一泊
一泊 ねえちゃん、今日、帰りが遅いんだ。
読んでいた漫画雑誌から目を離さないまま、淡々と呟かれた飛雄馬の一言に、伴はぽかんと開けた口を閉じもせず、隣に座る親友の顔を見つめた。
「そ、それで?」
わざとらしい咳払いなどしつつ伴は飛雄馬の言葉を待つ。
「うちに、泊まったらどうだ?と言ったつもりだったんだがな」
「と、泊まり?」
伴の声は驚きのあまり裏返り、飛雄馬はその驚きように吹き出す。
「何をそんなに驚いているんだ。寮にいた頃は同じ部屋で寝泊まりしてたじゃないか」
「そ、そりゃ、そうじゃが、あの頃は人目もあったし、そのう……」
「そ、そんなつもりで言ったわけじゃ……」
頬を赤くし、視線を泳がせる伴の態度に飛雄馬も何事か察したか、つられるように赤面し、互いに顔を見合わせてからどちらともなく微笑んだ。
「しかし着替えがないぞい」
「あとで買いに行くか。今度来るときは着替えを持ってくるといい。何着か置いておく方が伴も安心するだろう」
「いっそここに住みたいわい」
「ふふ……」
伴は飛雄馬に顔を寄せつつ目を閉じる。
飛雄馬もまた、彼の首に腕を回すと目を閉じ、その口付けを受け入れた。
付けっぱなしのテレビ画面から何やら菓子メーカーの宣伝の文句が聞こえているが、ふたりはそれを気にもせず、ただただ互いに唇を重ね、吐息を舌に絡ませる。
まだ日は高いと言うのに、こんな行為に耽って──とうちゃんやねえちゃんが知ったら何と言うだろうか。
もしかしたら、ねえちゃんは気付いているかもしれない。だから、こうして家を空けることが多くなったのかもしれない。
なんて、そんなことを考えつつ、飛雄馬は伴に促されるままに絨毯敷きの床に背中を預け、首元に触れた唇の熱さに喘ぎながら、窓の外にそびえ立つ、東京タワーを瞳に映した。
幼い頃は、地上から見上げるばかりであったあの塔が、今では手が届きそうな場所にある。
新築マンションの九階に居を構えることになろうとは、あの頃は考えもしなかった。
飛雄馬は着ているシャツの裾から中へと潜り込むと、腹を撫で、胸の突起を探る伴の指に声を上げつつ身を強張らせる。
とうちゃんは今頃、愛知でオズマとどんな話をしているのだろう。おれを徹底的に叩きのめす作戦でも練っているんだろうか。
ふふ、それなのにおれは親友の体の下で、あられもない姿を晒している。
現実逃避と言えばそうだろう。
今、すべきことはこんなことじゃないことくらいわかっている。
「つ、っ…………」
飛雄馬はスラックスの中から取り出された自分のそれ、を咥えた伴の頭に縋りつく。
熱く、水気を孕んだ伴の口内が自分の分身を包み込み、締め上げる。
とうちゃんは、こんなおれを軽蔑するだろうか。
いや、むしろもう、知っていたからこそ、中日のコーチになることを望んだのではなかろうか。
そのお陰でおれは更に伴に依存するようになってしまったわけだが──。
もしかすると、それさえも計算の内だったのだろうか。
じゅぷ、じゅぷと音を立て、自分の股間に顔を埋める伴を見下ろし、飛雄馬は口元に置いた手で拳を握る。 腹の奥が変に疼いて、頭の中がぼうっとなってしまっている。いつもそうだ。
もうおれは、伴なしじゃいられない。
寂しいときも、苦しいときもこの男が、親友がそばにいてくれたから耐えられた。
もし、伴がここから去るようなことがあったら、おれは正気ではいられないだろう。
「あ、ァっ……い、っ、!」
そのまま、飛雄馬は伴の口の中に射精し、伴もまたそれを受け止める。
下半身に変に力が入って、飛雄馬は立てた膝の先、足の爪先を丸め、腰を震わせる。
と、飛雄馬は続けざまに何やら生ぬるいものが尻に触れたことに眉をひそめ、目を伏せた。
生ぬるいそれは自分が出したばかりの体液と伴の唾液が混ざったもので、それを纏わせた指を彼はおれの中に入れてくるつもりなのだ、と飛雄馬は想像したとおりに、腹の中を探るようにして突き進んでくる感触に奥歯を噛む。
