星を戴いて出で、星を戴いて帰る
星を戴いて出、星を戴いて帰る まったく、親父のやつときたら……と、伴はお抱えの運転手がハンドルを握るベンツの後部座席に揺られつつ、今日の会議のことを思い出す。
あんなに大勢の前で怒鳴りつけずとも良いだろうに、と父・大造にいつまでも星飛雄馬の行方を探しとらんと仕事に専念せい、と言われたこと反芻しつつぶつぶつ悪態を吐きながら車窓の向こうに視線を遣った。
道行く人々の装いはすっかり冬のそれで、クリスマスにはまだ一ヶ月以上あると言うのにデパートの屋上から下がる広告幕は歳暮やクリスマスプレゼントの文句が書き連ねてある。
どことなく、年末に向け浮足立つ世間に対し、気楽なもんじゃのう、と伴は呆れたように目を細めた。
それにしても、星はどこに行ってしまったんじゃろうか、と何やら似たような風体の道行く青年の顔をまじまじと見つめつつ、伴は人違いかと溜息を吐く。あれからもう何年になるのか。
星は一体どこで、何をしているのか。
ああ、ついさっき親父に星のことばかり考えるなと言われたばかりなのにと伴は首を振り、運転手がつけたカーラジオに耳を傾ける。
プロ野球中継の周波数に合わせられており、どこの球団だ?としばらく実況に聞き入っていると、巨人─中日戦だと言うことが判明し、伴はチャンネルを変えろと低い声を出した。
「は、はい」
運転手は素直にそれを聞き入れ、カーラジオのツマミを回す。すると、何やら流行りの女性アイドルの歌声が聞こえてきて、伴は座席の背面に体を預け目を閉じる。
あの日以来、野球の一切からは手を引いた。
あれだけ反発していた親父の会社に勤める気になったのも、星がいなくなってしまったからだ。
星が帰ってきたときに、自分が何かしらの支えになってやらねば、とその一念で必死にやってきた。
星はどこかでわしのことを知っただろうか。
伴自動車工場を伴重工業と呼ばれるまでに発展させたことを。
それは星のライバルであった花形とて同じことで、花形もまた、天才打者と持て囃されながら、引退すると言ったときには年俸を更に吊り上げるから思い留まってくれと言われたにも関わらず、野球界から姿を消した──。
そこまで考えてから伴はふと、赤信号で車が停まったために目を開け、なんの気なしに窓の外へと目線を遣った。
そうして目に入った歩道を歩む一人の青年があまりに彼に似ていて、伴はどうせまた見間違いだろうと苦笑しながらも彼の姿を目で追う。
すると道行く青年はかつて伴も着用していたジャイアンツの橙色をしたグラウンドコートを着込み、YGマークの黒い帽子を被っており──伴は反射的に車のドアを開け外へと飛び出す。
「あ、あっ!? 伴常務!?」
運転手が素っ頓狂な声を上げたがそれどころではない。伴はそこで待っちょれ!と叫ぶや否や車道を突っ切り、急ブレーキを掛けた対向車線を走っていた車の運転手に怒鳴られるのも気にせず、青年の後を追う。
「ま、待て! 待つんじゃい! おい!」
すれ違う人々が何事かと振り返るが、伴は人混みを掻き分け掻き分け青年の真後ろにまで距離を詰めると、そのまま彼の体をぎゅうと抱いた。
「…………!!」
胸に抱き留めた小柄な体は冷たくてどこか懐かしい匂いがして、伴は腕の力を強める。
なんだなんだ?と人々が足を止め、二人の様子を伺うように集まって来たために伴はしまった、と慌てて体を離すと彼の腕を掴み、再び車道へと飛び出した。
