自転車
自転車 「おう、星。帰るか」
先に着替え、野球部の部室を出ていた伴が部屋の戸締まりをしていた飛雄馬に声をかける。
出で立ちと言えば裸足に下駄の格好でいつもと変わらぬ様子だったが、伴は今日に限って珍しく自転車などを押していた。
「自転車か。珍しいな」
部室の出入り口の鍵を携えた飛雄馬が微笑む。
「朝、寝坊しかけたからな。ハハ、試験期間で朝練がなくて助かったわい」
「相変わらず朝が弱いな」
鍵を返しに行ってくる、と言い残し、飛雄馬は校舎に入った。
そうして、目と鼻の先に置かれている職員室の戸を開けると鍵を所定の位置に戻すや否や、伴の待つ昇降口まで一目散に走る。
「星のことじゃから試験も手応えアリ、じゃろう。羨ましい限りじゃい。おれときたら体育以外はてんでダメじゃあ。この分じゃと夏休みも補習じゃろうなあ」
「夏休み、か」
靴箱から取り出した靴を履きつつ、飛雄馬は雲ひとつない快晴の空を仰ぎ見る。
飛雄馬が夢にまで見た甲子園大会が開催されるのも毎年この時期であり、はたまた彼が迎える高校生活初めての夏でもあった。
巨人の星になる、という父との悲願を叶えるためには、何としてもこの全高校球児の夢の舞台とも言える甲子園大会に出場しなければならない。
小学生や中学生時分の夏とはまったく違ったものになるだろう、とは飛雄馬自身、予感していた。
「…………」
そんな飛雄馬の何やら思いつめたように黒い瞳を伏せる横顔が見ていられなくて伴は校門を出たところで彼から目を逸らす。
いくら野球に疎い伴でさえ、夏に開催される甲子園大会とやらがどれだけ高校球児たちにとって重要なものかということくらいは理解していた。
「正直、夏はあまり好きじゃない。水も飲めない状態で炎天下の中、汗を全身にびっしょりとかいてふらふらになりながら練習に励んで……冬は幾分かマシさ。体を動かせば暖まるから……」
「……夏は我ら運動部には地獄のような季節じゃからのう」
飛雄馬に同調するようにぼやいた伴だが、ひょいと押していた自転車に跨ると、後ろの荷台に乗るよう隣を歩いていた彼を誘った。
「伴?」
どこか寂しげな色を瞳に浮かべていた飛雄馬だが、伴の言葉に驚いたように目を見開いた。
「これからの季節、ふたり乗りにはもってこいじゃぞい。さあ、はよう」
「あ、ああ……」
唐突だな、と飛雄馬は思ったものの、誘われるがままに伴の後ろ、本来ならば荷物を乗せる場所へと跨る。と、尻が痛くなるといかんからと伴はハンドルに掛けていた学生鞄を尻の下に敷くといいと飛雄馬に手渡してきた。
鞄を?と問うと、もうボロのゴミみたいなもんじゃから構わんと返って来て、飛雄馬は尻の下に鞄を置くと金具のついていない裏面へと座る。
ぎゅう、と飛雄馬が伴の大きな背にしがみつくと、前から行くぞい、と声がかかった瞬間、自転車はゆっくりと前に進み出す。
すると、少し土の匂いの混じった風が優しく飛雄馬の頬を撫でた。
青雲高校の建てられた場所はそれこそ金持ちの子息の通う学校らしく住宅街の中にあるが、伴がこれから向かう先は飛雄馬の住む長屋の方角であり、そこに近づくにつれ、徐々に豪邸の数も減っていく。
ああ、本来、夏とはこういうものだったな、と飛雄馬は目を閉じる。
熱くてつらい、厳しい練習のことばかり覚えていたが、本来、おれは夏が好きだった。
どこからともなく聞こえてくる風鈴の音色に耳を傾け、ねえちゃんの冷やしておいてくれたスイカを食べるのが毎年の楽しみだった。
伴という男はどうして、おれの心の縺れを上手いこと解いてくれるんだろうか。
「夏だな」
「ん?何か言うたか星よ」
「いや、夏が近いな、と」
「おうともよ。試験が終われば間もなく夏休みじゃい。ますます練習に身が入るのう」
「………」
伴の背に頬を押し当て、飛雄馬は鼻から息を吸い込む。夏の匂いに混じって香る伴の体臭が、ほのかにくすぐったいようなどことなく懐かしいようなそんな感情を飛雄馬に抱かせる。
無意識に顔が綻んで、笑みが溢れた。
「星?きさま、今笑わなかったか」
「ふふ……いいだろう。笑うくらい」
変な星じゃのう、と伴は首を傾げると、飛雄馬の住む長屋までの道のりをただひたすらに自転車を漕いだ。
伴の背から感じられる体温が心地よくて、はたまた袖をまくった肌を撫でる風が気持ちよくて、飛雄馬は永遠にこの時が続けばいいのにとさえ思った。
しかして、そんなひとときもいつかは終わりが来るもので、見慣れた長屋の前で伴は自転車を停める。
「星、また明日」
「……ああ、また、明日。明日は遅刻するなよ」
自転車から降りつつ飛雄馬はそんな言葉を投げかけ、伴をからかう。
「今日も遅刻はしとらんわい。ふふ、やっと笑ったな。おれのように能天気なのもどうかと思うが星は悩みすぎじゃ。試験も終わったことじゃし、今日はゆっくり休め」
「伴」
「明子さんや親父さんにもよろしくな」
伴はそう言い残すと、下駄の歯に器用にペダルを噛ませて自転車を漕ぎつつ去っていく。
次第に小さくなる彼の後ろ姿と真っ赤な夕焼け空を眺めながら、飛雄馬は伴のぬくもりの残る頬を掌でそっと撫でた。