意味
意味 ピンポンと来客を告げる玄関チャイムが鳴り、ひとり、自室で過ごしていた飛雄馬は返事をしつつ玄関先へと向かった。
姉の明子はガソリンスタンドのアルバイトに出ており、伴は所要で来られないという、極稀に訪れる飛雄馬ひとりの時間。
お届け物ですと扉の向こうから訪問者は告げ、またねえちゃんにだろうかと苦笑して、飛雄馬は扉を開ける。差し出されたのは花束と菓子折がひとつずつと、それにメッセージカードが一枚。
差出人を訊くまでもないなと、配達員が手渡してきた伝票にサインをしてから飛雄馬は両手でそれらを受け取ると、次の配達に向かうのだろう、急ぎ廊下を駆けていく足音を背後に聞きつつ、ダイニングテーブルへとそれぞれを乗せた。
花の良い香りが鼻孔をくすぐり、飛雄馬は無意識に顔を綻ばせる。今までも度々、彼から──花形からねえちゃん宛に花束であったり遠征先の銘菓であったりが届いていたが、花の種類といい、菓子の銘柄といい一度も被ったことはなく、マメな人だなと飛雄馬はライバルに対し、そんな印象を抱いていた。
花にしてもきつい香りがするものではなく、ほのかに芳香を放つ落ち着いた色合いのものばかりで、ねえちゃん曰く、会ったのはガソリンスタンドで一度きりと言うのだから、花形の観察力には驚かされる。
それにしても、と飛雄馬は送られてきた銘菓の箱に視線を落としつつ、ねえちゃんは手紙の返事くらい書いてやったらいいだろうに、と花形に同情の念さえ抱く。ねえちゃんは、阪神タイガースの花形満から手紙をもらうばかりで、今に至るまで返事を書いたことがないというのだ。
それだというのに、律儀にこうして贈り物であったり、手紙を寄越してくる花形は相当ねえちゃんに惚れ込んでいるらしい。
ライバルが姉に惚れるというのは少々複雑な気もするが、この先どうなることやら。
梨の礫もないねえちゃんに愛想を尽かして、一切の便りを絶つ可能性もないわけではないだろう。
花形は、そんな男ではないとは思うが。
しかし、よりによって、ねえちゃん、か。
飛雄馬は誰もいないマンションの自室では何もする気が起きず、ベランダへと繋がるガラス戸を開けると、そのまま外へと出た。
夜風がひやりと肌に触れ、季節の移ろいを感じる。
手すりに手を着き、下を見下ろせば、たくさんの人々が歩道を行き交い、自家用車やタクシーなどの様々な車両の群れが前照灯で辺りを明るく照らしている。
行き交う人々それぞれに人生があり、ドラマがあるのだと、そんな詩人めいた思いを抱きながら、飛雄馬は目線を上げ、空を仰ぐ。
高いビルが建ち並び、星はそれほど見えない。
とうちゃんと見上げた巨人の星が、ここからではどの方角にあるのか見当もつかない。
空はこんなに遠く、星は霞んでいただろうか。
「…………」
冷えてきたな、そろそろ部屋に戻るかと飛雄馬が振り返ったところで、明子が帰宅したらしく、ただいまと声がした。
「あら、どうしたのベランダに出て」
「おかえり、ねえちゃん」
「肩を冷やすとよくないんでしょう」
上着を脱ぎながら明子は飛雄馬をからかう。
「少しくらいなら大丈夫さ。ねえちゃんに荷物が届いていたよ」
「荷物?」
きょとんと明子は飛雄馬の言葉に目を丸くしたが、直ぐにテーブルに置かれた花束類に気が付いたか、また花形さん?と尋ねた。
「うん、そうみたい。ふふ、そんなことをするのは花形さん以外にはいないとは思うけど」
「まあ、言ってくれるわね。わたし、ガソリンスタンドでお客さんから食事に誘われることもあるのよ」
「ふぅん。承諾したのかい」
「怖くて無理よ、よく知らない人と食事だなんて」
花形から送られてきた花束の包みを解きつつ明子は飽きれたように言うと、戸棚から取り出した花瓶に水道から水を汲み、そこに花を生けた。
「綺麗だね。ねえちゃんによく似合う」
「花形さん、律儀な人ね。前にいただいたお花を今朝ちょうど捨ててしまったんだけど、こうして枯れる時期になると送ってくださるの」
「怖いくらいだね、却って」
「まるで見られているみたいね」
そんな冗談を言い合い、笑ってから、明子が夕飯は食べた?今日は伴さんはいないの?と尋ね、飛雄馬は伴は親父さんに呼ばれたみたいでね。夕飯はまだだよと答えてから、テーブルに飾られた花を見つめる。
