一室
一室 「人が楽しく野球を観ているのに野次を飛ばすのはやめてくれ」
 巨人対阪急戦のテレビ中継を、安酒を煽りつつ口汚い野次を飛ばしながら眺めていた客を飛雄馬が制する。
 ナイターが始まってすぐ、初めは疎らだった客らも新生・長島ジャイアンツを熱心に応援していたが、客が増えるのに従って阪急が点を取り始め、次第に巨人や長島監督に対する罵声の方が大きくなっていった。
 酒を煽り、大きな声で定食をつまみながら連れと盛り上がる、日雇い労働帰りらしき客のせいで店の雰囲気が悪くなってしまっている。
 飛雄馬はこの空気に耐え兼ね、自身もまた、安い焼酎を一息に飲み下してから彼らを咎めたのだった。
 おたくらが巨人を気に入らんというのも分かる。
 しかし、ここはあんたらの家じゃない。
 巨人ファンだって大勢いるはずだ。
 それに、一生懸命プレイに励んでいる選手たちを冒涜するなんて以ての外だ。
 そう、一気に捲し立てると、日に焼けた顔をアルコールで更に紅潮させた体格のいい男が、なんだと?と眉間に皺を寄せながら飛雄馬を睨み付けた。
「一生懸命プレイに励んでいるだあ?どこをどう見たらそんな風に見えるんでい。皆てんでやる気のねえ辛気くせえ顔してるじゃねえか」
「そんなことはない。皆一生懸命だ。それでも力及ばす負けることだってある。それが勝負の世界だ」
「へっ!しゃらくせえ。てめえ巨人の野球帽なんてかぶってやがるが、巨人が馬鹿にされてご立腹なんだろうよ。勝負の世界だなんだと格好付けたこと言いやがってよ」
「……否定はしない」
 飛雄馬は男の言うように、かぶっているYGマークの野球帽、そのひさしを下げ、目元を隠す。
「気に食わねえ!表に出ろ!妙な言いがかりつけてきやがってよ」
「…………」
「おい、やめろよ。あんたも謝んな!こいつ酒癖悪くてかかあがガキ連れて出てっちまったんで苛ついてんだよ!」
 連れらしき細身の男性が飛雄馬と、赤ら顔の男をたしなめる。
「うるせえ!おめえにゃ関係ねえだろうが!」
 赤ら顔の男は連れの彼を怒鳴りつけ、一足先に店の外へと出た。
 飛雄馬はまさかの事態に取り乱し、おろおろと為す術なく視線を泳がせている店員にこんなことになってしまいすみません、と会釈してから、今日の日雇いで得た金をすべてテーブルの上に乗せた。
 しん……と多少、残っていた定食屋の客たちは静まり返り、飛雄馬は物言わず、店を後にする。
 いい、店だったんだが、もう訪れることもあるまい。
 申し訳ないことをしてしまった、と店の出入り口の戸を後ろ手で閉めつつ飛雄馬はほんの少し、顔を俯けていた。
 それが災いし──先に店外へと出ていた男の拳をまともに左頬に受けることになった。
「────!」
 一瞬、何が起こったか理解できず、飛雄馬は拳を受けた勢いで後ろに倒れ込み、店の引き戸に激しく背中を打ち付ける。
 弾みでかけていたサングラスが吹き飛び、少し離れた地面へと落下した。
 店を出て早々に殴られたのだ──と飛雄馬は背中をぶつけた引き戸の向こうで悲鳴が上がるのを聞きながら、血の混じる唾液を吐き捨てる。
 どうやら歯は無事らしい。
しかし、打たれた頬が激しく痛む。
骨にヒビが入ったかも知れない。  サングラスは割れてしまって、もう使えないに違いない。
