朋友
朋友 「伴の将来の夢ってなんだ?」
春先ではあるものの、日が落ちると途端に肌寒く感じるこの時期。
青雲野球部部室にて星飛雄馬は汗に濡れ、泥で汚れたたユニフォームを脱ぎながら、隣で同じく着替えを行っている伴宙太にそんなことを尋ねた。
他の部員たちはとっくに引き上げており、伴と飛雄馬のふたりは部室の戸締まりをしっかり行い、部長の天野先生に職員室まできちんと鍵を返すという条件で今の今まで捕球練習を行っていたのである。
「は?」
藪から棒に、なんじゃい、と続けつつ、伴は適当に脱ぎ散らかしたユニフォーム類を鞄に押し込み、そういう星はどうなんじゃい?と訊き返した。
「おれの、夢か。語るまでもないと思うが」
くすくす、と笑み混じりに、飛雄馬は脱いだユニフォームを汚れているとはいえ、皺にならぬよう綺麗に畳むと、これまた伴と同じように鞄へと仕舞いこむ。
「ん、そ、そうか……巨人の星になることじゃったな」
「幼い頃は野球狂いのとうちゃんに嫌気が差し、貧乏暮らしから抜け出すためにも他の道を考えんでもなかったが……なんて、おれの話はいい。伴はどうなんだ?」
「そりゃ初耳じゃい。星にも違う道を考えた時期があったとは……」
「野球をやることが、おれがあの家にいられる理由でもあったし……いや、いい。伴の話を聞かせてくれ」
制服のシャツとスラックスに身を包みながら、飛雄馬は伴に問いかける。
おれか、おれは……と伴は続け、部活が始まる前に無造作に脱ぎ捨てたことが災いし、皺だらけになってしまっているシャツに腕を通す。
「おれも星と似たようなもんじゃい。おれが産まれる前から親父は伴自動車工場の社長じゃったしな。他に兄弟姉妹がおるわけでもないし、親父の会社はおれが継ぐんじゃろうと誰に言われるでもなく思っとったのう」
「柔道をなぜ始めようと?」
教科書や学用品を入れた鞄と、汚れたユニフォームやスパイクを入れた鞄のふたつを手に飛雄馬は部室の出入口へと向かう。
「な、なんじゃい。尋ねておいてそれはないじゃろう」
「ああ、すまん。そういうつもりじゃなかったんだが……あまり遅くなると天野先生はもちろん伴の屋敷のお手伝いさんたちにも迷惑がかかると思って」
「…………」
「道中、聞かせてもらうさ。途中までは一緒だろう」
伴と共に部室を出て、飛雄馬は部屋の鍵を締めると、さっきの話──と隣を歩く彼に振る。
「笑うなよ」
「え?」
そう、前置きをして、伴はぽつりぽつりと語り始める。幼い頃は体が弱く、体調を崩してはよく寝込んでいたこと。そんな中、お手伝いさんのひとりに手を引かれ通院先の町医者に行った際、たまたま柔道教室のポスターが貼ってあったこと。
それに激しく感銘を受け、親父に直談判したこと。
渋々柔道をやることを認めてくれた親父が、みるみるうちに柔道を通し、体格的にも精神的にも成長していく自分を見て掌を返したこと。
柔道をしている間だけは、煩わしい親父の顔を見ずに済んだこと。けれども、思い込みが激しく人の話を聞かない親父のことを嫌っているわけではないこと。
小学生で県大会一位、中学で全国制覇と相成り、それから名門青雲入学し、青雲柔道部を総体優勝に導くため、はたまたオリンピック選手を輩出するべく尽力してきたこと。
恥ずかしそうに、時折自虐的な笑いも交えつつ語る伴の横顔を隣を行きつつ飛雄馬は見つめる。
そんな柔道を、すっぱり辞めてしまってもよかったのか?尋ねようとして、飛雄馬は伴が続けた言葉に、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「じゃが、星と出会い、きさまを通して知った野球の素晴らしさ、厳しさ、そして楽しさにすっかり心を奪われてしまってのう。今だから明かすが、野球の応援団長をやっていたのも半分は親父の命でな。そうせんと柔道部を潰すと言われてしまっては、逆らわんわけにもいかんじゃろ」
ワハハハ、と豪快に伴は笑い飛ばし、今のおれの夢は星の球をしっかり捕れるようになることじゃい、と続けた。
「伴……」
「なに、柔道に未練はないわい。大学から声もかかって……おっと、柔道はもういいんじゃい。今の二年生たちも将来有望なのはたくさんおるからのう。しかし、星の球を捕れるのはこの伴宙太ひとりよ」
「…………」
「じゃから星は安心して野球をせい。おれの夢や親父のことで何ひとつきさまが気に病むことはない」
「ちゃんと帰ってテスト勉強しろよ。赤点じゃ野球どころじゃないからな」
「わ、わかっとるわい!」
涙が溢れそうになって、飛雄馬は駆け出す。
「また明日……」
飛雄馬は振り向きもせず、部室の鍵を所持したままの伴を置き去りに、家路を急ぐ。
今まで、あんなことを言ってくれた人間はいなかった。星の球は速すぎる。もっと加減をしてくれ。
そう言われてしまっては不本意ながらも力を抑えるしかなかったし、球を捕り損ない、指を折った少年草野球のチームメイトの家に、とうちゃんと頭を下げに行ったこともあった。
それでもとうちゃんはおれを褒めてくれたし、おれの球を捕れない相手が悪いのだ、とずっとそう思っていたのに。
飛雄馬は青雲高校から自宅まで、一度も休むことなく駆け抜け、到着した先で引き戸を開ける。
おかえりなさい、と優しく出迎えてくれる姉と、新聞から顔を上げることなく煙草をくゆらす父の姿に、飛雄馬は何も言えなかった。
夕飯の用意がされている食卓に着きつつ、飛雄馬は早く明日になってくれないだろうか、とそんなことを思う。泣いてしまいそうになって思わず駆け出してしまったが、あんなところに置いてけぼりにされて、伴は怒るだろうか。明日、会って謝らなければ。
「学校は楽しい?」
「え、うん」
温め直した味噌汁を椀に注ぎつつ、姉・明子が飛雄馬に尋ねる。
「ねえさん、高校に行きたかったから飛雄馬が羨ましいわ。うふふ……」
「…………!」
ああ、そうだ。ねえちゃんは、うちが貧乏だから高校に行けなくて──浮かれていてはいけない。
おれは、とうちゃんとねえちゃんの夢を、叶えなければならない。余計なことは考えてはだめだ。
でも、三年生の伴が卒業したあとのことは…………。
飛雄馬は首を振り、明子から渡された味噌汁入りの椀を受け取る。
その椀のほのかな温かさが、冷えた指先に心地よくて、飛雄馬はありがとう、と僅かに顔を綻ばせつつ、明子へ頭を下げた。
すると、ここに来て初めて口を開いた父・一徹の、伴とはうまくやっていけそうか?の問いに、飛雄馬は一瞬、躊躇ったものの小さく、うん、と頷くだけに留めた。