家出
家出 ぐすぐすと飛雄馬は鼻を鳴らしつつ、近くの橋の下で拾った小石を川へと投げ入れる。
気の抜けたぽちゃんという音ともに小石は川底へと沈み、飛雄馬は大きな溜息を吐く。
どうしてとうちゃんはおれに野球をやれと言うんだ。
突然、右手を遣うなと言われてから間もなく一年が過ぎようとしている。字を書くときも球を放るときも常に左手を遣うことを強いられ、授業中には先生に何だその字はと怒鳴られ、級友らはおれをからかった。
箸などろくに遣えず、朝食や夕食の時間が苦痛でしかなかった。
ようやく左手がうまく遣えるようになったと思えば今度は大リーグ養成ギブス──とうちゃんはおれをなんだと思っているのか。
「とうちゃんのばかやろーっ!」
左手で思いきり放り投げた石が川に着水し、どぽんと沈む。このまま消えてしまいたい。いや、野球をしなくていい場所に行けるのならどこでもいい。
でも、長屋を飛び出したところで行くあてなどなく、おれはとうちゃんに養ってもらうしかないのだ。
そうして、養ってもらうには野球をするしか…………。
「ここにいたの」
声をかけられ、飛雄馬は頬に残る涙の跡を拭うと顔を上げる。声をかけてきたのは姉・明子で、飛雄馬は彼女の顔を見上げたのちに、ぷいと顔を背けた。
「ふん。今日という今日は絶対帰らないからな」
「あら、そんなこと言うんだったらおむすび、あげないわよ」
明子が後ろ手に隠していた竹の皮にくるんだおむすびの包みを取り出して見せ、飛雄馬の腹の虫がぐうと鳴った。とうちゃんとケンカし、家を飛び出してから何も食べていない。間もなく日が暮れようとしているから、およそ半日、何も飲み食いしていないことになる。
「う……」
「ふふ、冗談よ。食べなさいな」
「い、いいのかい?とうちゃんに怒られたりしないかい?」
おそるおそる明子の手から包みを取り、飛雄馬は紐を解く。すると中には美味しそうな塩むすびがふたつと沢庵が三切れ包まれており、飛雄馬はいただきます!というなり、手にした一つの塩むすびにかぶりついた。塩の染みたおむすびは空きっ腹に染み渡り、飛雄馬は夢中で一つ目を食べ終わると、沢庵の一切れを口に放る。
「慌てて食べると喉に詰まるわよ。はい、お茶」
明子は持参したらしい水筒のキャップに茶を注ぐと飛雄馬に手渡す。
「ありがとう、ねえちゃん」
「ゆっくり食べなさい」
キャップに注がれた茶を飲み干し、飛雄馬は二つ目のおむすびを口にすると、とうちゃんはいないの?と訊いた。
「ええ。おとうさんなら珍しく飛雄馬が飛び出したあと、日雇いの仕事に行くって出ていったわ」
「ふぅん……」
「ねえさんもね、飛雄馬が小さい頃、家出をしようと思ったことがあるの」
「えっ?」
明子から聞かされたまさかの告白に飛雄馬はおむすびを喉に詰まらせ、数回呻いてから胸元を叩くと手渡された茶で喉を潤し、一息吐く。
「長屋を出てしばらく付近を当てもなくさまよっていたんだけど、中学校のときの同級生と偶然鉢合わせちゃってね……今何してるの?とか高校はどこ?なんて尋ねられて途端に惨めになっちゃって……すぐ帰ってきたわ。ふふ、飛雄馬が学校に行っているときも一度飛び出したこともあるわね。そのときはとうさんに捕まって連れ戻されちゃったけど」
「…………」
おむすびを長いこと咀嚼していた飛雄馬はようやく一口を飲み込み、二口目を頬張る。
「家を出たところで住むところもないし、手に職があるわけでもないし……ねえさんはあの長屋にいる他ないのよ」
二口目を飲み下し、残り全部のおむすびを口に頬張ってから飛雄馬は茶で流し込むと、それならさ、と目元に涙を溜め、こちらを見遣る明子の顔を見つめる。
「お、おれが巨人の星になったらねえちゃんを長屋から連れ出してあげるよ」
「飛雄馬、あなた……」
「ねえちゃんだって幸せになったっていいんだぜ。ずっとおれやとうちゃんの世話をし続ける必要なんてないよ!」
「でもあなた、野球が嫌で家を飛び出したんでしょう?大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。頑張るよ、おれ」
「…………」
すっくと飛雄馬は立ち上がり、やるぞお!と左手を高々と空に向かい掲げる。
「おれはねえちゃんをきっとあの長屋から脱出させてみせる。約束するよ」
「飛雄馬ったら……」
明子は指で目元の涙を拭うと、そうと決まれば帰ろうと言う飛雄馬のあとに続いて立ち上がる。
どこからともなく、夕食の匂いだろうか魚の焼ける匂いと味噌汁の匂いが漂ってきて、今度は明子の腹が鳴った。
「帰って夕飯にしようぜ、ねえちゃん……おれも手伝うからさ」
「ありがとう、飛雄馬」
ねえちゃんは、うちにお金がなくて中学を卒業してからはずっと家で掃除洗濯、食事を作ることを仕事としている。新しい服も買えず、美容室にも長いこと行けていないと言っていた。
おむすびを持ち寄ったことがとうちゃんにばれたら大目玉を食らうだろうに。さっきはああ言っていたけど、優しいねえちゃんはおれたちのことが心配で出ていけなかったに違いないんだ。
「ねえちゃん、また勉強教えてよ。算数でわからないところがあってさ」
「もちろんよ。ふふ、ねえさん、勉強は得意だったんだから……」
そんな会話を繰り返しながらふたりは長屋への道程を行く。空にはたくさんの星が輝いており、その中の一つが尾を引きながら東に向かい走ったことを、ふたりは知らぬまま、ふたり、互いの手を握ったまま川沿いの道を歩いた。