歩道に車体を寄せ、停まっていたベンツへと青年を押し込むようにして伴もその隣へと乗り込んだ。
座席に腰を下ろしてからも伴の心臓はドクドクと激しく脈を打つ。それは運動不足の体を揺らして全力疾走したからではない。
今し方、隣に座る青年が星飛雄馬本人であると確信したからだ。
「………じ、常務? その、方は?」
「しっ、お前は黙っとれ。そ、その、何だ、き、急に車に押し込んで悪かったのう」
突然車道に飛び出したかと思えば見知らぬ青年を連れて帰ってきた雇い主に対し、運転手はバックミラー越しに尋ねた。
しかして伴は質問に答えるどころか、口元に人差し指を立て、車を自宅にやるようにと指示を出した。 おかしな日だなと運転手は首を傾げつつも言われた通りに車を発進させる。
「…………」
ちら、と伴は隣に座る青年の横顔を見遣ってから目をぱちぱちと瞬かせた。
「何か、用ですか?」
ふいに青年が口を開き、伴の巨体が跳ねる。
「あ、う、よ、用と言う用ではないんじゃが、そ、その、うう……」
「…………伴?」
ドキッ、と再び伴の体が跳ねた。
青年はまじまじと大きな黒い瞳を見開き、隣に座った伴の顔を見上げる。
「そ、そうじゃい。伴じゃあ、伴宙太じゃあ」
数年ぶりに聞く懐かしい声色に伴は声を震わせつつ、自身の名を名乗り、鼻を啜った。
「それにしては、おれが知っている伴とはだいぶ見た目が変わっているようだが」
「…………」
伴は何か言いたげに唇をすり合わせたが、ぎゅっとそれを引き結ぶとそれきり黙った。
「伴?」
不思議そうな顔をして青年──星飛雄馬は伴を仰いだが、彼がじっと前を見据え唇を震わせているのが目に入り、彼もまた口を閉ざした。
それから車は騒がしい幹線道路を抜け、閑静な住宅街へと入る。伴は屋敷の前に車をつけさせると、運転手には車庫に車を戻したら帰宅して良いことを告げ、このことは内密にしておけと彼の肩をポンと叩いた。
伴は辺りをきょろきょろと見回してから車を降りると、門を開け飛雄馬を先に中に入らせてから自分も後を追うようにして屋敷の敷地内へと足を踏み入れる。
「星」
「…………」
ふいに名を呼ばれ、飛雄馬は伴を見上げる。
「よく、わしが伴だと気付いてくれたのう。わはは……今頃になって震えが止まらんわい。いきなり車に押し込んだにも関わらず、誘拐だと喚かんかったのう」
言葉通り、伴は全身を戦慄かせつつ自分の腕をさする。だいぶ気分が落ち着き、冷静になったとも言えよう。
「ふふ、親友の顔を、声が分からんはずがないさ」
一瞬の間ののち、ぽつりと飛雄馬が口にした言葉に伴の瞳が潤む。
「ぼっちゃま!お帰りなさいませ!」
すると、玄関の前で何やら話をする気配を察したらしく、屋敷の引き戸が開き、白髪頭の小柄な女性が顔を出した。
げっ、と伴はしんみりとした雰囲気から一転、まさかの自体にこの状況をどう説明しようかと目を白黒させる。
開いた戸から顔を出した老女は伴が幼い頃よりこの屋敷の家事を切り盛りしてきたいわゆる家政婦であり、飛雄馬もこの女性とは顔馴染みであった。
しかして、星飛雄馬と言う人間はあの日以来行方不明となっており、はたまた現役選手の頃の姿のままである。
現に彼女は口をぽかんと開け、飛雄馬を見上げている。
「あ、っ、と………り、理由はあとで説明する!とりあえず家に上がらせてくれい!」
伴が取り繕うように叫んだところで、老女はポロポロと瞳から涙を溢しつつ飛雄馬の体を掻き抱いた。
「!」