伴は飛雄馬の尻を解しながら、彼の顔に自分のそれを寄せ、頬に口付けを落とす。
「伴、いいから……」
「よ、よくないわい。ちゃんと慣らさんと痛いのは星じゃろ」
「おれの体は伴が思っているほどやわじゃない。それに、おれが上になったっていいんだぜ」
飛雄馬は伴を挑発するような台詞を吐くと、少し体を起こし、尻から指を抜かせてから腿あたりで引っかかっていた下着とスラックスとを腰を浮かせ、剥ぎ取った。
「なんだか、星、きさまいつもと様子が違うのう。投げやりじゃ」
「……投げやりにも、なるさ。毎回毎回こんなことをされては身が保たん」
「そ、そうじゃのうて」
「…………」
それきり、飛雄馬は口を噤み、伴も何も言っては来なかった。
とは言え、伴はいつものように飛雄馬の開いた両足の間に身を置くと、そのまま己を彼の腹の中に飲み込ませたのだが。
それを受け、う!と短く呻いた飛雄馬だが、心配そうにこちらを見下ろしてくる伴に微笑みを返し、彼の名を呼ぶ。
いつもそうだ。
自分から仕掛けておいて、半ば強引にこちらを組み敷いておきながら身を案じるような台詞を伴は口にする。ここで嫌だと言ったら、伴は素直にやめてくれるのだろうか。
飛雄馬はゆっくりと腰を進めながら身を屈め、こちらに顔を寄せてくる伴の口付けを受け、その舌に自分のそれを絡めた。
「ふ……っ、」
腹の奥がきゅん、と疼く。
もうおれは、伴なしじゃだめなのだと実感させられる瞬間。この太い腿が、おれの腰の下にあって、この大きな腹がおれを押しつぶすこの感覚。
「あんまり締めるな、星よう、すぐ出てしまうぞい」
「こちらとしては、ふふ……はやく、出してくれたほうが、い……っ!!」
そんな冗談を飛ばしかけたのも束の間、一気に奥を抉られたかと思えば、急に腰を引かれ、飛雄馬は全身を粟立たせる。
「言うたな星よ。今日はここに来る前に一発抜いてきたんじゃ」
「は……、ぁ、っ……」
何を馬鹿な、そんなこと……頼んだ覚えはない。
確かに、いつも物足りなさを感じてはいたが、そんなこと……。
飛雄馬は先程、出したばかりの自身のそれが腹の上で再び首をもたげつつあるのを感じる。
期待半分、不安半分、と言ったところか。
いや、違う、おれは、こんな伴は知ら──。
飛雄馬はどすっ!と体重を掛けつつ、腹の中を抉った伴の腰の動きに、喉奥がきゅうっと締まったことを感じる。
「ひ、ぐっ……!!」
腹の上にとろりと熱い液体が滴る感触に飛雄馬は恐らく今ので、射精してしまったのだろう、と震える唇を閉じ、奥歯を噛む。
目の前には火花が散っている。
体に力が入らない。
こんなの、二度目は耐えられない。
「ん、無反応じゃのう。つまらん」
言いつつ、伴は腰を回すと、飛雄馬の腹の中を掻き回す。
「あ、ぁっ、だめ……!!」
「だめ?何がだめなんじゃ」
「っ──!!」
飛雄馬は首を振り、身を強張らせる。
「……言わんとわからんぞい」
しかして伴は飛雄馬の反応が何を意味するのかまったくと言っていいほどわかっておらず、それどころか足りぬと催促されているように感じたか、再び腰を引くと、それを体重を掛け、叩きつけた。
「あ"……っ、ぐ、ぅ、うっ!!」
伴の反ったそれが的確に飛雄馬の前立腺の位置を掻き乱し、責めあげる。
「星、星よう」
「ば、っ……動くな、ぁっ……いくっ、っ」
飛雄馬は伴の腕にしがみつき、背中を反らすと体を小さく戦慄かせた。
全身にはびっしょりと汗をかき、飛雄馬は半ば放心状態であるが、伴はまだまだこれからだと言わんばかりに腰を振ることをやめない。
「……嫌なことは全部忘れたらええ、親父さんのこともオズマのことも」
「……っ、っく……!」
なんだって?
今、伴、きみはなんと言った?