花形は何を思いながら、この花々を選ぶのだろう。
それとも、季節の花を見繕ってくれたまえなどと花屋に言付けでもしているのだろうか。
「食事ができるまで、花形さんからいただいたお菓子でもつまんでいてちょうだい」
言いつつ、明子は菓子折の包装を剥がし、箱を開ける。
「そんなことを言って、いつもおれが食べているじゃないか。これじゃあ花形さんも送り甲斐がない」
「いいのよ。育ち盛りなんだから、飛雄馬は」
「ふふ……」
飛雄馬が微笑むと、メッセージカードが目に留まったか、明子が、これ、飛雄馬のことも書いてあるわよとテーブル上に放りっぱなしになっていたカードを拾い上げるなり差し出してきた。
「見てごらんなさい」
「いいのかい、おれが読んでも」
「構わないわ。ほら」
渋々、飛雄馬はカードを受け取ると、自筆らしい文字の羅列を目で追う。
前半はねえちゃんに宛てて書かれているが、後半は確かに自分宛に書かれている。
『我が宿命のライバル星くんへ
球場で会うのを楽しみにしている。
追伸:お菓子が気に入ったのならいつでも言ってくれたまえ、すぐに手配をする』と。
「…………」
「ふふ、飛雄馬がお菓子を食べてるのご存じみたい」 「ね、ねえちゃんが花形さんに手紙の返事を書かないから、こんな……」
カードを握りつぶしそうになるのをすんでで思い留まり、飛雄馬はたった今まで食べようと考えていた菓子に手を伸ばすのをやめた。
「面白い人ね、彼」
「ち、ちっとも面白くなんか……」
言いかけた飛雄馬の腹の虫がぐうと鳴り、ひとまず、メッセージカードの話はそれで一旦小休止となる。
明子がキッチンに立ち、飛雄馬は手伝いを申し出たが、座っててと一蹴され、リビングにあるソファーへと腰を下ろした。
明子が野菜を刻む軽快な音色に耳を傾けながら飛雄馬はなんだって花形はあんなことをと気恥ずかしさを覚え、テレビのスイッチを押すと、チャンネルを適当な局に合わせる。
テレビの画面も音声もろくに目と耳には届かず、飛雄馬は座ったソファーで項垂れた。
次、花形と顔を合わせるのは今度の巨人─阪神戦か。
どんな顔をしてマウンドに立つべきだろうか、もしや花形はこの戸惑いを読んでいたのだろうか。
まさか、彼に限って、こんな卑怯な手を使うわけがない。
味噌汁のいい匂いが部屋には漂い、飛雄馬はいらんことは考えぬようにしよう、とテレビを消すとテーブルに着き、運ばれてくる椀や皿に意識を集中させる。
すべてがテーブル上に揃ったところでいただきますと手を合わせ、明子とともに夕飯を囲む。
花瓶に生けられ、飾られた花は物言わず、飛雄馬と明子を見守っている。
美味しい?の問いに頷き、飛雄馬は無造作にテーブル上に置かれたままになっているメッセージカードをひっくり返し、黙々と食事を続ける。
「花形さん、こっちで試合があるときはよくうちの店に来てくれるんだけど、そのときも飛雄馬のことばかりお尋ねになるのよ」
「えっ」
「わたしに会いにいらしてるのか飛雄馬のことを尋ねにいらしてるのかわからないくらい」
味噌汁を吹き出しかけ、飛雄馬は、ねえちゃん変なことを言うのはよしてくれよと明子を制する。
「本当のことよ。この花束やお菓子だって本当は飛雄馬に……なんて」
余程、自分の発言が可笑しかったか明子はくすくすと笑みを溢し、飛雄馬は、ねえちゃん!と声を荒らげると、食事の残りを掻き込み、ごちそうさまと手を合わせた。
「だから返事は出さないことにしているの。癪だもの」
「…………」
冗談がましく明子は言い、飛雄馬はぽかんと呆ける。 「ほら、早くお風呂に入って寝ちゃいなさい。明日も早いんでしょう」
「ねえちゃんのせいで寝られやしない……」
恨み節を口にし、飛雄馬は後片付けを行なう明子を見送ると、花瓶の花を見遣る。
落ち着いた、慎ましい花々たちが今はこちらを嘲笑っている様にも思える。
嫌な話を聞いてしまったものだ、と飛雄馬は溜息を吐くと、風呂に入るため席を立つ。
と、今頃になって花の香りがつんと鼻を突いて、と飛雄馬はそれから逃れるよう、着替えを取りに自室へとの道程を駆けた。