「星さん!あなた、星さんでしょう。ああ、どこに行きなさったんだろうかと心配しておりました」
飛雄馬の緊張し、強張った体がじわりと老女の暖かな体温のお陰で解れる。
「おばさん……」
「でも、なぜ星さんは野球のユニフォームを着て……」
「す、すまん!とりあえず部屋に行く!」
体を離し、飛雄馬の顔をじっと眺めた老女を制し、伴は玄関で乱雑に靴を脱ぐと星も早う!と彼を急かし、どすどすと足音を響かせ廊下を歩いた。
「すみません、後ほど」
飛雄馬は靴を脱ぎ、廊下に上がると一旦、その場に屈み伴と自身の靴をそれぞれ綺麗に揃えてから、老女に対し謝罪の言葉を口にする。
「星!」
会釈し、飛雄馬は伴の後を追うようにして彼の部屋へと入り、後ろ手で廊下と部屋とを仕切る襖を閉めた。
「星、お前はどこから来た?」
部屋の真ん中、畳の上に腰を下ろした伴が単刀直入に訊く。
「………今は昭和何年だ?」
伴の質問に被せるように飛雄馬が問う。
「昭和、五十一年じゃい」
「五十一年?」
飛雄馬の言葉に深く頷き、伴はこの時代の星飛雄馬は行方不明じゃ、とも続ける。
「行方不明……?なぜ?おれは巨人にはいないのか?怪我とか、事故とか」
「………っ、星よ、言わせんでくれ、それをわしの口から」
飛雄馬から視線を逸らし、伴はぐっと下唇を噛む。
飛雄馬はそれを受け、伴のそばまで歩み寄ってから、畳に膝をついた。
「ふふ、体格のせいで球質が軽いと分かり、左門にホームランを打たれたおれだ。今更何も驚くことはない」
「……星よ、お前は……そうか、あのときの」
球質が軽い、の言葉に伴は目の前の飛雄馬がいつの時代の彼なのかをぼんやりとながらも察する。
左門に打たれ、行方をくらませたときの──ああ、そうか、あのときも星は行方知れずになったな──伴は堪えきれず、大粒の涙をその瞳から頬へと滴らせる。
「きみが、泣くと言うことは、この時代のおれも何らかの不幸に見舞われたらしいな」
「腕が、っ………」
「腕?」
隣に座る飛雄馬の腕を掴み、伴は彼の顔を潤んだ瞳へと映す。
「左腕が、壊れてしもうたんじゃ」
「………左腕、が」
ふ、と飛雄馬は苦笑し、伴から目線を逸らす。
それから、なぜ?と伴の顔を真っ直ぐに見据えつつ理由を尋ねた。
「っ、わしと、星は戦った。わしは、中日にトレードされ、星の腕を結果的に壊す羽目になってしもうた」
「敵?伴が?悪い冗談、は」
「事実じゃ、星。星はこれから、大リーグボールと呼ばれる魔球を編み出す。全球団の選手を凍りつかせ、きりきり舞いさせる悪魔の球。その大リーグボール三号はきさまの、星の生命を一球一球削っていく禁断の魔球……っ、その一投で星の腕はっ……」
「…………」
飛雄馬の瞳が揺らめく。瞬きも忘れ、飛雄馬は目の前の男を見つめる。
「星、どこにも、行くな。なぜきさまがこの時代に現れたかは分からん。けれども、おれは、もう星と離れるのは嫌なんじゃ」
「…………伴、おれときみを敵同士に仕立て上げたのはとうちゃんか?」
「ぐ、っ……」
伴は言葉に詰まり、口を閉ざす。
「……ふふ、ふ、ふ」
飛雄馬の瞳からぽろっと涙が溢れる。
「星……っ」
「馬鹿正直ここに極まれりと言ったところか伴。おれはそれでも、元の時代に帰りたい。その大リーグボールとやらが無性に気になる」
「っ…………」
「宛もなく彷徨っていたらいつしか日が暮れ、そうしてきみに呼び止められた。おれは左門に打たれ、これで終わりかと思っていたが、そうではないらしい」
力なく笑う飛雄馬の頬を涙が滑る。
