揶揄
揶揄 ふう、とひとつ大きな溜息を吐いたところで後ろから星と名を呼ばれ、飛雄馬は額に浮いた汗を拭うために取った帽子を慌ててかぶり直す。
「今日も好調だったな」
試合が終わり、ロッカールームに帰るべく廊下を歩いていた飛雄馬に笑顔を湛え、声をかけてきたのは他でもない巨人軍の監督・長島であった。
「いえ、長島さ──監督のアドバイスのおかげですよ。いつもありがとうございます」
背後から歩み寄ってきた長島に飛雄馬は深々と頭を下げ、自身もまたはにかんだような笑みを浮かべる。
「ははは、ご謙遜。今日の勝利は星の努力の賜物だろう。それに長島さんでいいぞ。星とおれの仲じゃないか」
豪快に笑い声を上げ、長島は飛雄馬の背中を大きな掌で叩くと今日はしっかり休めよと言い残し、去っていく。はい、お疲れ様でした──去りゆく背に再び頭を垂れながら飛雄馬は言葉を紡ぎ、明日も頑張らねば、あの人のために、と決意新たに足を踏み出した。
すると、また背後からこちらとの距離を詰める者の気配を感じ、まだ誰かグラウンドに残っていただろうか、とそんなことを考えながら少し歩調を緩める。
明日の調整でもしていたのだろうか。
「飛雄馬くん」
思案しつつ、ゆっくりと廊下を歩いていた飛雄馬だったが、ふいに名前を呼ばれたことでギクリと身を強張らせた。自身の名を、こう呼ぶ人物を飛雄馬はひとりしか知らないからだ。
本日の試合の対戦相手であるヤクルトの背番号3を背負った彼である。
年の離れた姉の夫である、花形満。
何をしに来たんだと尋ねたいのを堪え、飛雄馬は顔をやや引きつらせながら、ああ、花形さんか、と隣に並んだ彼に微笑んだ。
「ひどい目に遭わせてくれたな。帰ったら明子に叱られてしまうよ」
やれやれと首を振りながら帽子を取り、花形はきみもしばらくは安泰だなと彼独特の口角を吊り上げる、不敵な笑みを見せた。
「そうは言いながら花形さんはあの球も攻略しつつあるんだろう。いつもと打撃のフォームが違っていた」
「なに、思いついた方法は試してみるさ。頭であれこれ考えていたところで実際にやってみなければ、ね」
「…………」
「そんな顔をしないでくれたまえ。安泰だと言ったのはぼくの本心さ。きみのせいで夜も眠れない」
フフッと声を漏らした花形を睨み、飛雄馬はそれを伝えにわざわざ?と低い声で尋ねる。
すると、花形は口元を笑みの形に歪め、何か、期待しているのかい、と反対に飛雄馬に問いかけた。
「……あなたと言葉遊びをしている暇はない。失礼する」
くるりと踵を返し、足早に場を去ろうとする飛雄馬の腕を花形が掴んだ。離してくれ、と声の響く、やや薄暗い廊下で飛雄馬は語気を強める。
「離さない、と言ったら?」
ふざけるな、そう叫びかけた飛雄馬の口は花形の唇によって塞がれ、やや彼の方に向けた体をそのまま腕の中へと抱かれた。
「っ……っ、う」
固く噛み締めた飛雄馬の歯列を花形の舌先がなぞる。
口を開けと、自分を受け入れろと花形の舌は語る。
思惑通りにいくと思ったら大間違いだ、と飛雄馬は眉間に皺を寄せ、花形から逃れるべく身をよじった。
「ああ、お久しぶりです。王さん──」
「なっ、あ……!」
しまった、と飛雄馬が花形の紡いだ言葉が嘘であったと気付いた刹那にはすでに、彼の舌は口内へと滑り込んでいた。強引に絡んだ粘膜は熱く、頭の芯を蕩けさせるには十分で、飛雄馬はぼやけた思考の中で抵抗する気力もないままに花形を受け入れる。
背中に回されていた花形の掌が腰を滑り、尻を撫でた。
「ふ……っ、あ……」
