら趣のある、日本料理の店の暖簾を花形は潜ると、出迎えた従業員らしき和服の似合う女性と二言、三言言葉を交わしてから飛雄馬を呼んだ。
飛雄馬は己の場違いさにぎょっとしながらも少し離れた部屋に案内されるがままに足を踏み入れ、上座の席に腰を下ろした。
暖色の照明が優しく内部を照らす室内。
床の間には部屋の雰囲気によく似合う花が生けられており、見るからに高級そうな佇まいを見せている。
「…………」
「なに、楽にしたまえ。そう固くなることはない」
運ばれてきたビールの瓶を傾けつつ、花形は微笑む。
ふたつあったうちのグラスのひとつをビールで満たしてから、花形がもう一方にもそれを注ごうとしたのに対し、飛雄馬はおれのは不要だと手を挙げた。
「飲めんのかね。あの星一徹の息子が下戸とは」
「…………」
「それとも、ビールは好みじゃない。としたら、好きなものを頼むといい」
「いらない。あんたひとりで飲めばいい」
「それなら、注いでもらおうか。手酌と言うのではあまりに味気ない」
「…………」
飛雄馬はそれなら、と手にした瓶から花形の持つグラスにビールを注ぐ。
綺麗な黄金色をした液体の中を炭酸が立ち昇っていくのを飛雄馬は黙って見つめ、適量で瓶を離した。
グラスに口をつけ、花形は一息にそれを飲み干すと、煙草いいかい?と尋ねてから、取り出した煙草を口元に携える。
二杯目を注ぐ飛雄馬の左手──を一瞥し、花形は左手は使えんのかね、とそんな台詞を飛雄馬に対し、投げかけた。
「何の話か、さっぱりわからんが。さっきから違うと言っているのに飛雄馬くん飛雄馬くんとしつこい。あんたはその飛雄馬くんとやらの何なんだ」
「飛雄馬くんの何、と来たか。フフッ……話せば長くなるが、ぼくの片思いの相手とでも言おうか。なに、それは冗談だが、先程も言ったとおり宿命のライバルと言ったところさ」
「宿命、の?」
花形が口にしたまさかの言葉に飛雄馬は動揺し、サングラスの奥でしきりに目を瞬かせる。
それから、話題を逸らすべく、宿命の?などと尋ねてみせた。
「きみの方こそやけに食いつくじゃないか。知ってどうしようというのかね、ぼくと彼のことを」
「…………なに、あんたがしきりに名を呼ぶ男がどんな人間なのか訊いてみたかっただけさ。深い意味はない」
そう、嘲笑混じりに飛雄馬が言うと、花形が何を思ったか席を立つ。
何事かとばかりに、ギク!と身を強張らせた飛雄馬の隣に、あろうこと花形はそのまま腰を下ろした。
そして何のためらいもなく飛雄馬の顎に手を添えるや否や彼の顔をくいと上向かせる。
「……フフ、この部屋の後ろ、襖の奥に何があるか知っているかい。ぼくはあえてこの離れの部屋を選んだ。食事なんてものは口実さ」
花形は微笑むと、ほんの少し顔を傾け、飛雄馬の唇にそっと彼のそれを触れ合わせた。
「な、…………っ!」
ちゅっ、と軽いリップ音を立て、花形が離れた刹那、廊下から入室の許可願いの声が響いた。
「ああ、どうぞ」
至って冷静に、花形はそう言うと、元いた場所に戻って、火のついていない煙草を灰皿に置いて、従業員らが持参してきた料理を並べる様を見守っている。
花形は、おれをからかったのだ──と飛雄馬はまだ新人らしき若い従業員を和ませようと何やら冗談を飛ばす花形を睨み、唇を引き結んだ。
一通り、彼女らは料理を並べると部屋を出ていき、室内は再び静寂に包まれたばかりでなく、花形とふたりきりの状況となる。
「…………」
「遠慮しないで食べたまえ」
箸を取り、先に小鉢の中を口に運んでいく花形から飛雄馬はふいと顔を逸らし、食欲がない、と冷たく言い放つ。
「先程のことで気を悪くしたのなら謝ろう。すまなかったね」
謝るくらいなら初めからしなければいい話だろうに、の煽り文句を飛雄馬が飲み込んだ刹那、彼の腹の虫は空気を読まず、叫喚を部屋に響かせた。
一瞬の静寂のあと、花形がフッと吹き出してから、遠慮することはない、と続ける。
飛雄馬はそれでも尚、いらんと突っぱね、再び花形の笑いを誘う。
そうしてひとしきり笑ったあと、花形は手にした箸で何やら小鉢の中身を取るや否や、飛雄馬の目の前にそれをすっと差し出してきた。
「何の、つもりだ」
「自分で食べられんというのなら食べさせてやろうと思ってね。ほら、口を開けたまえ」
「…………」
飛雄馬は花形の持つ箸の先と彼の顔を見比べてから、それには及ばんさ、とばかりに手元に置かれていた箸を取った。
まんまと、乗せられたのかもしれん、と飛雄馬は己の単純さに今更後悔の念を抱きつつ、箸で小鉢の中身を摘むと、それを口に含んで咀嚼する。
「口に合うかね」
瓶の中身をグラスに注ぎつつ、花形が尋ねた。