 鼻からも意思に反して何やら液体が滑り落ちる感触を覚えつつ、飛雄馬はこれは鼻血だな、とどこか冷静に己の状況を見ている自分がいることに微笑した。
 とうちゃんに──親父に殴られ、頬を腫らし鼻血を出すことなんてそれこそ、幼い頃は日常茶飯事だった。大人しく殴られていたらそれで済む。
 おれの力じゃ──この左腕じゃ太刀打ちしようにも敵うわけがないのだから。
「なんだあ?派手にケンカを売ってくれた割には味気ねえな」
「好きにしたらいい。元々やり合う気などない」
「な、なんだとお?!てめえそりゃおちょくってんのか!」
 男は叫ぶなり、戸を背にうずくまる飛雄馬の腹に蹴りを入れた。
「うっ!」
 腹に鈍い痛みが走って、飛雄馬は呻くとそのまま地面に倒れ、蹴られた腹を押さえる。
「馬鹿野郎!殺す気か!」
 そこで初めて、連れの男が飛び出してきて、赤ら顔の男に掴みかかった。
 制止が遅れたのも、飛雄馬が戸にもたれていたせいで開閉しようにも体が重しとなり、ビクともしなかったせいである。
「ちっ!なんなんだよ!おれが何をしたって言うんだよ!」
 制止を受け、赤ら顔の男は吐き捨てるようにそう言うと、連れの男と共にどかどかと足を踏み鳴らしながら去っていく。
 なだめてくれた彼が、何度も何度も背後を振り返りつつ頭を下げてくれるのを飛雄馬はぼんやりと霞んでいく瞳でしばらく見つめていたが、いつの間にかそこから意識が飛んでいる。

 ◆◇◆◇◆◇

「う、わっ!」
 跳ね起き、飛雄馬は馬鹿に早鐘を打ち続ける己の胸に手をやった。
 心臓は動いている。おれは生きているのだ。
 おれは、定食屋の前で殴られ、それから……。
 額にじっとりと浮かぶ脂汗を拭い、飛雄馬は大きく息を吸うと鋭くそれを口から吐いた。
 寝ているのは固い地面の上ではない。
 どこかの一室、清潔なベッドの上。
 一体、誰がこんなところに。まさか、ここは天国とでも言うのではあるまい。
 飛雄馬はそこで口内の傷の痛みを自覚し、つっ!と呻いてから口元を手で覆う。
 口の中はもちろんだが、拳の当てられた頬も、激しく戸に打ち付けた背中も今になってズキズキと痛み始めた。
「思ったより早く、目が覚めたようだね」
「!」
 ひとりとばかり思っていたが、ベッドの足元、部屋の隅の方から声がして、飛雄馬は身構える。
「フフ、そう固くならんでもいい。ぼくはきみの味方さ」
 誰──?と飛雄馬は暗闇の中で必死に目を凝らし、部屋の隅で何やら椅子に座り、佇んでいる彼の正体を見極めんとする。
 おれにこんなことをしてくれる知り合いなどいないはずだが──まさか。
 飛雄馬は弾かれたように顔を上げ、ようやく目が慣れてきたお陰で、椅子の上で足を組み、グラスなど傾けている彼の正体を知る。
 花形満──と名こそ呼ばなかったが、飛雄馬は彼から視線を逸らし、そのまま口を噤んだ。
 見慣れぬスーツに身を包み、トレードマークのようだった前髪を整髪料か何かで固めているせいでそう見えるのか、あの挑発的だった独特な表情も鳴りを潜め、比較的己が知る頃より落ち着いた様子を見せる彼。
 何やら、人工的な甘い匂いが鼻につくのは花形が嗜む酒の香りか。
「久しぶりの再会を祝して、と言いたいところだが、今のきみにとってアルコールは禁忌だ。傷に障る」
「久しぶりの再会、とは?助けてくれたことに礼は言うがおれとあんた、会うのは今日が初めてだろう」