飛雄馬は無遠慮に腹の中を擦り上げ、奥を突き、肌に唇を寄せる伴の名を呼び、与えられる快楽にただただ酔った。
もう何度達したかもわからぬままに、ようやく腹の奥で脈動する感覚があり、飛雄馬は揺さぶられ、宙に浮いたままの状態となっていた両足を床に投げ出すことが出来た。
「うう、すまん、つい中で出してしもうた」
「……最初から、そのつもりだったんだろうに」
掠れた声を上げつつ飛雄馬はやっと空になった腹を押さえ、伴にティッシュの箱を取ってくれ、と声を掛けた。
「ち、違うわい!外に出すつもりじゃったわい」
「……まったく、加減を知らんやつだからな」
咳き込みつつ、飛雄馬は自分の尻を拭ったティッシュをこちらに背を向け、後処理を行っている伴に投げつけ、今度は腹に付着した自分の精液を拭う。
「なんじゃあ!?」
「ゴミ箱、伴の方が近いだろう」
何事かと振り返った伴の顔にティッシュを投げつけ、飛雄馬は近くに放られたままになっていた下着とスラックスを身に着けると、ソファーの座面に乗り上げ、その場に体を横たえた。
「かっ、顔に投げつけることはないじゃろ」
「すまん。手元が狂った」
ふふ、と飛雄馬は微笑むと目を閉じる。
伴はぶつくさと針の穴をも通すコントロールがとか後で覚えちょれとか何だか言っていたが、飛雄馬は聞こえないふりをし、そのまま寝入った。

すると、何やらいい匂いが鼻をくすぐり、飛雄馬はハッ、と体を起こすと、いつの間にか体に掛けられていたタオルケットに気付き、伴?と親友の名を口にする。
「おう、起きたか星よ。腹が減ったからのう。ちと早いが夕飯を頼んだんじゃ」
近所の蕎麦屋にな、と伴は続け、丼がみっつ置かれたテーブルの前でいただきます!と手を合わせた。
どうやら伴がふたつで自分はひとつらしい。
どうせならふたつ頼んでくれたらよかったのに、今ならカツ丼でも親子丼でも軽く二杯はいけそうだというのに、と飛雄馬は自分もまた、ソファーから降りると、伴の対面に位置する場所に座った。
「何を頼んだんだ?」
「おれはカツ丼ときつねうどんじゃい。星は月見そばぞい」
「ふぅん。伴にしてはセンスがいい」
「な、なんじゃ、さっきからひどいぞい」
「ふふ……そうカッカするなよ」
先にカツ丼を平らげる伴を前に、飛雄馬もまたいただきますと手を合わせ、丼の蓋を開ける。
ふわりと出汁のいい匂いが鼻孔をくすぐったかと思えば、濃い茶をしたつゆの中に浮かぶ卵の白と黄色、それにたっぷりと浸かる蕎麦の灰色に、飛雄馬は顔を綻ばせた。
「おれの奢りじゃから気にせず食うといい」
「きみの奢りなら天ぷらでもつけてほしかったな」
「む……それは気が回らんかったわい」
冗談さ、と笑ってから飛雄馬は、蕎麦を箸で手繰ると、一口分を啜る。
昼飯時も夕飯時も客の絶えない蕎麦屋の店主が、毎日手打ちしているという蕎麦の麺はつゆの風味にも全く負けておらず、程よい固さを保っている。
「うん、美味しい」
「めしを食ったら買い物に行くか」
「ああ、そうしよう」
飛雄馬は火が通り、固くなりつつある卵の白身に麺を絡め、それを啜った。
伴はとっくにカツ丼を食べ終えたか今度はきつねうどんに着手している。
まったく、朝もめしを三回お代わりしたとか言ってなかったか、と飛雄馬は箸の先で黄身を潰し、丼に口をつけるとそれをつゆと共に飲み込む。
「パンツと、ええと、パジャマと、歯ブラシと」
「パジャマはいらんだろう。別に」
「そ、そうか?」
まあ、好きにしたらいいと飛雄馬は続け、伴が食べ終わるのを待ってからふたり、マンションの外へと出た。軽く濯いだ丼類は部屋の扉の前にきちんと並べて来ると言う、几帳面な飛雄馬らしい周到さ。
伴が行きつけだというデパートにふたり連れ添って歩いてから、思い思いの品を手に、部屋へと戻って来る。やはり、外出中に取りに来たらしく、丼の類は綺麗さっぱり消えていた。