「普段は大衆食堂の定食ばかりだからこんな上品なものを口にしたら腹を下してしまうかもしれん」
「…………」
グラスを半分ほど満たしてから空になった瓶を座卓に置き、花形は一息にそれを飲み干す。
そうして、次の料理の品を従業員が持ち寄ったところに酒の追加を頼み、彼女らを下がらせた。
「人心地ついているところに悪いが、こちらとしてはそんなにゆっくりしている暇はない。適当に丼物などを取ってくれたらそれでよかったんだが」
「それは、気が利かず悪いことをした。きみが借りてきた猫のようにしているからついついこちらの都合で物事を進めてしまった。それでは、仕切り直しとしよう」
「…………」
何が、目的なのだろうか、と飛雄馬は灰皿に置いていた煙草を咥え直した花形を見つめ、その真意を探る。
世話になった手前、あまり邪険にするのも気が引ける。できることなら一刻も早く、こんな場違いなところからは立ち去りたいというのに。
「何が所望かね、飛雄馬くんは」
「……だから、違うと言っている。もう飲むのはよせ。絡まれては迷惑だ」
「本当に違うと言うのならサングラスを外してみせたまえ」
うっ、と飛雄馬は花形の指摘に言葉を詰まらせ、目元に傷があるから見られたくない、とそんな嘘をついた。
「本当に?」
火をつけた煙草、その紫煙をくゆらせ、花形が問う。
「ほ、本当だ。もう、いいだろう。あれこれ詮索しないでもらいたいものだ」
「……詮索したくもなるさ、飛雄馬くん。今回はたまたまぼくが近くにいたからよかったようなもので、首を突っ込むなと警告したとしてもどうせお人好しのきみのことだ、助けようと手を伸ばしてしまうに違いない。きみは自分のことだけを考えて生きたまえ」
「…………」
「それだけを、どうしても伝えたくてね。回りくどいやり方になってしまった。何か好きなものを食べるといい。代金はこの花形にツケておいてくれたまえ」
煙草をふかし、花形はふふっと笑みを溢すと灰皿にそれを押しつけ、火を消した。
花形は、まさか本当に、これだけを言うためにおれを食事に誘ったというのか。
この男が、そんなことを──いや、彼だからこその一芝居やも知れぬ。
おれはこの人に思い返せば、助けられた経験も少なからずあるのだ。
底知れぬ、この恐ろしい男に。
「肝に、命じておこう。おれは何度も言うようにあんたの好きで好きで堪らんらしい星ではないがな」
「…………」
飛雄馬は立ち上がり、そのまま部屋を出ていくかに思えたが、花形の座る席まで歩み寄ると、畳に膝をつくが早いかサングラスを外した。

◇◆◇◆

その挙動を目で追っていたが、突然、サングラスを取った飛雄馬の素顔が眼前に現れ、花形はまさかのことに面食らった。
「…………!」
呆気に取られたまま、花形はネクタイごと胸倉を掴まれ、ぐいとその身を引き寄せられる。
そうして、まさに不意打ちに近い形で彼は飛雄馬に唇を奪われることになった。
それを受け、驚きはしたものの花形はにやりと微笑むと、そのまま彼の背に腕を回し、勢いのままに畳の上へとその体を組み敷いた。
「…………っ、く」
「きみは、自分のことだけを考えていたらいいと今、話して聞かせたじゃないか。飛雄馬くんからしてみれば餞別のつもりだったかもしれんがね」
飛雄馬の髪に指を通し、花形は彼の頬から唇を指先で優しく撫でる。
ビク!と驚きからか、はたまた恐ろしさゆえか体を震わせた飛雄馬の唇に花形はそっと口付けはしたものの、それ以上のことは何もせず、彼の体を解放してやった。
「今日のことはぼくもきみも、互いの胸の中に仕舞っていよう。何も見なかった、誰にも会わなかった」
「…………」
ゆるゆると体を起こし、涙に潤んだ瞳を隠そうとサングラスをかけた飛雄馬を見据えたまま花形はよからぬ衝動に駆られたが、それを新たな煙草に火をつけることでごまかし、口から紫煙を吐く。
「縁があればまた会うだろう。いや、きっと再び相見えることになるさ。ぼくと飛雄馬くんはそういう星の下に生まれついている」
ニッ、と花形は笑むと、煙草を咥えたまま立ち上がり、襖を開け廊下へと出た。
そうして、帰り際に例の部屋は呼ばれるまでそっとしておいてやってほしいと告げてから、店を後にする。
恐らく、父も明子も今頃血相を変えてぼくの行方を探していることだろうなと花形は苦笑し、咥えていた煙草を地面に落とすとそれを踏み躙ってから吸い殻を拾い上げる。
携帯灰皿にそれを押し込んで、ひょっとすると惜しいことをしたのかもしれんな──と、花形はキャデラックの運転席側のドアを開けながら飛雄馬から与えられた熱を反芻する。
そうして、頭上高く輝く星々を仰ぎつつ、無理矢理口付けられたせいでほんの少し血の味を滲ませる唇に名残惜しげに指を這わせた。