星、と呼んで伴が飛雄馬の体を抱きしめようとしたところに襖の向こうから声を掛けられ、二人は慌てて目元を擦る。
「な、なんじゃい」
「ご飯、まだだろうと思いまして、少しですけどおにぎりをこしらえまして」
おにぎりの言葉に飛雄馬の腹がぐうと鳴った。
伴はそれにぷっと吹き出してから襖を開けると、老女からおにぎりの乗った皿と茶の入れられた湯呑みがふたつ、それに濡れタオルが乗った盆を受け取り、今日はもう休んでいいぞいと彼女を下がらせる。星さん、ごゆっくりと老女は頭を下げ、廊下を引き返していった。
「おばさんも、年を取ったな」
「言うてやるな星よ、わしが嫁を娶るまで死ねんとうるさくてかなわんぞい」
ぼやきつつ、伴はおにぎりを頬張る。
飛雄馬もおにぎりをひとつ、手に取ってそれにかぶりつきつつ、米の甘さを引き立たせてくれるような絶妙な塩加減に顔を綻ばせた。
「まだ、結婚していないのか」
「け、結婚なんてせんわい!」
「…………伴なら、いい父親になれると思うがな」 「む……」
「そう言えば、ねえちゃんは?」
「明子さんなら、うっ……ゴフッ!」
ふいに明子のことを訊かれ、伴は噎せ込んで胸をどんどんと叩く。
「伴?」
湯呑みの茶で米を流し込んで、伴はようやくひと息つくと、明子さんなら結婚したぞいと答えた。
「結婚?ねえちゃんが?」
今度は飛雄馬が噎せ、慌てて茶を啜る。
「……花形とじゃい」
「花形さんと!?」
ぶっ、と茶を吹き出したせいで畳に飛沫が飛んで、飛雄馬は濡れタオルでそこを拭った。
「まあ、星が心配せずとも明子さんは幸せな人生を送っておられる。それに親父さんも元気じゃい」
「そうか、花形と結婚したというのには驚いたが、ねえちゃんも、とうちゃんも元気だというのが分かってホッとした」
「………星ひとり、行方不明のままで、それなのに世間は、社会は回っていく」
ふたつめのおにぎりを頬張った飛雄馬を見つめ、伴がひとりごちる。
「……何ら、おかしなことではないだろう。数年を共に過ごしただけの人間との縁が途切れたところで、大したことじゃない。これからの長い人生、色んな人との出会いや別れがあって然りだ」
「それだけ、星と過ごした時間はわしにとって特別だった。いや、わしだけではない。それは花形とて、左門とて同じことよ」
「…………ふ、おれが行方不明だからだろう。思い出は総じて美化されるものと相場が決まっている」
二口目にかぶりついた飛雄馬はもぐもぐと口を動かす。
「そう、じゃない。星、わしにとってきさまは、青春のすべてだった」
「……伴」
「っ、すまん。興奮して熱くなりすぎたわい」
おにぎりを平らげ、もごもごとやりつつ、伴は茶を啜った。二人はそれから皿を空にし、今日のところは一先ず眠ってしまおうということになった。
夜更けに元の世界に戻る方法を考え、模索するよりは疲れを癒やすことが先決だろうと思ったのだ。
伴は畳の上に二組の布団を敷き、着ている三揃いのスーツを脱いだ。
「あ、星もそのままじゃいかんのう」
寝間着にしている浴衣に着替え、伴はスーツをハンガーに掛けてからユニフォーム姿の飛雄馬にちょっと待っとれと箪笥を漁る。
そうすると、中学生の時分に着ていた長袖のシャツとジャージが見つかって、伴はそれらを飛雄馬に手渡す。
飛雄馬もまた伴と同じようにユニフォームを脱ぎ、きちんと畳んでから渡された上下の衣服に身を包んだ。
