一言
一言 伴のやつ、遅いな、と飛雄馬は休むことなく時を刻む壁掛け時計を見上げる。
伴の屋敷の台所に置かれたダイニングテーブルに着いたまま、飛雄馬はラップの掛けられた手付かずの夕飯へと視線を落とすと、今宵十数回目になる溜息を吐く。夕飯のおかずをこしらえてくれたおばさんはとっくに床に着いていることだろう。
間もなく日が変わる。このまま起きていては明日のサンダーさんとの練習に支障が出てしまう。
今日は早く帰れるから一緒に夕飯を食べようと言ったのは伴だというのに。
はあ、と再び飛雄馬は溜息を吐くと明かりを消すため、席を立つ。すると、玄関先でチャイムが鳴り、来客の報を飛雄馬へと告げた。
こんな夜更けに誰だろう、伴なら勝手に鍵を開けて入ってくる。
おばさんが起きてくる気配はなく、飛雄馬は渋々台所を出、長い廊下を歩むと玄関先へと立つ。
「はい」
「夜分遅くにすまない。伴くんが酔い潰れてしまってね。ここを開けてくれないか」
「…………!」
外灯に照らされ、玄関先の引き戸に張られた磨りガラスにぼんやりと映った影。その影が発した声を耳にするなり、飛雄馬は後退り額から伝った汗を手の甲で拭う。
花形が、なぜここに──。
伴もどうして花形などと一緒にいるんだ。
構わず、そこに捨て置いてくれと言うべきか、いや、しかし…………。
様々な疑問や考えが飛雄馬の頭の中を巡る。
開けるべきか、それとも。
「飛雄馬くん、いるんだろう」
外では、雨が降っているらしい。このまま降り続けば、明日の練習は休みとなるだろう。
このまま放っておけば伴はおろか、花形も風邪をひいてしまうだろう。
飛雄馬は手を伸ばし、引き戸の錠を開けると、項垂れた伴に肩を貸し、玄関先に佇む花形の顔を見上げた。
そのとき、ちょうど柱時計が0時を指し、辺りに低い音を響かせた。
「伴くんの会社の取引先とぼくの会社の重役が懇意でね。いわゆる大人の事情というやつさ。安心したまえ。伴くんは何もしゃべらなかったよ」
頭の先から足元までずぶ濡れとなった花形がにやりと微笑んだ。伴は一言も発さない。相当深く酔っているらしい。
「…………中に、入ったらどうだ。このままでは風邪をひく」
「結構。ぼくはこのまま帰ることにするよ。きみも気まずいだろう」
「伴をここまで連れてきてくれた恩人をそのまま帰すほどおれは冷たい人間じゃない。さあ」
「…………」
花形は無言のまま靴を脱ぎ、飛雄馬と共に廊下を歩く。一歩歩くごとに水滴が板張りの廊下に滴り、相当長い間雨に打たれたであろうことを飛雄馬に知らせる。
車に押し込むのが一苦労だったと花形は笑い、飛雄馬の案内した部屋に伴を寝かせると、ポケットから取り出した煙草へと火を付けた。
所々、紙巻き煙草は濡れていたが、嗜むのに支障はないようである。
「風呂に、入ってきたらいい。伴の着替えは済ませておく」
「伴くんに怒られないかい」
「怒りたいのはこっちだ。いくら仕事とは言え、こんな面倒……いや、」
「フフッ、そう言いたい気持ちもわかるよ、飛雄馬くん。では、お言葉に甘えさせていただこう」
「風呂はここを出て……」
部屋の座卓上にあった灰皿に煙草を押し付け、火を消すと立ち上がった花形に飛雄馬は風呂の場所を示したが、何度かここを訪ねたことがあるから大丈夫さと彼は言い残すと、部屋を出て行った。
「…………」
おれが行方を眩ませている間に、伴と花形夫婦は家族ぐるみの付き合いをしていたというのは事実らしい。
大人の事情、と花形は先程そう言った。
飛雄馬は花形と同じように部屋を出、洗面所に向かうと洗い桶に湯を溜め、手拭いを浸してから伴の元へと戻る。花形がシャワーを浴びているのか、浴室からは水音が響いていた。