「………………」
 花形が手にしたグラスを傾け、喉を鳴らす音がはっきりと少し距離のある飛雄馬の許まで届いた。
 グラスを空にしたらしき花形が何やらジャケットのポケットに手を差し入れ、取り出したそれから中身を抜き取り、口に咥えた。
 それが煙草であることを飛雄馬が察したのも、花形が咥えたその細長いものの先にライターで火を点したのか見えたからだ。
 花形が手にしていたグラスを近くに置かれたテーブルの上に乗せたらしく、カツッ!と乾いた音が辺りには響いた。
「それは、とんだ失礼を。きみが昔の知り合いによく似ていたのでね。つい馴れ馴れしい態度を取ってしまった」
「…………」
「失礼ついでに、よければ名前を教えてはもらえんだろうか。せっかく知り合った縁だ。ぼくのことは花形と呼んでくれて構わない」
「トビタだ」
 飛雄馬はしばし考え込み、口を開く。
「トビタ?」
 花形に聞き返され飛雄馬は頷くと、うっすら血の味の混ざる唾液を嚥下する。
「なぜ助けてくれた?」
「さっきも言ったが、昔の知り合いによく似ていたのでね。たまたま、近くを通りがかったらきみを見つけたのさ」
「昔の、知り合い?」
 今度は深く花形が頷く。
「そう。あちらがどう思っていたかは知らんが、ぼくの運命を変えてくれた人さ」
「…………」
 飛雄馬は口ごもったまま、花形の顔が直視できず顔を背けた。
「まあ、ゆっくりしたまえ。トビタくんが早めに気付いてくれて命拾いしたよ。あまり遅いと明子が──妻がうるさいのでね」
「おれも……」
 言いかけ、飛雄馬は蹴られた腹にずきん!と鈍い痛みが走るのを感じ、歯を食い縛ると顔に苦痛の色を滲ませた。
「……その様では日雇いどころか日常生活を送るのも厳しいと思うがね。しばらくここで傷を癒やすといい。腹が減ったというのならルームサービスだってある。汗を流したいと言うのなら部屋のシャワーを使ってくれて構わんよ」
 それに、と花形は何やら続けつつ、煙草を灰皿に押し付けてから腰を上げ、飛雄馬の許に歩み寄るや否や何やら小さな紙袋を差し出してきた。
「これは?」
「鎮痛薬さ。痛みがひどく眠れんときには飲むといい。なに、薬局で買ってきたもので封も開いていない」
「……あんた、その知り合いとやらにずいぶん入れ込んでいたらしいな。ずいぶん良くしてくれるじゃないか。姿かたちが似ていると言うだけで」
「フフ……ずっと恋い慕っていた相手だからね。まあ、報われん片思いさ」
「…………!」
 飛雄馬はぎょっと目を見開き、鎮痛薬入りだという紙袋を受け取りながら花形を見上げる。
「酔漢の戯言と思って聞き流してくれたまえ」
 再び、花形は微笑むとまた明日、様子を見に伺わせていただくよ、と続ける。
「…………」
「トビタくんさえ迷惑でなければだが」
 ニッ、と花形は扉を開け、部屋から出際にそんなことを呟いた。
「花形っ…………」
 紡ぎかけた言葉は重い扉に阻まれ、花形の耳には届かなかったようで応答はなかった。
 手持ち無沙汰になってしまった飛雄馬が花形に手渡された紙袋を開け、中を確かめると彼が言ったとおりに鎮痛薬の箱と、何やら花形の名と肩書が印刷された名刺が入っている。
 なぜ名刺を?と何気なくそれを裏返すと、そこにはお大事にの文字と、電話番号が記されていて飛雄馬は相変わらずだな花形さん、と苦笑してから鎮痛薬の封を切った。
