逢着
逢着 付き添いましょうか、と言う看護婦の申し出を断り、飛雄馬は三角巾で吊られた不自由な左腕を庇うようにして厚手のカーディガンを羽織ると病室の外へと出た。
彼が救急車で球場から病院に担ぎ込まれてからもう、1週間が過ぎようとしている。
ようやく、投球で痛めた左腕の腫れも引き、頓服として出されている痛み止めに夜中にうなされながら脂汗を浮かべ、手を伸ばすこともなくなった。
──この日の午前中は姉の明子が面会に訪れ、飛雄馬の顔を見るなり、しばらく面会謝絶になっていたのよ、と彼に語って聞かせた。
会えて良かったわ、と涙ぐむ明子の顔は、最後に会ったときよりも少し、やつれているように飛雄馬の目には映った。
色々、尋ねたいことはあったものの、来てくれてありがとう、とだけ返し、飛雄馬は、ねえちゃんも忙しいだろうから、もういいよ、と彼女から顔を背けた。
また来るわね、皆心配していたわ、と明子は言うと、持ち寄った日用品や果物籠を残し、名残惜しそうにしながらも病室を出て行った。
ねえちゃんの言う、皆とは一体誰のことなんだろうか。
ねえちゃんは花形を満さんと呼んでいたが、ふたりの仲はそこまで進んでいたのか、と飛雄馬が薄いレースのカーテンの引かれた窓の外へと視線を遣りつつ考え込んだところに、昼食が運ばれてきて、それを食べ終えたのがつい1時間ほど前になるか──。
体慣らしがてら、外を少し散歩するつもりで部屋を出た飛雄馬は、病室の扉の前に立っていた長い黒髪を結うこともせず、背中に流していた女性とぶつかりそうになり、あっ!と思わず声を上げた。
「あ……!」
お互い、まさか扉の先に人がいるとは思いもよらず、面食らったというのが正直なところで、女性も手にしていた花束を思わず取り落とす。
飛雄馬は、驚かせてすみませんと謝りながら、右手で花束を拾い上げ、笑みを浮かべつつ黒髪のサングラスをかけた女性にそれを手渡そうとした。
「それは、星さんに……」
「え?」
飛雄馬はそこでようやく、目の前の彼女がどこの誰であるのかを思い出す。
かつて新宿で名を馳せていたいわゆる、スケバンと呼ばれていた存在。
新宿で初めて出会った彼女──お京。
トレードマークであった金髪を黒く染め、顔を隠すようにサングラスをかけており、服装もあの頃のような体の線がはっきりと分かる挑発的なものではなく、大人しめな年相応の格好をしていたために、一瞬、誰だか分からなかったが、この声は忘れようもない、彼女だ。
「そ、の……」
「あ、っと、いつ、東京に?」
お京──京子が何やら恥ずかしそうに顔を俯けぎみに口ごもるため、飛雄馬も釣られ、辿々しく訊き返した。
ヤクザの組長から逃れるために関西に高飛びするのサ、とオールスターに向かう新幹線の中で話してくれたきり、今頃何をしているのだろうかとは思っていたが、と飛雄馬は、雰囲気の丸っきり変わってしまった彼女にかける言葉が見つからない。
「今朝、です。球団事務所に電話して尋ねたらここだ、と教えてくれて」
「そう、か。それであの時、一緒だった彼女たちは元気かい」
「お陰様で、住み込みの給仕の仕事を見つけて頑張って……ます」
「……フフ、それはよかった。花束、ありがとう」
飛雄馬は右手で花束を抱え、小さく頭を下げる。
「お元気そうで、嬉しい。新聞で星さんが球場で倒れたなんて見出しを見たときはどうしようかと」
言うなり、京子はサングラスを外すと、目元を指で拭う。 まさかの涙に飛雄馬はぎょっとなり、と廊下を行き交う入院患者や見舞い客、看護婦らの目を気にして、外に出ないか、と彼女を誘った。
「いや、あたし……いえ、私は、星さんの顔が見れただけで」
「…………ダメかい?」
飛雄馬がポツリと呟いた一言に京子は顔を赤らめ、小さく頷く。
本当に彼女が新宿で番を張っていたスケバンお京なのだろうか、と飛雄馬は京子の意外な一面にクスリと笑んで、廊下を少し行った先にあるエレベーターに乗り込むと、1階のボタンを押した。
寝たきりが続いていたせいか筋力がだいぶ落ちているようで、歩くのも覚束ない。
しかして、それを京子に悟られぬよう飛雄馬は気丈に振舞い、病院の玄関から外に出た。
久しぶりに直に浴びる太陽光は眩しく、目に染みた。
けれども不快ではなく、心地よささえ感じる。
