一軍戦
一軍戦 「ふう、伴よ。今日も一日付き合ってくれてありがとう」
飛雄馬は帽子を取り、額の汗を拭きつつ本日の投球メニューをこなし終え、多摩川練習グラウンドの片付けをして帰ろうとばかりに今まで何の文句も零すことなく球を受け続けてくれていた伴の元へと歩み寄った。
どうも一軍の正捕手の調子が芳しくないとの話で、先程中尾二軍監督から直々に明日は公式戦に出るようにとの申し付けがあったために、今日は早く上がろう、とそう、言うのだ。
「…………伴?」
飛雄馬は帽子をかぶり直して、どこかぼうっとした面持ちでキャッチャーマスクを外しもせず立ちすくんでいる彼の名を呼び、その顔を仰ぎ見る。
そこでようやく伴は飛雄馬が近くまで来ていることに気付いて、キャッチャーマスクを額まで上げ、ニコッと笑んだ。
「おう、星。どうした、喉でも乾いたか」
「………」
飛雄馬は伴からふと、視線を逸らして再び彼を見上げる。
「怖いのか」
「怖い?何がじゃい。この伴宙太を捕まえて怖いのか、とはどういう了見じゃあ」
「仮にも、きみとは高校時代からの友人だ。自分ではうまく隠しているつもりかもしれんが、伴が明日の一軍戦に対し変に力んで緊張しているのが見てとれる」
「あ………う………」
図星であった。伴はしどろもどろとなって、何か言葉を紡ごうと口を動かすもそこから漏れ出るのは奇妙な呻き声ばかりで、飛雄馬の抱いた半ば疑惑に過ぎなかった思いを確信のものとさせた。
「…………」
「な、なぁに!星が心配するほどのことではないわい。ちっとアガッとるだけじゃい」
「伴、手を貸せ」
「手?」
「いいから」
飛雄馬は自身もまた、右手にはめたグラブを外し脇に挟み込んでから、納得いかぬままに困惑したような表情を浮かべつつキャッチャーミットを外す伴を見据える。
そうして、飛雄馬は伴の大きな左手を自分の両手でそうっと握ってやってから、「きみなら大丈夫だ。絶対に。おれの球をずっと受け留め続けてくれた伴の実力はおれが保証する。だから、精一杯頑張ってきてくれ」と優しく、そして力強い言葉を掛けた。
「………!!」
まさかの事態に伴は言葉を失う。
いつも励まし、慰めてやる立場だったのは伴の方で、それが彼自身当たり前のようになっていたし、これからもそれはずっと変わることはないのだと思っていた。
それが今、こうして逆転しようなどとは夢にも思わず、伴は呆然となった。
「………こんなに手を腫らして、明日の試合に影響しないといいが、念のため帰ったら手を冷やそう」
言いつつ、飛雄馬は手を離すと伴に背を向ける。辺りは薄暗く、他の二軍選手の先輩方が宿舎に帰ってからもうだいぶ時間が経っていた。
「星」
「話なら帰りながら聞こう。伴も早く防具を外せ」
「明日、捕手もそうだが打者としても星に褒めてもらえるような試合をしてくるつもりじゃい」
「……ふふ、おれにか。それならおれではなく長島さんや王さん、それに川上監督に褒めてもらえるように頑張れ。二軍選手のおれに褒めてもらえて満足しているようじゃ高が知れとるぞ」
飛雄馬は帽子を取ると、汗に濡れた髪を少し風に晒してから小さく微笑む。夕陽がグラウンドの土に大きな二人の影を映し出す。
「おれは、星、お前に着いてきた。だから、お前にだけ褒めてもらえたら、認めてもらえたら、それでいいんじゃい。ONの二人も監督さんも素晴らしい選手で指導者なのはおれも十分分かっちょるが、おれは──」
「…………とにかく、明日は変に考え込まずにいつも通りいくことだ」
「おう……ふふ、星にまじないをしてもらったからのう。勇気百倍じゃい」
ぱあっと周りを明るく照らすような満面の笑みを浮かべた伴から飛雄馬は視線を外して、再び帽子をかぶると一人グラウンドを出ていく。もうすっかり夜の闇が見慣れた景色を覆いつくしている。
「ほ、星!」
追いすがる伴の声に立ち止まることなく飛雄馬は先を行く。
「星!」
汗の染みたユニフォームに触れる夜風が飛雄馬の肌を冷たく刺す。伴は二軍選手に落ちるような醜態は晒していない。
それなのにおれに付き合い、こうして相手をしてくれているに過ぎないのだ。
それに甘えてしまっているのは自分の方だ。
「星、待て!一人で帰るやつがあるか」
息せき切らし走ってきた伴が飛雄馬の手を取る。かいた汗と夜風のせいで冷たくなってしまった飛雄馬の指は伴の掌によってじんわりと熱を取り戻す。
「伴、明日、応援してるぜ」
「………おう!この伴宙太、やると決めたからには最後までしっかりやり抜くわい!」
飛雄馬の手を強く握り締めて伴は笑う。
その笑顔が眩しくて、握られた手が暖かくて飛雄馬は帽子のつばで顔を隠すようにしながら無理に笑顔を作ってみせる。
そんな飛雄馬の帽子のつばから覗いた口元が、泣くのを我慢しているときのようなそんな唇の動きをしたように思えたが、伴は言葉を掛けることもなく、ただ代わりに、握った彼の冷たい指先に己の体温を分け与えた。