 説明書通りに錠剤を洗面台の蛇口から汲んだ水で服用し、飛雄馬はふと、目の前の鏡に映った己の痛々しい顔をここに来て初めて目の当たりにした。
 左頬は青紫色に鬱血し、右と比べて倍ほどに腫れ上がっている。
 口元が血に汚れていないのは花形が拭いてくれたからであろうか。
 妙な、因縁で繋がった人だと飛雄馬は腫れた頬に手を添えつつ、薬が効いている間に汗を流すことに決めた。
 程なくして薬が効き始め、痛みが少しずつ薄れてきたところで飛雄馬は浴室でシャワーを浴びるとタオル地のガウンに身を包む。
 ホテルなんて、現役時代に遠征などで使ったくらいで個人で使うのはこれが初めてになる。
 部屋自体もひとりで使うにはあまりに広く、ベッドだってこの大きさだと優にふたりは横になれるであろう。
 先程の名刺には花形コンツェルンとあったか。
 時折、野球中継を観ていると花形コンツェルンなる大企業の名を耳にすることがあったが、まさかその関係者、それも専務の肩書きと来た。
 ねえちゃん、すごいところに嫁いだんだな。  濡れた髪を拭きつつ、部屋に戻ってきた飛雄馬はそのままベッドに潜り込む。
 脱いだ服もどうにかしなければ。あまり長居をするのもよくない。花形さんに一言連絡を入れてから明日の朝にはここを出よう。
 確か枕元に電話があったはず。
 シャワーを浴び、暖まったお陰で頭がぼうっとなってしまっており、はたまたベッドなる上等なものに体を横たえたことが本当に久しぶりのことでその安心感も重なり、飛雄馬は薬で痛みが落ち着いていることもあって、つい深く寝入ってしまう。
 こんなに何も気にせずに眠れたのはいつぶりだろうか────。

 ◇◆◇◆◇◆

「!」
 ハッ!と飛雄馬は目を覚ますと掛け布団を跳ね除け、辺りを見回す。
「……おはよう。トビタくん。よく眠れたようだね」
「あ…………」
 既に花形の姿が昨晩同様、部屋の隅に置かれた椅子の上にあって飛雄馬は僅かに頬を染めた。
 気まずい。彼が部屋を訪れる前にここを去ろうと考えていたのにこんなに眠ってしまうとは想定外だった。
「眠れるのはいいことさ、トビタくん。ぼくとしてもきみをここに連れてきた甲斐があるというもの。さて、それではぼくは失礼するよ」
「え、しかし……」
「出勤前に少し寄ったのさ。終わり次第また覗かせてもらうよ」
「…………」
「では、トビタくん。ごゆっくり」
 言うと花形は踵を返し、これまた昨晩同様に颯爽と部屋を後にする。
 なぜ、花形はそこまでおれに気を配る?
 花形は一体、何を考えている?
 飛雄馬は腹の虫が呑気に空腹を知らせて来たことに我に返ると、どうしたものかと再び辺りを見渡した。
 すると、花形が座っていた椅子、そのテーブルの上に何やら正方形の冊子のようなものが置いてあることに気付き、ベッドから降りるとそこに歩み寄る。
 冊子を手にし、ページをめくれば花形が言っていたルームサービスの案内らしく、飛雄馬は一枚一枚それを興味深くめくっていく。
 電話一本で部屋まで来てくれるのか、いたれりつくせりとは正にこのことだなと飛雄馬は苦笑いを浮かべつつ、何か食事を摂ってもいいか訊くのを忘れていたなと俯けていた顔を上げる。
 名刺に電話番号は書かれていたが、こんなことでかけたら迷惑がかかるのではないか。