伴はそんな飛雄馬を褒め、飛雄馬はそんなことで褒めてくれなくていいと苦笑し、部屋の明かりを付けた。
「風呂に入って寝るとしようじゃないか。明日は昼からとは言えミーティングがある」
「まったく休みはあっという間じゃのう」
「久しぶりの休みらしい休みだったな」
「……たまには休むことも大事じゃぞい」
伴の言葉に、飛雄馬は頷くと、先に入れよ、と伴に風呂を勧めた。
「ここは星が……」
「早くしてくれ。このまま寝てしまいそうだ」
何やら納得いかない様子ではあったが、伴は購入した品が入った紙袋を手に、浴室へと消える。
飛雄馬は窓の外すっかり夜の街へと変貌を遂げた街をしばらく見つめていたが、カーテンを閉めると、伴が戻るのを待った。
眠気覚ましにスイッチをいれたテレビが映すはくだらぬバラエティのそれで、飛雄馬はいつになく真剣にそれに見入った。
テレビなど、野球の中継を観るくらいで、普段目にすることなどほとんどなかったが、たまには気が紛れていい。
飛雄馬は伴に声を掛けられるまで彼が風呂から上がったことを知らず、驚き、飛び上がるようにして浴室へと向かった。
そこで一通り汗を流し、全身を洗ってから飛雄馬は外へと出た。
すると、リビングに伴の姿はなく、飛雄馬はおれの部屋だろうか、と自分のベッドが置かれた部屋へと出向き、扉を開ける。
案の定、伴は買ったばかりの新品の下着とパジャマに身を包んだ格好でベッドの上で大いびきをかいており、飛雄馬は苦笑した。
まったく、本能に忠実な子供みたいなやつだ。
もっとも、おれはそこに助けられているわけだが。
伴、いつもありがとう。
飛雄馬が伴の少し腫れた左手を握ると、彼は口をもごもごと動かし、星、と小さく名を呼んだ。
「…………」
どんな夢を見ているんだか、と飛雄馬は握った手を離すと伴を起こさぬよう、この場を後にすると、ソファーに体を横たえる。
伴といると、嫌なことを忘れられる。
現に今、またおれはとうちゃんとオズマのことを考えてしまっている。
また、眠れぬままに朝を迎えることになるだろうか。
と、玄関先で何やら鍵を開ける音がし、飛雄馬は顔を上げると、開いた扉から顔を出した姉の明子に、おかえり、と声を掛けた。
「まあ、飛雄馬ったらまたそんなところで寝て……」
「伴が来てるんだ。おれの部屋で寝ちまってる」
「あら?本当だわ。ごめんなさいね、事情も知らず」
部屋の明かりをつけつつ、玄関先に揃えて置いてあった靴に気付いた明子が謝罪の言葉を口にしたのに対し、いいよ、と飛雄馬は返し、夕飯は?とも尋ねた。
「少し早めに上がれたから外で済ませて来ちゃったわ。飛雄馬たちは?」
「おれたちは店屋物を食べたよ」
「そう。よかったわね」
「うん、ねえちゃん、明日もアルバイトかい」
「明日は休みよ。と言っても、買い物に掃除にってやることはたくさんあるんだけど」
「……何か、手伝えることがあったら手伝うからさ」  
ぽつり、と飛雄馬は言葉を紡ぎ、明子は、あなたは野球にだけ専念してちょうだい、と彼をねぎらう。
「ねえちゃん、いつもありがとう」 
「い、いやだわ、突然どうしたの。変な飛雄馬」
「…………」
首を傾げた明子に愛想笑いを返し、飛雄馬はソファーに再び体を横たえる。
ねえちゃんも、伴もいずれかはおれの許を離れていってしまうんだろうか。
考えたくない、できれば、そんなことは。
飛雄馬は次から次に浮かんでは消え、浮かんでは消える思いを首を振り、払い除けると再び寝入るため目を閉じる。
何やら明子が話し掛ける声も、テレビの音声も今は雑音にしか聞こえず、飛雄馬はソファーの肘掛けを枕に、ふっ、とそのまま意識を手放す。
目覚ましもかけずに寝入ったふたりは明日の朝、明子に起こされ慌ててマンションを飛び出すことになるのを、今はまだ知る由もない。