補習
補習 来客を告げるチャイムが鳴り、自室で眠りこけていた伴はその音で目を覚ました。
部屋の中は既に真っ暗になってしまっている。
夕食を食べ、眠ってしまっていたらしい。
風呂に入って明日の朝練に備えなければ。
しかし、今時分、我が家を訪ねてくる人物に心当たりなどないが。親父の知り合いだろうか。
伴は広い屋敷の中で耳を澄まし、玄関先で家政婦が訪れた人物と話している声を聞く。
どうやら性別は男のようであり、年はまだ若い。
一体全体、何の話をしているのか。内容までは聞こえてこない。
聞き耳を立て、どうにか会話の内容を聞き取ろうと奮闘する伴であったが、その内に玄関の引き戸が閉まる音が聞こえ、慌てて自室を飛び出すと長い廊下を駆けた。
「あら、坊ちゃん、お目覚めでしたか」
玄関先で出会い頭にそう言って微笑んだのは、伴がほんの乳飲み子の頃から屋敷に仕えてくれている初老の家政婦で、手には何やら数学の教科書を所持していた。伴は彼女が手にした教科書でようやく今し方、自宅を訪ねてきた人物が誰であったかを察すると、そのまま玄関で下駄を突っかけ屋敷を飛び出し、訪問者の後を追う。
屋敷を出て、彼──が右に行ったか左に行ったかもわからぬ状態で儘よとばかりに走り出し、大きな声で名前を呼ぶ。まだ遠くには行っていないはずだ。
「おうい、星──」
立ち止まり、叫んだところで自転車の急ブレーキをかける音が住宅街に響き渡って、ようやく伴は親友である彼──星飛雄馬との再会を果たす。
「起きたのか」
「星、わざわざすまんのう。教科書を届けてくれたんじゃろう」
古ぼけた自転車に跨がり、こちらを見つめる飛雄馬を前に伴は頬を緩ませ、届け物をしてくれた彼を労った。
「いや、こちらの台詞だ。持ち帰ってしまいすまない。確認不足だった」
この日、伴が先週行われたという数学の小テストで悲惨な点を取ってしまったがために、飛雄馬が自分でよければ、と図書室にて勉強を見てやっていたのだった。PTA会長の息子ということで、ある程度まではお目溢しをしてもらっていたが、これでは卒業も危ういとお叱りを受けた伴は、教師の厚意から特別に補習をしてもらえることになったのだ。
何でも補習のテストは中学時代の応用問題ばかりという話で、それなら、と飛雄馬も指南役を買って出たのである。その際、使用した中学時代の教科書を誤って持ち帰ってしまったがために、長屋から自転車に乗り、伴が住む高級住宅街まで届けに来た、というのが事の顛末であった。
「届けに来てもらってなんじゃが、その、明日でも、よかったんじゃぞい……」
「ふふ、テストは明日だろう。きみがよくてもおれが困る。うちでおれの球を捕れるのは伴だけだからな。きみが練習に来てくれんことには始まらん」
「……気をつけて帰るんじゃぞい」
「ああ、ありがとう。おやすみ、また明日」
大きな声で名前を呼んだことを咎めるでもなく、颯爽と自転車を漕ぎ、後ろを振り返りもせず去っていく飛雄馬の後ろ姿を見つめ、伴はいつまでもその場から動けずにいた。お世辞にも上等とは言えぬ自転車は、一度漕ぐごとに奇妙な音を立てている。
油を差すこともせず、慌てて近所から自転車を借りてここまで来てくれたのであろう。
毎日毎日、おれを相手に球を投げ、ただでさえ疲れているだろうに。星はそんなことはない、大丈夫だ、とそう、言ってくれるだろうが、捕手などろくに務めたことのない、野球のルールなども朧気にしかわからぬおれを前に、嫌な顔ひとつせず星は根気強く付き合ってくれる、それだけで精神的にも肉体的にも疲弊しているに違いないのに。
「…………」
点々と等間隔で灯された街路灯の下を行く、飛雄馬の姿が見えなくなってから伴はようやく自宅への道のりを、とぼとぼと引き返す。
帰宅し、出迎えてくれた家政婦から教科書を受け取ると伴は何やら声をかけてくれた彼女に対し返事もせず、自室へと引き篭もった。
そうして、明かりを付けてから何気なく開いた教科書の一ページ目に挟んであったメモ紙に書かれた一言に、伴は感極まり、危うく溢れそうになった涙を堪え、鼻を啜ると小さく笑みを漏らす。
これは満点を取らねばなるまい、と、伴は一念発起し、明日の補習で見事数学の教師を見返すことに成功した──まではよかった。
が、これから先、高校を卒業してからも酒に酔うたびにこの話を飛雄馬に語って聞かせるようになるのだが、それはまだ少し先の話である。