 昨日は好きにしたらいいと言ってくれたが、どうしたものか。
日雇いの金は定食屋にすべて置いてきてしまったし、この素寒貧ぶりではオレンジジュースさえ飲めそうにない。
 と、その刹那ベッドの枕元の電話がけたまましく鳴って、飛雄馬はビクッ!と身を震わせる。
 しばらく、取るべきか取らざるべきか悩んでいたが、途切れることなく鳴り続けるため、飛雄馬は意を決してベッドまで戻ると受話器を取った。
「はい」
『ああ、いたのかい。鳴らし続けても応答がないからもういないのかと思った』
 すっと心地よく耳をくすぐる花形の優しい声色に飛雄馬は唇を引き結ぶと、受話器を持つ手に力を込める。
「何の、用です」
『昨日も伝えたと思うが、念の為に、ね。食事は部屋に届けてもらうといい。脱いだ服もクリーニングに出してくれて構わんよ。ぼくのことなど気にせず好きに使ってほしい』
「…………」
 なぜ、まるでおれの心を読んでいるかのような物言いをこの男はするのか。
 飛雄馬は無言のまま、花形の言葉を待つ。
『それでは、また後程』
 ニッ、と受話器の向こうで花形が笑った気がして、飛雄馬は手にしているそれを送話器へと叩きつける。
 馬鹿に心臓が鳴っている。
 花形は、こんな男だっただろうか。
 体温が上がったせいか傷がまたしても痛み始め、飛雄馬はメニュー表片手にフロントに話をつけてから再び鎮痛薬を服用した。
 それから、薬が作用し始めた頃合いに部屋の扉が叩かれ、配膳カートを手にしたホテルボーイが顔を出す。
 飛雄馬は腫れた頬を隠すようにして応対しながら、部屋の中まで配膳させろという彼の申し出を断り、自分で頼んだオムレツやらパンやらを運び込むとそこでようやく一息ついた。
 注文したオレンジジュースの酸味が心を落ち着かせてくれ、飛雄馬は改めて部屋の広さに目を見張る。
 一泊、どれくらいの値段がするのだろうかと下世話なことを頭に思い浮かべながらパンを千切り、それを頬張る。
 焼き立てらしきパンは程よく甘く、バターの利いたオムレツも口の中でふわりと卵がほどける。
 こんな暮らしに慣れてしまっては、日雇いの日々には戻れんなと飛雄馬は自虐的に笑みを溢すと、締めにピッチャーからグラスに水を汲んでから大きく溜息を吐く。
 傷の痛みも鎮痛薬を服用こそしたが、昨日ほどではない。背中の痛みはもう薄れてきている。
 早いところ、ここを出なければ、いつまでも甘えてしまう。
 まさか、花形さんに甘える日が来ようなどとは、人生、どう転ぶかわからんものだなと飛雄馬は目を細め、食器類を片付けに訪れたボーイにそれらを返し、代わりにクリーニングに出した服を受け取ると椅子に腰掛けたまま溜息を吐く。
 すると、部屋の扉がノックされ、飛雄馬は先程の彼が何か忘れ物でもしたのだろうかと腰を上げ、返事をしながら扉を内側から開けてやった。
 だが、予想に反して顔を出したのはボーイではなく、つい数時間ほど前に部屋を出て行った花形で、飛雄馬は呆気にとられた。
「外回りついでに、少し寄らせてもらったよ。食事は摂ったかね」
 入室して早々に、花形は飛雄馬にそんな事を訊く。
「お陰様で……ずいぶんといいものを食べさせてもらった」
 素直に飛雄馬は己の気持ちを述べ、そろそろここを後にしようかとも思う、と続けた。
