人生
人生
ああ、とうちゃん、ごめんなさい。
野球ができないからだになってごめんなさい。
ごめんなさい、とうちゃん…………。
「くん……星、星くん……星くん!」
「!」
ハッ!と目を覚まし、見上げた先は汚れひとつない真っ白な天井で、ゆるゆると視線を左右に動かしてみれば傍らには花形の顔があって、飛雄馬は小さく笑みを溢す。ああ、夢だったのか、と胸中でぼやいて、花形さん、来てたのか、と傍らの見舞い客のために置かれた椅子に腰掛けている彼に声をかけた。
「部屋に入るなりうなされているので驚いたよ。看護婦を呼んだが、まだ来なくてね」
「…………」
羽織るパジャマがじっとりと汗に濡れている。
午前中に看護婦からタオルで体を拭ってもらったばかりだというのに。
起き上がる余力もなく、飛雄馬は目を閉じ大きく息を吸って、ねえちゃんは今日は来ませんよと佇む彼に語りかける。
「それが、何か?ぼくは星くんの見舞いに来たのであって、明子さんに会いに来たつもりはないがね」
「ふ……」
ああ、また彼を怒らせてしまっただろうか。
どうも花形とは反りが合わないと言うのか、為すことすべてが彼の前では裏目に出てしまうようだ。
「さっきの夢の話だが──」
「ああ、ふふ、どうしてか、左腕がだめになってからというもの幼い頃の夢を繰り返し見るんです。それもとうちゃん……父に野球ができない穀潰しは出て行けと、殴られる夢を、ね。ふふ、小さい頃はよくけんかをして家を飛び出したこともあったというのに、夢に出てくるおれは出て行けという父に縋って、泣いているんです」
「…………」
馬鹿らしい、きみの自責の念がそんな夢を見させるのだ、早く腕を治して球場に帰ってきたまえ、と、そう言われるとばかり思っていた飛雄馬だったが、予想に反し、花形が神妙な顔で話に聞き入っていることに気付いてふいに彼から視線を逸らした。
いっそ、笑い飛ばしてくれたらいいのに。
そうすれば、花形の言うとおりだ、と、そう思えるのに。どうして黙っている?どうしてそんな顔をする?
ねえちゃんと付き合うようになって、おれに対する意識が変わったとでも言うのか?
もう、野球のことは考えなくていい、きみは腕を治すことに専念しろ、と、花形、あなたはそう言うのか?
「おれは、これからどうしたらいいんでしょうか。野球はもうできないと病院の先生からはそう、言われました。野球しか与えてこられなかったおれから、野球を取ったら、何が残ると言うんでしょう」
「今から、それを探したらいいのではないかね。ぼくも星くんが野球ができなくなったとなれば、球界には何の未練もない。監督さんには来シーズン限りで引退すると話をつけてきた」
「な、っ……んで、花形さんまで?あなたともあろう人が、どうして」
花形の口を吐いた引退の二文字に、飛雄馬は動揺し、こちらを見つめる彼の顔を見上げた。
「ぼくは星飛雄馬と野球をするために、いや、きみに野球で勝つために留学を蹴って阪神に入った。星くんを完膚なきまでに叩きのめすことができたとき、ぼくは球界を引退し、父の仕事を手伝うつもりだった。しかしきみは、何度打ちひしがれようとも何度も何度も立ち上がってきた。ぼくはきみと闘っているときが今までの人生の中でいちばん充実していたと言っても過言ではない」
「別に、おれでなくとも……おれ以外にも素晴らしい投手は……」
「いや、違うね、星くん。ぼくはきみでなければ嫌なんだ」
「…………」
花形に真っ直ぐ見つめられ、飛雄馬はまたしても視線を逸らす。今の言葉は、弱った身にはひどく効いてしまう。そうか、花形も、野球から身を引くのか。
新たな人生、新たな目標を、得るために、野球から、身を引くと、そう、考えたらいいのか。
「人生、まだまだ先は長い。フフ、いい機会だと思えばいいのではないかね。なに、野球一筋だったきみにそう言ったところですぐに考えを改めるなど難しいとは思うがね」
「……花形さんのように、なれたらいいんですけどね」
「…………」
ふと、花形が持ち寄ったらしい花瓶に生けられた色とりどりの花たちが飛雄馬の目に留まる。
綺麗だ、と心から、そう飛雄馬には思えた。
今まで、見舞いに来てくれていた姉はお父さんを止められなかった私のせいと泣くばかりで、そんな姉をねえちゃんのせいじゃないと慰めることしかできなかった。初めて、新しい人生を探せばいい、と背中を押してもらえたのが、他でもないライバル、花形とは。
「ありがとう、花形さん……おれ……」
「なに、礼を言われるようなことはしていない。フフ、長居しすぎたね。そろそろお暇させていただくよ」
「…………」
花形は座っていた椅子から腰を上げ、颯爽と歩き始める。あの、と飛雄馬は彼を呼び止め、花形さんはもう新しい目標を見つけているのか、と問うた。
「ぼくもこれからさ。色々と考えてはいるがね」
では、また、花形は言うと部屋の扉を開け、廊下へと出た。
しんと静まり返った個室で、飛雄馬がしばらく花形の出て行った扉を眺めていると、今頃になって看護婦がどうされましたと顔を出した。
「いえ、もう、大丈夫です。すみません、お忙しいのに呼びつけてしまって」
「そう、ですか。星さんも大変かとは思いますが、そう気を落とさずに、ね」
「ええ、ありがとう、ございます……」
看護婦に礼を言い、彼女が去ったことで飛雄馬は再び部屋にひとりになる。
ひとりになった部屋で、もう、例の夢は見なくなるだろう、とそんなことを思う。
新しい、目標、か。巨人の星ではなく──。
飛雄馬は花形の置いていった花瓶の花を眺め、そう簡単に見つかるものだろうか、と考えたが、ゆっくり、時間をかけ見つけていけばいいのだ、人生は長いのだから、と、花形の言葉を反芻し、前向きに思い直すこととした。