居場所
居場所 「星さんは、自分が何のために生きているのか考えたことがあって?」
「えっ?」
お互いが腰を下ろしている浜辺の波のさざなみを、ぼんやりと聞いていた飛雄馬は、隣に佇む少女──日高美奈が唐突に、そんな言葉を口にしたために、間の抜けた声を上げてしまった。
「…………」
しかし、至って彼女は真面目に、真剣に尋ねているようで、その凛とした瞳は真っ直ぐに己を見つめてきており、飛雄馬は、ええと、と一度、顔を俯けてから、ふと、思い立ったように顔を上げると、美奈さんは?と訊き返した。
「美奈は、星さんに会うために生まれてきたのかもしれない、と最近は思うの」
彼女はぽつり、呟くと、何やら自身の手元に視線を落としてから、星さんは?と再度同じことを尋ねた。
「おれに、会うためですか?」
「そう。あなたのような人に。美奈は、自分自身の運命を呪ったこともあります。だけど、思い直して沖先生の診療所を訪ねて今がある……それも全部、あなたに会うためだったのかもしれないわ」
「美奈さんが、自分の、運命を?」
先程から目まぐるしく変わる話題に着いていくのがやっとで、飛雄馬は彼女が突然呟いた言葉に、驚き、目を丸くすると、それは、どういう意味です?と訊いた。けれども、彼女は、口を噤んだままで、それきり飛雄馬は何も訊けず、ただ辺りには、打ち寄せる波の音が響き渡るばかりであった。
飛雄馬はそこで、沈黙を打ち破るように、ぽつりぽつりと先程の質問に対しての返答を語り始める。
おれが何のために生きているか、そんなことは今まで考えたことがなかった。
何のため、自分のため、父のため、姉のため……。
おれの人生は、誰のもので、何のためにあるのだろう。ふと、立ち止まって考えてみれば、何もないのだ。カージナルスのオズマから、お前は野球人形だと言われてから、違う、と反抗し、アイドルとの遊びに興じたこともあった。ひとり暮らし──厳密には姉とふたり暮らしだが、親元を離れてみたりもした。
しかし、本当に、これでいいのかという思いもある。
おれは、何のために生きているんだろう。ごめんなさい、答えになってなくて……。
そうまで語ったところで、隣に座る彼女が口を開く。
「星さんの人生は、星さんだけのものだわ。誰に何を言われても、自分がやりたいこと、好きなことを貫くべきよ」
「おれのやりたいこと、ですか……」
「野球は何故、始められたの?」
「野球……父にそう言われたから、でしょうか。でも、ずっと野球も、父も嫌いだった。けれど、当時高校生の王さん……王選手に出会って、野球は素晴らしいものだとわかって……おれは野球をやると決めたんです」
「…………」
「高校で伴、あの、一緒に診療所に行った彼と出会って、甲子園にも無事出場することができて……紆余曲折ありながらもやっと巨人に入ることができたんです。でも、それで終わりじゃなかった」
あれ、何を言おうとしたんだっけ、と飛雄馬は首をひねり、彼女を一瞥する。
「続けて、星さん。もっと聞きたいわ、あなたの話」
「プロの世界ではおれの投げる球なんてまったく通用しなくて、そこで再び、挫折を味わって……ふふ、嫌だな、こんな話を、するつもりじゃ……」
「……野球をするのは、おつらい?」
「つらい……どう、でしょう。楽しいかと言われたら返答に困ってしまう。おれにはそれしかないから」
「そうかしら。美奈はたくさんの可能性を星さんは秘めていると感じる。素直で、優しくて、繊細で……勝負の世界に身を置くのは、あまりにつらいのではないかしら」
「……そう、言ってくれる人がひとりでも、いや、そう言ってくれたのは美奈さんだけです。皆、おれには野球しかないのだ、と。おれの居場所は球場にしかないんです」
「…………」
「おれも、あなたに、美奈さんに会うために生まれてきたのかもしれない。あなたに出会えて、さっきは、自分の居場所は球場にしかないと言いましたが、新たな居場所が、できたように思う」
「海に、入らない?」
「えっ?海にですか?」
立ち上がるなり、靴と靴下を脱ぎ、砂浜にひとつずつ足跡を付けながら波に素足を晒した彼女を目で追いつつ、飛雄馬は小さく鼻を啜る。
足首までを波に浸らせた彼女が振り向いて、こちらを見つめているのがわかる。その表情は、空高く昇った満月のせいで陰になり、読み取ることができない。
飛雄馬もまた、腰を上げると、靴と靴下を脱ぎ捨て、スラックスの裾を濡れないように捲くってからこの時期にしては些か冷たい、海の水に足を浸けた。
海か、思い返せば、海に来たことも生まれて初めてかもしれない。自宅近くを流れる隅田川は、海水が混ざり込んでいるが、白い砂浜と、打ち寄せる波と、どこまでも続く地平線を目の当たりにしたのは、きっとこれが初めてだろう。
関東を離れたのも、台湾以来これが初めての経験で──。
「世界は広いわ、星さん。美奈は、あなたとずっと一緒にはいてあげられないけれど、これだけは覚えていてほしいの」
「どういう、意味です?」
「…………」
「美奈さん?」
波が足を撫で、そして、沖へと足元を攫うように引いていく。
「海は好き?」
「う、海ですか?美奈さんは?」
「美奈は、つらいとき、悲しいとき、よくここに来るんです。広くて大きな海を見ていると、自分なんてとてもちっぽけだと感じるんです。すべての生命がここから誕生して、それぞれが環境に応じた進化を遂げて今がある。とても素敵なことだと思うの」
「…………」
彼女の言うことは、とても哲学的で、難しくて、高校中退の自分は時々、着いていけなくなる。
なぜ、何のために生きている?なんて尋ねたんだろう。そんなことを考えつつ生きている人間が、この世の中に果たしてどれほど存在しているんだろう。
「だから星さんには迷ったとき、悩みがあるときには海に来て、波の音を聞いてみてほしいの」
「そう、します……」
へらりと飛雄馬は笑って、どんな表情を浮かべているのかわからない彼女の顔を見つめる。
丸い月が、彼女の頭上にあって、その光が海面を静かに照らしている。
彼女は何も言わない。波の音だけがおれたちを包む。 一生、夜が明けなければいいのに、とその時、ふと、そんなことが頭をよぎる。そうすれば、彼女とずっと一緒にいられるのに、と。
波の音を耳にすると落ち着くのは、母親の胎内にいたときに聞いていた音と似ているからだと聞いたことがある。
無言の状態が長く続いているのに、不思議と焦燥感に駆られることもなく、不快にもならないのは、きっとそのせいだろう。
飛雄馬は、帰りましょう、と突然に口を開いた彼女に従うようにして浜辺へと引き返す。 
振り返れば、月は微動だにせぬまま、海は、変わらず目の前に広がっている。
また、連絡してもいいですか、と遠慮がちに尋ねた飛雄馬に、彼女は、ええ、と答え、優しく微笑んだ。
飛雄馬も、つられるようにして笑いながら、明日なんてこなければいいのにな、と、再び、そんなよからぬことを思った。