「まだいたらいいじゃないか。何を遠慮することがある、トビタくん」
「あまりこんなにいい暮らしを続けていたのではだめになってしまうからな。ふふ、花形さんのお陰でここ数日は本当に楽しかった」
「…………」
 伏目がちに囁いた飛雄馬との距離を縮め、花形はその腰を抱く。
 と、そのまま飛雄馬の体を己の方へと抱き寄せた。
「え?」
「飛雄馬くん、きみはまたぼくの前から消えるというのかね」
「な、っ…………」
 かっ!と飛雄馬の顔が赤く染まる。
 わかっていて、演技していたというのか花形は。
 それなら、もっと早く──。
「ずっとここにいたまえ。飛雄馬くん。きみだってこの暮らしは悪くないと思うだろう」
「馬鹿な、ことを……そんなことが……」
「…………」
 花形は飛雄馬の頬に手を添え、こめかみから耳にかけて現役時代より僅かに伸びた彼の黒髪を掻き上げつつ、その顔を傾けさせる。
「いっ、つ……」
 ちゅ、と花形が唇を触れ合わせたとき、かさぶたになった唇の端の傷口に触って、飛雄馬は思わず呻いた。
 そこで花形は我に返ったか、すまない、と小さくぼやくと飛雄馬の体を強く抱き締める。
 まさか、花形の唇もそうだが、彼に抱き締められるなどとは夢にも思っていない飛雄馬はあまりのことに驚き、戦慄いた。
 しかして、抵抗するでもなく抱かれている。
 暖かい。誰かの体温を直に感じたことなど何年ぶりになるだろうか。
 花形に抱かれるのはこれが二回目だろうか。
 甲子園球場で、真っ赤な夕日を背にしながら互いに顔を涙で濡らして。
 飛雄馬は花形の腕を掴み、彼もまた顔を寄せ目を閉じる。
「飛雄馬くん」
 再び、唇が傷に触れ、微かな痛みを伴う。
 飛雄馬は花形の腕を掴む指に力を込め、痛みを堪えた。
「あ、ぅ……っ、」
 なんと優しい口付けだろうか。
 おれはこんな花形は知らない、いや、知りたくなかった。こんなことは。
 花形に体を力強く抱かれ、腹のあたりに熱く固いものが触れる。
 いけない、このままでは流される。
取り返しのつかないことになってしまう。
「花形っ!」
 ビクッ!と飛雄馬の声に驚いたか、花形は唇を離すと、腕の力を緩めた。
「…………すまない、飛雄馬くん」
「…………」
 ふ、と飛雄馬から距離を取り、花形は背を向けると煙草を咥えたか、何やら軽い金属音が部屋に響いた後に独特の紫煙の匂いが辺りには漂った。
「仕事は、いいのか」
「仕事?ああ……なに、きみが心配することじゃない」
「一宿一飯の恩をこれくらいで返せるとは思わんが、おれの体、花形さんの好きにしてくれていい」
「……フ、フフ、馬鹿なことを。飛雄馬くん、情にほだされないでくれたまえ」
「…………」
「もう顔の腫れもだいぶ引いている。引き留めて悪かったね」
「花形」
 おれは、彼を置いていけるのか。
 このことは、一生、胸にわだかまりとして残るのではないだろうか。
 飛雄馬は悶々としたものを抱えながらもクリーニングから返って来た衣服を身に着けつつ、横目で花形の様子を伺う。
「ここを出て、少し歩けば駅に着く。手持ちが心許ないと言うのなら持って行きたまえ」
 花形は口元に煙草を携えたまま、振り返り様に財布をひとつ、飛雄馬に差し出した。
 一体、何がこの男をそうまでさせる?
 花形満と言う男は、おれをなんだと思っているのか?