シャツは少し袖が長いとは言え、まだ見れたものだが、ジャージの腹回りがだいぶ大きく不格好で、飛雄馬は下はいい、とシャツにパンツ姿で布団に潜り込んだ。
「ほ、星!?それはいかんぞい!」
「いかん?なぜだ?パンツは穿いているぞ」
「い、いかんものはいかんのじゃあ!!」
「……おかしな伴だな」
飛雄馬は掛け布団をめくり、ジャージに足を通す。
伴はその始終を見届けてから部屋の明かりを消した。部屋は闇に包まれ、辺りはしん、と静まり返る。
言葉こそないが、飛雄馬の呼吸音が伴の耳に入る。 久しぶりに隣で眠る親友の気配に伴の胸は変に高鳴る。
先程、伴が飛雄馬にズボンを着用するようにと言ったのも、二人は親友関係でありながら──だからこそ、なのか、一線を越えた関係にあったからだ。
それはまだ隣で眠る飛雄馬は経験していないことだが──伴はおれのためにすまない、と涙を流す飛雄馬を慰めるようにして彼の体を組み敷いた経験がある。ゆえに、伴は下を穿けと言ったのだ。
ついさっき、数年ぶりに出会った飛雄馬の体を背後から抱きすくめたとき、不覚にも伴の下半身は反応してしまった。その罪悪感も未だもやもやと胸の中にある。
「………」
ごくん、と伴が唾を飲み込んだ音がやたらに大きく響いた。
「伴」
「ひ、っ……!なんじゃ、起きてたのか」
「そっち、行ってもいいか」
「な、に!?」
すっかり寝てしまったと思っていた飛雄馬に声を掛けられただけでも驚いたと言うのに、その次に彼が紡いだ言葉に伴の声は裏返った。
「だめ、か?」
「だっ、だめじゃい!この、この布団に二人はむ、無理じゃあ!」
「だったら、布団をくっつけたらいい」
「あ、う」
飛雄馬は再び布団を跳ね除け、畳に下りてから伴の横たわる布団へと自分の寝ていたそれを押しやり、横にぴたりと付ける。
「伴」
ごそごそと布団に潜り込んだ飛雄馬がまたしたも伴を呼ぶ。
「こ、今度はなんじゃあ!」
「………してほしい」
「え!?」
がばっ、と伴は体を起こし、隣で眠る飛雄馬の顔を見下ろす。
「抱き締めて、ほしい」
「…………」
ごくん、と伴の喉がまたしても鳴った。
体がかあっと熱くなり、伴は自分に向かって両腕を伸ばしてくる飛雄馬の背中と布団の隙間に手を差し込み、その体を抱き締める。
覚えているより、うんと小柄で、暖かな体が持ち合わせる体温が伴の密着している肌から彼の全身に染み渡る。飛雄馬の体が小さく思えるのは伴自身が大きくなったからであろうか。
「伴は、あったかいな」
飛雄馬は小さく呟き、伴の胸に顔をすり寄せる。
「ほ、星?」
「ふふ、大リーグボールと言ったか。それも三号。一号、二号とその前にあるんだろう。どんな球なのか気になってな」
「あ、明日、話してやるわい。今はゆっくり眠れ」
「………伴」
「はよう、眠れ!」
「……最初に、この世界で出会えたのがきみで良かった」
消え入りそうな声で囁いて、飛雄馬はそのまま寝息を立て始める。
よほど疲れていたのだな、と伴は飛雄馬の体を布団に横たわらせてから、すやすやと寝入る彼の寝顔を見下ろす。
まったく、無防備ここに極まれりじゃわい、と苦笑してから伴は飛雄馬の額を撫でてやってから自分も布団に潜り込んだ。


◆◆◆◆


チュン、チュンと鳴く雀の声で伴はハッ!と目を覚まし、星?と隣で寝ているであろう彼の姿を探すもそこはもぬけの殻で、さあっと血の気が引いた。
「ほ、星ぃ!?」
飛び起き、伴は部屋を飛び出すと、浴衣がはだけているのを直しもせず、星の名を呼びながら廊下を駆ける。
