苛立ち
苛立ち 急な雨に降られ、全身ずぶ濡れになる中で飛雄馬は共に夕食を摂った親友・伴をうちで雨宿りしていけと誘ったが、彼は用事があるからとタクシーを捕まえ去っていった。
伴に一緒に乗らんかとも誘われはしたが、すぐそこだからと断り、雨に濡れぬよう足早に街を行く人々に混じって帰路につく。
ねえちゃんは確かアルバイトに出ていたはず。傘は持って出ただろうか。終わる頃には止んでいるだろうか。何はともあれ、早く帰って冷えた体を暖めなければ。肩が冷えてしまってはまずい。
飛雄馬は自身の住まいのあるマンションにほとんど転がり込むような形で舞い戻り、偶然にも一階のエントランスで止まっていたエレベーターに乗り込むと部屋のある階数のボタンを押す。
濡れたせいか肌が粟立ち、体が戦慄く。
一刻も早く部屋に帰り、シャワーを浴びなければ。
辿り着いた目当ての階、廊下を駆け抜け、飛雄馬は震える手で部屋の鍵を開ける。
すると、中から光が漏れ、飛雄馬は、ねえちゃん、いるのかい?と声をかけた。
今日はアルバイトと聞いていたが、早めに終わったのだろうか。雨には降られなかっただろうか。
しかして、返事はなく、おかしいな、と思いつつも飛雄馬は開けた扉の隙間から体を室内へと滑り込ませた。と、玄関先にはきちんと揃えられた男物の靴が一足、並んでおり、飛雄馬は、ハッ、と足元を見つめていた目線を上げた。
「おや、おかえり、星くん。雨に降られたかね」
「…………」
どうして、花形さんがここに?の言葉を飛雄馬は飲み込み、目の前に立つ男の顔を見つめる。
てっきり、明かりをつけ、室内にいたのは姉とばかり思っていたが、それがまさか花形満であるとは夢にも思わず、飛雄馬は、どうも、とだけ囁くとその場で靴と靴下を脱ぎ、脇に退いた彼には目もくれず脱衣所へと引き篭もった。
ねえちゃんめ、またうちを待ち合わせに使って──ねえちゃんはそれでいいかもしれないが、おれや花形さんの気持ちも考えてほしい、とつい先日言ったばかりなのに。ねえちゃんとおれの家でありながら、勝手に親友・伴を出入りさせるおれが言えたことではないが、家賃や光熱費を払っているのはこっちなのに──。
飛雄馬は雨に濡れ、肌に貼りついた衣服を脱ぎ捨て、浴室へ入るとシャワーのコックをひねり、湯の温度を調整してからそれを頭からかぶる。
冷えた体には熱い湯が心地よく、ほっと一息吐かせてくれる。髪と全身とをそれぞれ洗いながら飛雄馬は、ねえちゃんは今日遅くなることを花形さんに伝えねば、と今朝の彼女の言葉を思い出す。
それともそれも織り込み済みで彼はうちにいるんだろうか。変わった人だな、いくら古くからの知り合いとはいえ、ライバルの部屋で暇を潰すなんて。
コーヒーくらいは出してやるべきだろうか。
それにしても、ねえちゃんときたら花形さんを部屋でひとり待たせてどうするつもりだったんだろう。
花形さんも部屋にひとりで何をして時間を潰すつもりだったのだろう。彼はテレビなど観る人間ではないだろうし……ましてやソファーで昼寝などするとも思えない。なのに律儀にねえちゃんに言われたとおりにうちを訪ね、ひとり、待っているとは。
飛雄馬はコックを戻し、湯を止めると浴室を出、脱衣所に置かれているタオルで体を拭う。
そうして、あらかた体の水気を取ってしまってから、着替えを持ってきていないことに気付く。
ひとりであれば裸のままここを出てしまっても咎める人間はいないが、今は花形さんが来ている。
彼に頼んで取って来てもらうか。いや、そんな真似できるはずがない。腰にタオルを巻き、こっそりとここを出るか。
「星くん」
「わ、っあ!」
脱衣所の外からふいに声をかけられ、飛雄馬は飛び上がらんばかりに驚いてから、声の主が花形であることに気付くと、ほっと胸を撫で下ろし、どうしましたと訊き返した。
