自己陶酔
自己陶酔 ねえちゃん、ただいま、の声に明子は夕食を作る手を止め、玄関先を振り返る。
すると、満身創痍の弟がそこには立っていて、まあ!と驚きの声を上げると共に、明子は彼の許に走り寄った。
「どうしたの、そんな傷だらけで」
「クラスの連中とケンカしたんだ」
腰に巻いたエプロンで明子は弟の目元に浮かぶ涙を拭ってやりながら、傷の理由を尋ねる。
ケンカ?どうして?と弟の返答に対し、再び明子は質問を投げかけた。
「言いたくない。でも、勝ったんだから褒めてくれよな!」
「褒めるだなんて……あなたの体に何かあったらと思うと……亡くなったお母さんだって、それにお父さんも心配するわよ」
「とうちゃんが心配ねえ。とうちゃんが心配なのはおれじゃなくって腕そのものだろうよ。こないだ突き指したときだって野球できなくなったらどうするんだ!だったじゃないか。こんなへんてこギプスつけてる方が体がおかしくなるよ」
「そんなことないわ。お父さんだって飛雄馬のことを心配しての言葉だとねえさんは思うわ」
ちょっと待ってて、と明子は言うと、卓袱台の置かれた居間に向かい、タンスから調達した手拭いに水を含ませ、固く絞ったそれを手に再び弟に駆け寄る。
手拭いで薄汚れた顔を拭いてやり、明子は彼の傷の具合を確かめる。乾いた土にまみれてはいるが、擦り傷が多少目立つくらいで、明子はホッと胸を撫で下ろす。
「痛いよ、ねえちゃん」
「痛いよじゃないわよ!今ケンカしてきたって話をしたばかりじゃない。これくらいなんですか」
「だって明日の授業参観、おまえんところは誰も来ないんだろって言われてさ……おれ、悲しくって悔しくってさ。他のクラスには戦争で親が死んだってやつもいるけど、うちのクラスはおれだけでさ。とうちゃんのこと飲んだくれのアル中親父だなんて言われて……おれ……」
手拭いで拭かれたことで傷の痛みを思い出したか、はたまた優しい姉に迎え入れられたことで押し殺していた感情の箍が外れたか、明子の弟・飛雄馬はその大きな瞳を潤ませる。
明子は弟が震える声でぽつりぽつりと語る一言一言に思わず目元に涙を浮かべた。
考えてみれば、弟は母のことを写真でしか知らないのだ。身内と言えばそれこそアル中の野球キチガイと形容するが適切な父と、姉である私だけ。
父は何かと母と私を比べ、母さんはそんなことは言わなかった、しなかったと言うが、私は父の子供であり、妻ではないのに。
母が死ぬ間際に弟をお願い、と言ったその一言が私をこの家に閉じ込め、縛り付けている。
私には、私の人生があるのに。
「……授業参観は何時からなの?」
明子は、胸中を悟られぬよう、淡々とした口調ではありながらも穏やかに弟に質問した。
「二時間目の国語の時間。いいよ、ねえちゃん、来てくれなくってもさ。もう慣れっこだよ」 私の参観日だって、誰も来てくれたことなんてなかったわよ…………。
その一言を明子は飲み込み、わかったわ、明日の二時間目ね。と確認するかのように呟くと、火に掛けたままの鍋が噴いたために、慌てて台所へと戻った。
「ねえちゃん、いいんだよ。おれは大丈夫だよ」
「いいのよ、飛雄馬。ねえさんに任せておいて」
「……ありがとう」
弟が囁いた感謝の言葉が、胸をざわつかせる。
大事な弟、大切な弟、待望の男の子が産まれた、とあの父が別人のように喜んでいた弟。
ねえちゃん、ねえちゃんと私を慕い、私に懐いていた可愛い弟。あの父の暴挙にも弟がいたからこそ耐えられた。いいえ、弟がいたからこそ耐えなければならなかった。でなければ私はこの家をとっくに出ていたに違いないのだ。──でも、どうやって?
明子は肌をゾクリと粟立たせながら首を振る。
「…………もうすぐご飯ができるからその前に宿題済ませちゃいなさい。お父さんもそろそろ帰ってくるわ」
「……うん」
少し間を置いてから頷いた弟が畳の上を歩くたびに、大リーグ養成ギプスと父は言ったか──上半身と両腕とを繋ぐ、革のベルトと何かの部品を流用したと言うバネが、思わず耳を塞ぎたくなるような嫌な音を立て軋む。こんなものが、何の役に立つと言うのだろう。
それがわからないのは、私が女だから?
明子は鍋に味噌を溶かし、出来上がった味噌汁の味見をする。夕飯のおかずは菜っ葉の味噌汁と漬物、それに焼いたメザシを二本ずつ人数分。
鍋の火を止め、明子は玄関でサンダルを履くと外に出る。干していた洗濯物を取り込み、弟が宿題をする横でそれらを畳むためだ。
明日の授業参観は二時間目。
弟のこれからの成長が楽しみでもあり、そして恐ろしくもある。もし、弟が父の夢を叶えられなかったらどうなるのだろう。弟は、いつ、自分が目指しているもの、仰がされているものが父の夢であると知るだろうか。それに気づいたとき、弟はまだやり直せる年齢だろうか。いっそ今、打ち明けるべきだろうか。
父はそれを知れば怒り狂うだろう。親に従えない者は出て行けと言うだろう。その時、私たちはどうしたらいいのか。今はただ、弟を犠牲にして、生きるしかないのだろうか。嫌な人間、嫌な人生。
明子は三人分の洗濯物を両手で抱え、家の中に入る。
弟が背を向け、宿題をしている姿を見守りながら洗濯物を畳んでいく。
同い年の少年らに比べ、小柄な弟。
きっとそれはギプスのせい。
言えば父は女に何がわかると怒鳴るだろう。
可哀想な飛雄馬、私の弟。
「帰ったぞ」
「おかえり、とうちゃん」
「おかえりなさい。お父さん」
突如開いた玄関の引き戸、そこに立つ父の姿に明子とその弟・飛雄馬は姿勢を正す。
近くの飲み屋でまたツケ払いで飲んできたのか、アルコールの臭いをぷんぷんとさせ、顔を真っ赤にした父は開口一番、弟にグラブとボールを手に外に出ろ、とそう言った。
「…………」
まだ宿題の途中、弟はそう言いたいのだろう。
口をほんの少し動かしはしたが、声に出すことはせず、立ち上がると薄汚れたグラブと球を手に取ると靴を履き、父の後を追うようにして外に出た。
薄い継ぎ接ぎだらけのガラスが嵌まる引き戸の向こうでは父の怒鳴る声と、球を投げ、弟のグラブがそれを受け留める音がしている。
明子はただただ無心で、取り込んだ洗濯物を畳んでいく。余計なことを考えてはいけない。
父に見透かされ、怒鳴られることは避けたい。
私はただ、黙って毎日家のことをやっておけばいい。
酔った父の声と、ギプスが軋む音、そしてグラブが球を受ける音に明子は耳を塞ぎながら頭を垂れ、弟を犠牲に安息を得た自己嫌悪にはらはらと涙を流した。