それから行き当たった台所、そこにあるダイニングテーブルで朝食を摂っている飛雄馬の姿を見つけ、彼はホーッと溜息を吐いた。
「こ、ここにおったんか……」
「おはようございます、ぼっちゃま。今日は早うございますね」
はあ、はあ、と肩で呼吸をする伴に朝食の準備をしていた老女が微笑む。
「朝からどうしたんだ伴、バタバタと」
飛び込んできた伴の顔を扇ぎつつ、飛雄馬が顔をしかめた。
「お、起きたら星の姿が見当たらんので驚いたんじゃい……」
「…………どこにも、行かないさ。さあ、顔でも洗ってこい。朝食、出来てるぞ。ああ、歯ブラシ、おばさんに尋ねて新しいのを出させてもらった」
言われ、伴は浴衣の乱れを正してから渋々と洗面所へと出向き、洗面と歯磨きを済まして再び台所に戻ってくると、老女がテーブルの上に料理の乗った椀や皿を並べている最中であった。
まさか、星が自分より先に起きて、テーブルに着いているとは、と伴は楽しそうに老女と談笑する彼の顔を見遣る。
しかして、彼女も星飛雄馬がなぜプロ野球選手時代の姿でここにいるのかということについては特に疑問には思っていないようで、飛雄馬もまた、それを気にしている風でもなかった。
「…………」
「いただきます」
手を合わせ、飛雄馬は箸を取る。
それから湯気の立つ味噌汁をそっと啜って、美味しいと微笑んだ。
「たんと食べてくださいな星さん」
「ふふ、そうさせてもらいます」
「…………」
伴はその様子を見ながら彼もまた、味噌汁を啜って茶碗を手に白い飯を掻き込む。
そう言えば、朝からこうして食事をするのはどれくらいぶりになるだろうか。
仕事が終わってからも接待や、一人晩酌やらで酔い潰れ、朝もフラフラの状態で起きてはギリギリ間に合うようにして職場に滑り込む。
それで親父にはこっぴどく叱られるのが日課となっていた。
「星よ、わしは朝からちょっと図書館に行ってだな、元の世界に戻れる方法を調べて来ようと思うんじゃが、すまんがきさまは屋敷からは一歩も外に出らんように頼むぞい」
「……ああ、そのつもりだ。下手に動き回って騒ぎにでもなったら困るからな」
伴の言葉にぴたりと箸を止めた飛雄馬だったが、そうとだけ言うと食事を再開させる。
「あ、それから、星がここに来ていることは誰にも漏らさんでくれよ」
老女に対し、伴は箝口令を敷く。
分かっております、誰にも言いません、と老女は頷くと、空になった飛雄馬の茶碗を取り、それにこんもりと米を盛った。
二人は朝食を済ませると、老女に礼を言い、布団の敷かれた部屋へと戻ってくる。
伴はいそいそとシャワーを浴びる準備をしつつ、飛雄馬にはすまんが箪笥の中から合う服を着ていてくれと申し訳なさそうにそんな言葉を口にした。
「ああ、ありがとう」
「う、お、おう。れ、礼を言われるほどのことはしとらんぞい」
伴は小さく微笑んだ飛雄馬から顔を逸らして、ちょっとシャワーを浴びくるわい、と廊下に飛び出す。
朝からあの顔は心臓に悪いわい、と伴は深呼吸なぞしつつ、浴室へと向かう。
星があの少し、困ったように笑う顔がわしはどうにも苦手で──儚げで、今にも消えてしまいそうなそんな表情を出会ったときから彼はふとした時にするのだ。全てを諦めてしまったような、そんな切ない顔を。
伴は浴室に到着すると、脱衣所で浴衣を脱ぎ裸になってからタイル敷の風呂場の床に降り立ち、熱いシャワーの湯を頭から被る。