「着替えを、持っていかなかっただろう。失礼かとは思ったが、きみの部屋から失敬させてもらったよ」
「あ……う、その……」
「ご立腹はもっともだろうがね。今は衣服を身に着けることを優先したまえ。肩を冷やすのが一番良くないとぼくは思う」
「…………」
無言のまま飛雄馬は脱衣所の扉を開き、花形から下着とパジャマ一式を受け取るとそれらを身に着け、くしゃみをひとつしてからこの場を後にした。
「勝手に部屋に入って申し訳ない。裸で出てくるよりはいいだろうと判断してのことだったが、無礼を許してほしい」
「い、いや、花形さんのおかげで助かりましたよ。ねえちゃんにもよく言われるんです、着替えはちゃんと持って行けって…………」
取り繕うように笑ってから、飛雄馬はソファーに座ったままこちらを見つめてくる花形の瞳が直視できず、顔を逸らす。
確かに、さっきの件では恩があるが、なんだって花形さんとふたりきりでねえちゃんの帰りを待たなければいけないのか。
雨は未だ降り続いているようだが、外で時間を潰すか……。
「今更、フフッ、ぼくたちの仲じゃないか……」
「…………」
どういう、意味だろう、と飛雄馬は微かに微笑んだ花形の顔に視線を戻す。ねえちゃんと恋仲となった今、遠慮はしないでほしい、とそういう意味だろうか。
おかしなことを言う人だ。それはねえちゃんとのことであって、おれには関係ないはず。
飛雄馬は、花形に夕飯は何か食べましたか、と尋ね、何か作りましょうか、とも続けてから、しまった、と口を噤む。また余計なことを言ってしまった。
花形さんはきっとねえちゃんと合流してから何か食べに行くに違いないのに、と。
「お気持ちだけいただくとさせてもらうよ。間もなく、明子さんもお帰りになるだろう」
それなら、コーヒーでも。
言いかけた飛雄馬だったが、突然けたたましい黒電話の呼び出し音が部屋に鳴り響いて、ビクッ!と体を震わせてからしばし固まった。
そうして、花形の、出たまえよ、の言葉を聞き、ようやく受話器を手に取った。
「もしもし、星ですが……」
おそるおそる、名を名乗って、飛雄馬は相手の返答を待つ。
『あっ、飛雄馬?よかった、帰ってたのね。そちらに花形さんいらっしゃらない?代わってくれるかしら』
「うん、代わるよ」
なんだ、ねえちゃんか──。
勝手に人の部屋を待ち合わせに使わないでくれよ──の一言をぐっと飲み込み、送話口を押さえてから、飛雄馬は花形へと受話器を差し出した。
「ぼくに?」
怪訝な顔をして尋ねた花形に、飛雄馬は、姉からです、と答え、こちらに歩み寄ってきた彼に受話器を手渡した。
「もしもし、代わりました。ああ、いえ、とんでもない…………わかりました。お気をつけて。ええ、はい。フフ……はい、また」
一体、何を話しているのだろう、と飛雄馬は自分には決して見せないであろう花形の笑顔を横目で見遣りつつ、電話が終わるのを待った。
それから、花形が受話器を置いたのを見て、ねえちゃんは何と?と尋ねる。
「アルバイトの欠員が出て、帰りが何時になるかわからないから今日のところは帰ってほしい、と、そうおっしゃっていた」
淡々と電話の内容を語って聞かせる花形を前に、飛雄馬はぐっと押し黙った。
「…………」
「体よく、断られたと言うことさ。フフッ、いつまでも居座って悪かったね。きみもゆっくり休みたまえ。明日は我が阪神タイガースとの試合だろう」
「断るだなんて、ねえちゃんはそんなことをするような人間じゃ……」
「星くん、きみは嫌がるかもしれんが、ぼくは何度でも明子さんを訪ねさせてもらうよ」
「ふ……花形さんになら安心してねえちゃんを任せられますよ。ねえちゃんには気苦労ばかりかけてきたからあなたのような人に見初めてもらえるのはおれも嬉しく思う」