部屋に戻るなり、飛雄馬は伴のネクタイを緩め、シャツのボタンを外していく。
そうして、湯に浸した手拭いで全身を拭き、寝間着代わりの浴衣を羽織らせてやってから掛布団を体の上へと乗せた。その間も伴が目を覚ますことはなく、気持ちよさそうに高いびきをかいている。
人の気も知らんで、いい気なものだと飛雄馬が小さく胸中で悪態を吐いたところで浴衣に身を包んだ花形が髪を拭いながら部屋を訪れ、助かったよと頭を下げた。
「……隣が客間になっている。今日は泊まっていくといい」
「伴くんはまだ眠っているのかい」
「一度眠るとなかなか起きないのは花形さんもご存知だろう」
「飛雄馬くんも休みたまえ。まあ、この雨では明日の練習もないだろうがね」
「…………」
「邪魔をしにきたわけではない。それだけは留意願いたいね」
「おやすみなさい、花形さん」
飛雄馬は洗い桶を手に立ち上がると、花形を残し部屋を出た。閉めた雨戸の向こうでは雷雨がひどく降っているのか、耳を塞ぎたくなるような雷鳴が轟いている。冷えた洗い桶の水を捨て、手拭いを脱衣かごに放り込んでから飛雄馬は風呂で汗を流し、歯を磨くと、自分に充てがわれた部屋へと戻る。
夕飯は食わずじまいか、明日、おばさんに謝らなければと飛雄馬は畳の上に布団を敷くと明かりを消し、中に潜り込む。
疲れているのに眠気は一向に訪れてくれず、飛雄馬は布団の中で何度も寝返りを打つ。
雨足は衰えるどころか酷くなる一方らしく、頭まで潜った布団の中まで響いてくる。
明日、起きたら伴に一言言ってやらねば。
その前におばさんに花形が来ていることを伝えなければ…………。
ふと、雷鳴に混ざって部屋と廊下を隔てる襖が開いたような音が耳に入り、飛雄馬は布団の中で息を潜める。しかし、それきり何の音も聞こえては来ず、気のせいかとようやく訪れつつある睡魔に身を委ねようと飛雄馬がうとうとと微睡んだところで掛布団をめくられる気配を感じ、ハッと目を開けた。
「眠れなくてね、隣、いいかい」
「…………!」
ひやりと冷たい足が布団の中でぬくもりつつあった体に触れ、飛雄馬は完全に覚醒する。
「枕が変わると眠れなくてね。フフ……我ながら幼稚だとは思うが」
「伴の布団に入ったらどうです。あちらの方が温かいんじゃないか」
「迷惑かい」
「……好きにしたらいい」
するりと隣に滑り込んできた花形に背を向け、飛雄馬は目を閉じる。他人の体温が妙に心地良いのは疲れているせいだろうか。雨が降ることで肌寒く感じるからだろうか。
まさか花形と同じ布団で眠ることになろうとは。
明日、伴に見つかったら何と言われるだろうか。
そのときは花形がうまく言いくるめてくれるだろう。
夜中に声を荒らげることもないだろうと花形の申し出を受けはしたが、却ってゆっくり眠れそうだ。
「…………」
雨音を子守唄に、いつの間にか眠っていたらしい。
何やら唇に触れる感触があって、飛雄馬はぼんやりと目を覚ました。辺りはまだ薄暗く、夜明けはまだ遠いようだ。
ほんの少し顔を動かし、隣に視線を遣ると花形の姿はすでになく、部屋に帰ったのだろうかと飛雄馬が視線を前に戻した刹那、己の足の間に身を置く彼を目の当たりにした。薄暗い部屋の配置に目が慣れ、隅に置かれた箪笥や押し入れの襖の位置が記憶のとおりに浮かび上がってきた頃、飛雄馬はようやく自分が置かれている状況を把握する。
浴衣の帯は解かれ、下着は身に着けていない。
左右に押し開かれた足の間には花形が座っている。
「っ……!」
花形から距離を取ろうと腕を使い、体を起こしかけた飛雄馬だったが腹の中を何物かで掻き回され、大きく体を震わせた。