飛雄馬は病院の裏庭に当たる、日当たりの良い広場のようなところにまで少し歩いて、端の方に置かれていたベンチに腰を下ろす。
昼食後の麗らかな午後、飛雄馬と同じように散歩に出た入院患者らの姿もちらほら見受けられ、心が和む。
こんなに穏やかな時間を過ごすのは、果たしてどれくらいぶりだろうか。
巨人に入団してからは毎日、汗にまみれ、泥に汚れ、魔球開発に明け暮れ……。
飛雄馬は左腕をさすりながら、唇を引き結ぶ。
と、隣に少し距離を置いて座った京子が痛みますか?と尋ねてきたために、大丈夫だ、と返した。
「あまり、無理をせずに……大きな、怪我をなさったんですから」
「ふふふ、京子さんがそんな話し方をするのはらしくない。普段通りでいいのに」
「…………!」
かあっ、と京子は頬を染め、飛雄馬から顔を背けると、手にしていたバッグから煙草を取り出し、その中の1本を咥えた。
彼女の気分を落ち着かせる手段と言うのが喫煙なのだろう。
それは初めて出会ったときからそうで、わざわざ人の生き方や成すことに口を出すことはないと考えていたが、わざわざ髪を黒く染め、今は住み込みの給仕として真面目に働いていると言った彼女がなぜ、と言った疑問と怒りの感情がふつふつと湧いて、そう思ったときすでに飛雄馬は京子の口から煙草をむしり取っていた。
「女性が、こんなものを吸っちゃいけない!体に毒だ!」
「…………!」
「将来、いつか結婚をしようと考え、子どもを望むのであれば、こんな……」
飛雄馬は眉根を寄せると、煙草を握り潰し、足元に落とすや否や履いていたサンダルで踏みにじった。
「私、結婚をするつもりはありません。誰とも」
「なぜ?」
飛雄馬は目を伏せ、淡々と語った京子の顔を見つめ、理由を尋ねる。
「…………忘れられないんです」
その言葉に、ドキッと飛雄馬の心臓が跳ねた。
「…………」
「関西で、あなたのことを忘れようとお酒もやめて、仕事に打ち込み、一生懸命頑張りました。でも、星さん……あたし」
「っ…………!」
飛雄馬を見据えた京子の長いまつ毛には涙の雫が光っている。
飛雄馬は額にじわりと汗をかき、その場に立ちすくんだまま身動きが取れない。
京子の薄く口紅の塗られた品の良い唇が、星さんと飛雄馬を呼ぶ。
ああ、なんと答えてやればいいのか。
おれは、誰かを幸せにすることなんてできやしない。
左腕だって、今後、以前のように動かせるようになるのかどうかわからないのに──。
「星くん、こげんとこにおったとですか」
「あ、っ……!」
ふいに場の静寂を切り裂いた熊本訛りに、飛雄馬はビクッ!と体を震わせ、声のした方に顔を向ける。
すると、笑みを浮かべた左門豊作がそこには立っており、病室を訪ねたばってんが、姿が見えんけん、探しましたばい、と続けた。
「…………」
「ん?あ、あなたは、もしや!」
左門は飛雄馬と、何やらベンチに腰掛けている女性の間に流れていた不穏な雰囲気を察したか、ふと彼女の顔に視線を遣った。
星くんにお姉さん以外の女性が訪ねてくるなんて珍しいこともあるもんたい、となんの気なしに彼女の顔を見た左門にとっては青天の霹靂であった。
まさか、あれきり関西に行くと言って行方しれずになっていた初恋の女性にこんなところで会うなんて、と。
左門はふらふらと京子の隣に腰を下ろし、独特の熊本訛りで彼女に話しかけた。
当たり障りなく返事をする京子と左門の姿を見遣りつつ、飛雄馬は花束を手にすると、そっと音もなくその場を離れる。
「星さん!」
飛雄馬は背後からかけられた声に振り返ることもせず、広場に植えられている様々な落葉樹が落とした枯れ葉を踏みしめつつ歩く。
少し肌寒くなってきたようで、空を見上げれば、先程まで煌々と頭上で高く輝いていた太陽が雲に隠れてしまっている。
「…………」
きっと彼女は、左門の子を産むのだろう。
そうして、彼に愛され、幸せに暮らすのだろう。
皆、それぞれ前を向き、先へと進んでいく。
おれが今後すべきことは、果たして何なのだろう。
飛雄馬はすっかり冷えてしまった三角巾の中、包帯を幾重にも巻かれた左腕を、花束を握り締めた右手でさする。
そうして、病院の玄関に差し掛かると、大きなガラス製の扉を開け、支え続けてくれた男性に礼を言ってから、中へと身を滑り込ませ、ツンと痛んだ鼻の奥の痛みをごまかすように、息を大きく吸い込んだ。