「……本当に?」
「ほっ、本当にって、なぜそんなことを訊く?」
半ば笑みを湛え、こちらを見据える花形を見つめ返し、飛雄馬は語気鋭く訊き返した。
「なんで花形さんがここにいるんだ、迷惑だ、さっさと帰ってくれないかな、ときみの顔には書いてあるがね」
「…………!」
カッ、と飛雄馬は頬を染め、花形を睨んでから首を振る。
「そう、見えたのなら謝る。すまない。そんなつもりじゃ……」
言いかけたところで窓の外で雷鳴が轟き、雨足が強くなったか降り注ぐ雨の音が室内まで響いてくる。
「星くん、ぼくはね……」
「は、花形さん……声が、聞こえない……」
ふたりの間に流れる沈黙を、嘲笑うかのように雨だけは音を立て降りしきる。
「…………」
「花形さん、もっと大きな声で──」
言いつつ、何やら聞き取れなかった言葉を最後まで聞くべく飛雄馬は花形に歩み寄った。
「きみに─、…………」
まるで見計らってでもいるかのように花形の言葉に雷鳴がかぶさって、飛雄馬はやや眉間に皺を寄せながら彼との距離を詰める。
「花形さん?」
「…………」
すると、彼に腕を掴まれたかと思えばそのままぐいと引き寄せられて、飛雄馬は危うく転びそうになるのを花形に抱き留められた。
かと思えば、目の前に花形の顔があって、何ですか、と尋ねる間もなく彼の唇を押し付けられる。
反射的に目を閉じて、飛雄馬は口の中に滑り込んできた暖かく、濡れたものの感触に驚いて目を開けた。
そうして、思わず振りかぶった左手で勢いに任せ花形の右頬を張った。
「っ、花形さん……、自分が今何をしたかわかっているのか」
「さすがに、フフッ、姉弟で同じとはいかないか」
僅かに血の滲んだ口元を拭いながら花形が囁いた言葉に、飛雄馬は、ねえちゃんにも同じことをしたのか、と低い声で尋ねる。
「知りたい?きみが聞きたいというのなら聞かせてあげよう」
「いい加減にしてくれ、花形さん!そんな遊び半分でねえちゃんと付き合うのはよしてくれ。ねえちゃんの好意を踏みにじるのなら、たとえ花形さんでも許さない」
一息にまくし立て、自分よりやや背の高い花形を見上げると飛雄馬は彼の瞳をじっと見つめる。
花形さんはそんな男では──人間ではないはず。
今までのことだってハッタリに決まっている。
おれはこの奇妙な縁で繋がったこの人を、尊敬さえしているというのに。
「では、星くんはぼくの好意にはどう答えてくれるのかね」
「はっ、はなしを、逸らすな花形さん!」
振り絞るように叫んでから、飛雄馬はこちらに次第に歩み寄ってくる花形から逃げるように後退る。
「逸らしてなどいないさ。きみに姉がいると聞いたときはどんなに嬉しかったか」
「明日の試合を前に、人を揺さぶりに来たのか?そんな勝ち方をして嬉しいのか」
精一杯、強がって飛雄馬はひとつひとつ言葉を紡ぐが、背にはもう壁が着いている。
飲まれてはいけない、花形さんに。
こんな見え透いた嘘に惑わされてはいけない。
「人の好意を踏みにじるのはきみとて同じこと。人に言える立場なのかね、その様で」
「っ、…………」
言葉に詰まり、飛雄馬は口ごもる。
すると、花形の手が顎先にかかって、飛雄馬は目の前の彼を見上げる形になる。
後ろには壁があって、身動きもろくに取れない。
さっきは成功したが、次は、いや、迷っている余裕などない。雨が降っていようと、雷が鳴っていようと構うことなく、ここから外に出なければ。
飛雄馬は二度目の張り手を見舞うべく、腕を振りかぶったが、今回は既に行動を読まれていたか花形の手によって動きを封じられる。
まさか、と虚を突かれはしたが、それならと右手を挙げたがそれも同じく花形に阻まれ、ハッ、と気付いたときには彼の唇が自分のそれに触れていた。