にやり、と暗闇の中で花形の口元がおかしくて堪らないとでも言いたげに不気味に歪む。
腹の中に、何かがいる、と、その正体が何であるか判明した頃には、飛雄馬は体の奥深くを貫かれたまま、花形の眼下に白い喉を晒し、声を上げていた。
熱を持ち、反った臍下の男根は体を揺さぶられるたびに、腹へとぬるい液体を滴らせる。
花形の腰で尻を叩かれ、中を抉られると突かれた腹の奥から全身にぞくぞくと甘い痺れが走った。
火照った体の表面を冷えた汗が伝い、背にした浴衣を湿らせる。
花形の体の脇で揺れる足がまるで蝋細工のように白く、現実味がない。この置かれた状況を夢ではないと嫌でも自覚させるのは、花形の与えてくる快感である。
優しく浅い位置を嬲ったかと思えば、奥の深い位置を強く突いてくる。淡い快感に体が慣れ、呼吸を整えつつあるところに中を抉られ、頭の中に火花が散るのだ。もう何もわからなくなって、与えられるがままに声を上げるばかりになる。
花形の名前を呼ぶ声が、優しく肌をなぞる指が飛雄馬の思考を奪う。
一度、出すよと囁き、花形は達したと思われたが、腰の動きは止むことはなく、飛雄馬の中を犯し続けた。
その間、何度飛雄馬は気を遣っただろうか。
絶えず漏らす声も雨と雷鳴に掻き消され、薄い襖を隔てた先に眠る伴の元へは届かない。
休憩だと称し飛雄馬の男根を花形は擦り、腹の上を白く汚した。声は嗄れ、瞳の焦点が定まらなくなりつつある飛雄馬であったが、それでも花形は止まることはない。汗に濡れた飛雄馬の髪に指を絡ませ、名前を幾度となく囁いた。
そうして、ようやく飛雄馬が解放されたのは雨は止まずとも夜が明け、空が明るくなり始めた頃合であった。布団に下ろすことを許された飛雄馬の両足は震え、全身は汗にびっしょりと濡れている。
息も絶え絶えに悪態を吐く飛雄馬の声は掠れ、喉が嫌な呼吸音を漏らすのみだ。
「…………」
それで気が済んだか、花形は何やら飛雄馬の耳元で囁き部屋を出て行った。震え、言うことを聞かない体を懸命に起こし、飛雄馬は布団から立ち上がる。
部屋を出ると、すでに起きていたらしいおばさんと花形が楽しげに談笑する声が聞こえ、飛雄馬はよろよろと伴を起こさぬよう、物音を立てぬよう洗面所に向かった。汗や涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗って、花形の体液の味が残る口を濯いで、飛雄馬は何事もなかったかのようにおばさんらの前に姿を見せる。
「おはようございます、星さん。昨日は眠れましたか」
「…………」
雨と雷がひどかったですものねと言いつつ、茶を入れてくれたおばさんに返事を返し、飛雄馬は花形の対面へと腰を下ろした。
「花形さんが坊ちゃんを連れてきてくださったようで……星さんが戸を開けてくだすったんでしょう」
「ええ、はあ……まあ、そんなところです」
掠れた声を咳払いでごまかし、飛雄馬はおばさんが用意してくれた茶を啜る。熱い緑茶が散々弄ばれたせいで水分不足となっていた喉や全身に染み渡った。
「朝ご飯、どうぞ召し上がってくださいな。星さん、昨日は夕飯食べずに眠られたんでしょう。まったく坊ちゃんたら」
「こちらの不手際で飛雄馬くんには申し訳ないことをしました。伴くんにはぼくからもきつく言っておきます」
「ほんに坊ちゃんたら星さんだけでなく花形さんにもご迷惑をお掛けして……起きたら私からも一言申し上げておきますから」
いただきます、と花形は手を合わせ、おばさんが用意してくれていた朝食に箸を付ける。
飛雄馬はその様を横目で見遣りつつも、おばさんに不審に思われぬようにと自分もまた、箸を手に取った。