「いらん。あまりおれを見くびらんでくれ」
 飛雄馬は花形を真っ直ぐに見つめ、そう言うと、彼から目線を外し、歩み始める。
 そうして、花形の隣を通り過ぎる刹那に、彼の方を向き直り、首元でしっかりと締められているネクタイを掴み──飛雄馬自身もまた、やや爪先立ちになりながら煙草の香りを纏う唇へと強引に口付けを与えた。
「!」
「あんたは、おれを恋焦がれてやまない飛雄馬くんと信じて疑わんようだが、あいにくおれはその飛雄馬くんとは別人だ」
 飛雄馬は花形に対し、そんな狂言を吐いた。
 彼の言うように、情にほだされている。
 情に脆いのはおれの長所であり、短所でもあるのだろう。
 花形は最初からこのつもりだったのだろうか。
「…………」
 その言葉に一瞬、花形は押し黙ったが、すぐに目を閉じ飛雄馬の背に腕を回すと、一度は離れた唇を再び触れ合わせた。
 独特の苦味が舌に乗り、飛雄馬は眉根を寄せながらも花形の肩に腕を乗せ、その首に縋りつく。
「っ、ぅ、ふ……」
 舌を絡められ、唇をゆるく吸われたかと思えば再び口を塞がれて飛雄馬は声を漏らすと、花形の首に強く縋った。

 ◆◇◆◇◆◇

「ん、っ……」
 花形と、こんな関係になってしまっているのに、どこか冷めた自分がいることに驚く。
 飛雄馬はそれが恐らく、偽名を使い別人に成りすましているせいだろう、と花形の口付けを首筋に受けつつ考える。
 さっきまで体を横たえていたベッドの上で、花形の重みを体に受けつつ、与えられる快感に耽っている。
 クリーニングから返ってきたばかりのシャツやスラックスは汗に濡れ、皺になってしまっていることだろう。
 花形は一度も飛雄馬くんとは呼んではこない。
 そうだ、それでいい。
 首筋に淡く歯を立てられ、つ!と短く呻いて体を仰け反らせた飛雄馬のシャツの裾から花形は中に手を差し入れ、指先で腹をなぞりながら到達した胸の突起をそっと押しつぶす。
「あ……」
 ぶるっ、と身を震わせ、飛雄馬は花形の指の下で膨らんだ突起の熱さに腹の奥を疼かせる。
 と、花形は飛雄馬の唇をそっと啄んでから、押しつぶしていた突起をきゅっと捻り上げ、シャツをたくし上げたことで現れたもう一方の突起に口付けた。
「あぅっ……!!」
 強い刺激が痺れとなって飛雄馬の背筋を駆け上がり、頭を痺れさせる。
 スラックスの中では男のそれが、痛みを覚えるほどに張り詰めているのがわかる。
 舌の腹でゆっくり尖った突起を舐め上げられたかと思えば、ちゅうっとそれを吸われて飛雄馬は声を堪えるため、口元で固く拳を握った。
 体を預けているベッドが、背中と触れているシーツが熱い。それほどまでにおれは興奮しているのだろうか。
 花形は突起を吸い上げつつ、今度は両手で飛雄馬の穿くスラックスのベルトを緩めると、腰を上げてと囁いてから下着共々、組み敷く彼の足から引き剥がした。
 花形は体を起こし、飛雄馬のスラックスと下着とを脱がせたと同時に彼もまた、身に着けていたジャケットを脱ぐとベッドの下へと放った。
 飛雄馬の心臓は破裂しそうなほど、高鳴っている。
 緊張からか、それとも姉の夫とこんな行為に及んでいる背徳感からか。
 それも白昼堂々、人知れず。
 花形は飛雄馬の足を左右に開かせると、その間に膝立ちの格好で身を置く。
 飛雄馬の下腹部では勃起したままの男根が、その鈴口から垂らす先走りで彼の白い腹を濡らしていた。
 飛雄馬はふと、花形がポケットから何やら取り出すのを目の当たりにし──蓋を開け、中身を指で掬ったことを確認する。
「…………」
 花形は掬った何かを纏わせた指を飛雄馬の尻になすりつけ、そのまま指を彼の腹の中に滑り込ませた。
「く、ぅっ……」
 半ば不意打ち気味に、無理矢理な挿入であったが痛みはほとんどない。