「っ、う…………」
遠くで雷鳴が轟いているように感じられるのは幻覚か、それとも事実なのか。
舌で唇をくすぐられたかと思えば、まるで腫れ物を扱うようにそろりと口付けられて、思わず体が跳ねた。
飛雄馬は、次第に体から力が抜けていくのを感じながら顔に添えられた指のぬくもりと、口内に滑り込んだ舌の熱さに酔わされ、声を上げる。
瞳が潤み、顔が上気しているのが自分でもわかる。
花形さんの笑みから察するに、おれはとんでもない表情を浮かべているのだろう。
立っているのがやっとで、花形さんの首に回した腕のおかげで崩れ落ちずに済んでいるようなものだ──。
「ふ……ふ、ぅっ……はぁっ、は……」
「下、すごいことになっているよ」
「く、っ…………」
花形の手が、飛雄馬の臍下に触れ、勃起し、天を仰ぐそれをパジャマと下着の上から握るとそろそろとしごき始める。飛雄馬は腰が引け、体を戦慄かせるとともに花形に縋る腕の力を強めた。
「直に触ってもいいかね」
「ひ、っ…………う、ぅっ」
パジャマの僅かにシミのできた位置を指先で撫でられて、飛雄馬は全身に力を入れ、一息吐くと、嫌だとばかりに首を横に振る。
「嫌、どうして?後ろからがいいのかね?」
「…………!」
「フフッ、わかった。きみに合わせよう。後ろを向いて壁に手をついて」
「だっ、誰がそんなこと、さっきから黙っていればそんな、っ…………」
「後ろからはお気に召さない、と。貪欲だね、こういうことに関しては……外では優等生で通るきみがねえ」
「いっ、っ…………言ってないっ、そんなことは」
指で立ち上がった男根を弾かれて、飛雄馬は新たなシミをパジャマの布地に作らせる。
「説得力がないな、今だってこれからの想像をしてここを更に固くしたのはきみだろう。嘘つきはどちらかな」
「う、嘘じゃな……あっ、」
パジャマの中に手が入ってきたかと思うと一息に下着諸ともを引きずり落とされ、飛雄馬は顔を更に赤くさせたが、その隙を突かれ、体をくるりと回されると壁に手をつく形を取らせられた。
尻を花形へと突き出して飛雄馬は壁に腕をつくと、己の情けなさに歯噛みし、目を閉じる。
「伴くんとは、どこまでいったのかね」
指を口に咥え、唾液を纏わせた指を飛雄馬の尻に挿入しつつ花形が訊く。
指を一度根本までを飲み込ませてから浅い位置を探り、それから指は入口を拡張するべく動き出す。
腹の中をゆっくりではあるが、丹念に慣らし、浅いところを撫でたかと思えば深い場所を探る指の動きに飛雄馬は翻弄され、立ちっぱなしの男根からは先走りがとろりと垂れ落ち、床に落ちた。
「あ、ぅ、う……っ、く……」
いい場所を、わざとのように外し、その周辺をそろりと責めるその動きに飛雄馬は体を震わせ、壁についた手で拳を握る。
「答えて、星くん」
「どこっ、て…………伴とは、何も、っ……」
「…………」
指を曲げ、飛雄馬の前立腺の位置を軽く指先で押し上げて花形は再度同じ質問を投げかけた。
「あっ、ん、ん……伴、っ……とは……っ、」
「伴くんとは?」
「一緒の布団で、っ、寝たことはあるが、そんな……」
「布団で、ね……」
腹の中から指が抜け、ほっとしたのも束の間、指よりも遥かに大きく質量のあるものが体内を貫いて、飛雄馬はその衝撃で絶頂を迎え、びく、びくと体を震わせる。腹の中が限界まで満たされ、呼吸ができない。
飛雄馬の開いたままの唇からはとろりと唾液が糸を引いた。
「……っ、…………っく、」
「フフッ……何が入ったかわかるかい」
パジャマの裾から差し入れられた花形の指が飛雄馬の腰を撫で、背中を這う。花形を受け入れた入口が締まって、飛雄馬は体を震わせる。