美味ではあるが、昨日の一件のせいでまともに喉を通らず、飛雄馬は嫌な汗をかいたが、無理やり口にした白米やおかずの類を味噌汁で飲み込み、ごちそうさまでしたと手を合わせる。
「あら、もういいんですか。珍しい……いつもおかわりなさるのに」
「疲れているのでしょう。夜中まで起きていてあの雨だ。ろくに眠れなかったと見える」
誰のせいでこんなことになったと思っているんだの一言を飛雄馬は飲み込み、部屋で休んでいますと花形を残し、自室へと戻った。
伴はまだ眠っているらしい。サンダーさんはまだ屋敷を訪れた気配はない。
しばらく、眠るとしようかと飛雄馬は小さくあくびをすると、畳の上に寝転がる。
雨は勢いこそ弱まったがまだ降っている。
うとうとと飛雄馬が微睡みかけたところで、花形が発つのか廊下の向こうでおばさんの声が響いた。
見送らねば妙に思われるだろうと飛雄馬は体を起こし、玄関先へと向かう。
するとちょうど花形が戸を開けたところで、昨日はお世話になりましたと飛雄馬は彼の背に向かい、頭を下げた。着替えの一式は伴の屋敷に置いていたのか、昨夜とは違う三揃いのスーツに花形は身を包んでいる。
「……こちらこそ。昨日はありがとう、飛雄馬くん」
「…………」
「今度はぼくの屋敷に来たまえ。歓迎するよ」
ニッ、と花形は微笑み、おばさんに差し出された紳士用の傘を差すと石畳の上を歩いて行った。
飛雄馬はそこで脱力し、玄関先に膝を着く。
「ほ、星さん!?大丈夫ですか?」
「え、ええ……すみません。少し、部屋で休みます……」
飛雄馬は柱を頼りに立ち上がり、おろおろと取り乱すおばさんに心配しないでくださいと言い残すと、部屋に戻り、畳の上に横になった。
花形は、部屋を出る際、何と言ったか。
それとも、何か囁いたような気がしたのは気のせいだったのだろうか。
「…………」
飛雄馬は意識を手放す刹那に伴が襖を開け、すまんと頭を下げる気配を感じたが、反応を返すことなく眠りに落ちる。次に飛雄馬が目を覚ますのは正午すぎで、伴が昨夜の醜態を畳に額を擦り付ける勢いで謝罪するのも聞き入れず、徹底的に無視を決め込んだ。
そうして、おばさんが屋敷を訪れた御用聞きに花形のスーツ一式を手渡すのを目の当たりにし、昨夜のことは事実であったのだと、花形の囁いた言葉は夢ではなかったのだと、彼の与えた熱をありありと思い出し、奥歯をきつく噛み締めた。
「ようやく皆、きみのいない世界に慣れつつあったのに。また自覚なく地獄に引きずり込むのかい」
何が地獄だ、花形さんは、おれの何を知ったつもりでいるのか。何も、何も知らないくせに。
突然、険しい表情を浮かべた飛雄馬を心配し、どうしたんじゃいと声をかけてきた伴に大丈夫だと返し、今度から気を付けてくれよと釘を刺してから、無理に笑顔を作る。
へらりと釣られ、微笑んだ伴に飛雄馬はちょっと出てくると告げ、玄関先で靴を履いた。
「い、今からかあ?」
「雨も上がったし走ってくる。伴も仕事に行かなくていいのか」
「き、今日は休んだわい!二日酔いで仕事にならんわい!」
ふふ、と飛雄馬は何も気付いていない伴を安堵感から一笑に付し、屋敷を飛び出すと、角を左に曲がった。
雨上がりの町内は昼過ぎということもあってか人が多く歩いている。花形の言葉に惑わされてはだめだとわかっているのに、ふとしたときにあの一言が蘇る。
気にしてはいけない、と飛雄馬は首を振り、走る速度をやや速める。見上げた空はどんよりと曇っており、まるで自身の心の中のようだなと飛雄馬は唇を引き結ぶと、いつもの町内一周のコースを一心不乱に駆けた。空が晴れる気配は、未だない。