 それどころか、もっと奥にと腹の中がうねるのがわかって、飛雄馬は目を閉じると、花形の顔を見ないように顔を背けた。
 花形が僅かに関節で曲げた指、その腹が粘膜のとある位置の上をぬるりと滑って、飛雄馬は引き攣ったような声を上げる。
 体がかあっと熱を持って、腰が震えるのがわかる。
「逃げないで、トビタくん。きみのいいところを全部、ぼくに教えてほしい」
 指をほんの少し引き抜いて、花形は二本目の指を同時に奥まで挿入させると、今度は躊躇うことなく飛雄馬の腹側のとある箇所──前立腺を捉えた。
「ここをどうされるのが好き?ゆっくり、撫でられることかい」
「っ〜〜〜!!」
 花形がくちゅ、くちゅとそこを嬲るたび、臍の下の男根が切なく戦慄く。
 指の動きに合わせるように腰が揺れ、熱い涙が火照った頬の上を溢れ落ちる。
 ゆっくり、指を出し入れされ、浅いところを弄ばれて飛雄馬はやめろ!と掠れた声を漏らした。
「それはもっとの意味かね」
 ぬるっ、と花形は熱で溶けた整髪料に濡れた指を引き抜くと、ベルトを緩め、スラックスの前をくつろげると下着の中から怒張したそれを取り出す。
「は、ぁっ…………」
 飛雄馬はファスナーの下げられる音に目を開け、足の間から覗いたそれを瞳に映すなり、熱い吐息を吐く。
「ほら、トビタくんの中にぼくが入るのをちゃんと見ていて。目を逸らさずに」
 ぐっ、と飛雄馬の足を限界まで左右に押し広げ、花形は腰の位置を合わせると、手を添えたそれを入り口に押し当てた。
「っ、あ……あ────!」
 ぐぷ、と慣らし、解された飛雄馬のそこは花形を容易く受け入れ、軽い絶頂をもたらす。
 背中を弓なりに反らして、飛雄馬は顔を腕で覆った。
 しかして花形はそれを受け、臆するわけでもなく、時間をかけながら奥へ奥へと己を突き進めていく。
「とまれ、花形っ、止まってくれ」
「もっと奥が好きなんだろう、トビタくんは」
「す、きじゃ、ァ、あっ!」
 先程、指で嬲られた位置から僅かに逸れたところに花形の男根が触れ、飛雄馬は呻く。
「もう少し、奥かな」
「ん、ん……っ」
「…………」
 腰を押し付け、花形はぐりぐりと飛雄馬の中を抉る。瞬間、飛雄馬は目の前で火花が散ったのを見た。
 意識が飛びかけたのを腹の中をぐちゃぐちゃに掻き回されることで幾度となく呼び戻され、飛雄馬はやめてくれと何度も叫んだ。
 しかして、その度に口を塞がれ、飛雄馬は全身を汗に濡らしながら花形に縋った。
 飛雄馬にそこから、気が付くまでの記憶はない。
 ハッ!と飛雄馬が目を覚まし、体にかけられていた布団を跳ね除けたとき既に花形の姿はそこになく、彼の痕跡さえ部屋には残されていなかった。
 否──テーブルの上に置かれた灰皿の上に吸い殻が数本残されていたが、それ以外は何もなかったと言う方が適当か。
 飛雄馬はベッドの足元に畳んで置かれていたスラックスと下着を身に着けると、そのままベッドに横たわった。
 腹の中に、まだ花形が残っていて、飛雄馬は腹をシャツの上からさすると目を閉じる。
 まだ日は落ちていない。早いところここを発たないと夜になってしまう。
 頭ではわかっているのに、花形が与えてくれた熱が引かない。
 おれは、なんてことをしでかしてしまったんだろうか。今になってそんな後悔が襲ってきて、飛雄馬は左頬に掌を添える。
 花形の言ったとおり、腫れは治まっている。
 日雇いの仕事に出ても支障はないだろう。
 花形さんは、どこまで本気だったのだろう。
 今更、そんなことを考えても詮無いが。
 飛雄馬はゆっくりと体を起こすと、灰皿の置かれたテーブルの上に乗せられていたYGマークの野球帽と、幸運なことにヒビひとつ入っていないサングラスを身に着けると、冷たいドアノブを握り、それを捻ると同時に、部屋の外へと身を翻した。