すると、ゆっくり、腹の中から異物が離れていく感触があって、飛雄馬はその気味悪さに奥歯を噛み締めた。かと思えば、より深い位置を抉るように中を掻き回されて、ぞくぞくと肌が粟立つ。
「う、ぁ……あっ……」
自分の口から漏れる声は歓喜のそれで、あまりの不甲斐なさに飛雄馬の目元は涙で潤んだ。
再び、浅い位置を撫でられて、奥を数回突き上げられて飛雄馬は全身を戦慄かせると花形を一層強く締め上げてからひとり、絶頂を迎える。
しかして、花形はそれで解放してくれるでもなく、ひとしきり腹の中を嬲ったところでようやく、飛雄馬から離れた。
膝が震え、立っていることもままならず飛雄馬はその場に崩れ落ち、膝を着く。
これで終わりか内心安堵した飛雄馬だが、腕を取られ、そのまま花形に仰向けに組み伏された。
そうして両足を大きく左右に広げさせられたかと思うと、その間に花形の体があって、飛雄馬は目の前の彼を見上げる形となる。
「っ……!」
逃げなければ、と、そう思うのに、体が言うことを聞いてくれない。痺れ、靄がかかったように朦朧とする頭では、今、何の策を取るのが最善か、わからない。
その間、無理矢理に開かれた足の中心を、再び花形に貫かれて、飛雄馬は思わず顔を背ける。
とろりと男根から垂れたぬるい先走りが、腹の上に滴り落ちた。
「逃げないのかね。物足りない、とでも言いたげだが」
「ぐぅ、うっ……」
引き攣った飛雄馬の喉からは嗚咽が漏れた。
密着した互いの肌が汗にぬめって、花形が腰を使うたびに不快な音を立てる。
腰を打ち付けられるたびに、固い床を背にした体が軋んで、悲鳴が上がる。
濡れた瞳で見上げる花形の顔は、うっすらと微笑んでいるようにも見え、飛雄馬は顔を背け、口元を腕で覆った。
何が目的なのか、花形さんは。こんなことをして……ねえちゃんに会えない苛立ちから、こんな……。
「っ、う、うっ!」
花形の体の脇で揺れる足、その爪先をぎゅっと丸め、飛雄馬は体を震わせる。
「いくときはそう、言いたまえよ、星くん。勝手にひとりで果てられては困る」
「っ、て、なんか…………ぁっ、!」
つうっ、と花形の指先が飛雄馬の下腹を撫で、唇は中に出すよと囁く。
「いっ、いやだっ、よせ!中はいやだっ!」
「なぜ?理由を言いたまえ」
「いやだっ、それだけはっ……」
「…………」
ふと、花形の動きが止まったかと思うと、腹の上に生温かいものが触れて、飛雄馬はハッ、と顔を上げ、その正体を見つめた。薄く白味がかった液体が腹に乗っており、飛雄馬はほっと安堵すると、大きく息を吐く。床にようやく下ろされた足はおよそ自分のものではないかのように震え、全身は気怠く起き上がることさえままならない。
そんな飛雄馬を残し、花形は立ち上がると身支度を整え、しばらく経ってから、立てるかい、とそう、訊いた。
「……おれに構うな、花形さん。用が済んだら出ていってくれて結構だ」
掠れた声で飛雄馬は言うと、軋む体に鞭打ち、上体を起こすと、花形が差し出してくれたティッシュの箱を受け取る。
「…………」
「いつまで、いるんです。もう雨も上がっているはず。明日の試合はあなたも出るんでしょう」
箱から取り出したティッシュで腹の上を拭いつつ、飛雄馬は淡々と言葉を紡いだ。
「明日は予報では雨だと言っていた。生憎だがね」
「…………」
囁くと、こちらに背を向け、玄関まで歩く花形の背中を飛雄馬は見つめ、何か一言言ってやろうとも考えたが、上手い言葉が見つからず、黙って見つめるままに終わる。
重い金属製の扉が開き、閉まる音を聞きながら、飛雄馬はどんな顔をして帰宅した姉に会おうか、そんなことを考えつつ、この期に及んで尚、姉と好敵手の仲を取り持とうとしている自分のお人好し加減に呆れ、吹き出し、頬に伝う涙を拭うことなくひとしきり笑い続けた。