「……さて、その気にさせておいてすまないが、このあと明子と食事の約束をしていてね」
言うなり、花形はきつく抱いていた腕の力を緩め、いつの間にか床に落ちていた帽子を拾い、自分の頭に乗せると、また明日と笑顔を見せた。
「あなたとっ……いう人は……っ、」
「フフ、続きがお望みならきみの口からそう言いたまえ。明子にはなんとでも言えるさ」
「誰が、言うか……っ!」
涙の浮かんだ瞳を花形に向け、飛雄馬は手の甲で唇を拭う。
「さっきの試合の返礼だよ、飛雄馬くん。きみの投げる球のせいでぼくは夜も眠れないと言ったね。今夜はきみが眠れぬ夜を過ごすといい」
「くっ……」
おやすみ、飛雄馬くん。
花形はにやりと例の笑みを見せ、飛雄馬に背を向けると廊下を引き返していく。
ふらふらと飛雄馬は壁に背を預け、くそっ!とまんまと花形にしてやられた情けない己自身に対し、声を上げた。しかして、言葉とは裏腹に飛雄馬の下腹部は先程与えられた口付けのせいで熱を帯び、痛みを覚えるほどにユニフォームの前を押し上げている。
落ち着くまではこの場を動くこともままならない。
花形はこのあと、どんな顔をしてねえちゃんに会うのか。平然と、何事もなかったかのように振る舞うのだろうか。体が火照って、全身から汗が滲む。
なんてことをしてくれたんだ、花形──。
飛雄馬は少し、廊下を歩いた先にあるトイレの扉を開け個室へと身を潜めるとズボンのベルトを緩め、中から完全に立ち上がった男根を取り出した。
「っ、っ……」
外気に触れたそれ、はひくひくと戦慄き、鈴口には先走った体液がぷくりと球を作っている。
飛雄馬は下から包み込むように左手を男根に添え、ゆっくりと上下に擦りながら刺激を与えていく。
「あっ……う、ぅ……」
先走りに濡れた指と掌が男根を擦るたびに音を立て、飛雄馬の呼吸も次第に速く、荒くなっていった。
「はぁっ、は…………ん、ん……花形、さっ……」
声が外へと漏れぬよう右手で口を塞ぎ、飛雄馬は取り憑かれたかのごとく、一心不乱に快楽を求め男根を擦る。しかし、足りないのだ。
ここで達し、射精したところで体の奥の疼きは治まらないと知っている。
いいや、それでも、疼きは抑えられないとわかっていても、おれはここを出て、寮に帰らなければならないのだ。
「あアッ、いっ…………!」
どくっ、と刺激を与えていた男根から熱い白濁液がほとばしり、便器の中へと音を立て落水する。
男根の脈動に合わせ鈴口からは体液が吐き出され、飛雄馬は肩で大きく呼吸をすることを繰り返す。
全身は汗に濡れ、顔は紅潮しているのかやたらと暑さを感じる。
「………………」
なんと、己の姿の間が抜けて哀れなことだろう。
飛雄馬は小さく笑みを溢すと、トイレットペーパーを適量千切り、濡れた男根を拭う。
水気で溶けた紙が男根へと貼り付き、それがまた一段と惨めで収まったはずの義兄への怒りを沸き上がらせた。
拭った紙を便器に投げ込み、近くにある水洗レバーを撚ると体液も何もかもがすべて水流に押し流され、辺りはしんと静まり返る。
もしかすると、ねえちゃんと食事にと言ったことも嘘なのかもしれない。
花形は、今日の試合でおれが放った球を打つため、今なお練習に励んでいるのかもしれぬ。
何が本当で、何が嘘のハッタリなのか。
飛雄馬はユニフォームの乱れを正すと個室から出て、トイレから廊下へと足を踏み出す。
ロッカールームへの道のりを歩みながら飛雄馬はじわりと瞳に滲んだ涙を拭うと、花形の触れた唇をきつく引き結び、明日の試合も必ず勝ってやる、と見上げた天井、そこに薄暗く光る蛍光灯を睨んだ。