昨日は親父は帰ってこなかったようだが、今日もわしがいない間にここを訪ねてきたりせんといいが、と伴は髪を洗いつつそんなことを思った。
身支度を整え、伴は浴室から出るとそのまま玄関先へと向かう。運転手が迎えに来るまでにはだいぶ時間があるが、訪ねてきたらもう仕事に行ったと伝えてくれと言うつもりで靴を履く。
「気を付けて」
磨き上げられた革靴に靴べらを使い足を差し入れていると、背後から声を掛けられ、伴はひっ!と体を強張らせた。
「星……」
「すまないな、おれのために」
箪笥から引っ張り出したらしい伴の古い服を着込んだ飛雄馬が後ろには立っており、伴はホッと胸を撫で下ろす。
「気にすることはないぞい。本当なら星が自分で色々試したいじゃろうに、こんなところに閉じ込めて、わしの方こそ申し訳ない気持ちでいっぱいじゃあ」
「…………」
飛雄馬はしゅんと肩を落とし、目を伏せる。
「いい子で、待っとくんじゃぞ」
伴は飛雄馬の頭をぽんぽんとその大きな手で叩いてから、驚いたように顔を上げた彼の目を見据え、柔らかく微笑んだ。
「子供、扱いしないでくれ」
「そ、そんなつもりじゃなかったんじゃが……うぐ、す、すまなんだ」
「…………」
飛雄馬の瞳がみるみる内に潤んで、伴はあわわと取り乱したが、さっさと行けと声を荒らげられたために、慌てて家を飛び出した。


◆◇◆◇◆◇


飛雄馬は伴を見送ったあと、朝食の後片付けをする老女に部屋で休んでいますと伝え、部屋に引き篭もった。
何度か訪れたことのあるこの屋敷の、伴の部屋も一人ではどうにも広すぎて、ひんやりとした空気が辺りには漂っている。
二組の布団を飛雄馬は畳み、押し入れの中へとそれらを仕舞った。
そうすると更に部屋の中はガランとして、飛雄馬は大きな溜息を吐く。
野球のグラブと、球を一度も触らなかったのは物心ついてからは今日が初めてのことだろう、と飛雄馬は荒れた左手を見下ろし、自身の幼少期を思い起こす。あの星を目指せと言われ、夢のために一生懸命に走った。
年相応の遊びをする同級生らを尻目に毎日毎日、球を放ったし、冷たいギプスのバネが肌に食い込む痛みにこっそりと涙を流したりもした。
それでも、いつかとうちゃんに褒めてもらえるんじゃないか、そう思ってひたすらにここまで駆けて来たのに、いざプロのマウンドに立ってみたら体格のせいで球質が軽いだなんてそんな馬鹿な話があるだろうか。
飛雄馬はふふっ、と微笑んでから左手で拳を握る。
街を行き掛けに、牧場さん宛に書いた葉書はもう、彼の手元に届いただろうか、と飛雄馬が苦笑したところで、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。
飛雄馬は一瞬、どうしようかとも迷ったが、おばさんの手を煩わせることもあるまい、花形や伴の親父さんなら仕事に行っている時間だろう、と高を括って、玄関先へと出向いた。
その判断がいけなかった。
廊下を歩いていると、またしてもピンポーンとやられ、老女がはーいと返事をしたのに対し、飛雄馬は自分が出ると告げ、靴を履き、戸を開ける。
そうして目にした一人の男に飛雄馬の呼吸が一瞬、止まった。
「あ…………!?」
「…………」
後退った飛雄馬の顔を見下ろし、目の前の彼は目をゆっくりと瞬かせる。
この男こそ、花形満であった。
伴と同じく会社の重役らしい立派な三揃いのスーツに身を包んだ彼があろうことか伴の住む屋敷を訪ねてきたのだ。
背こそ伸び、印象的な例の前髪こそ今や社会人らしく整髪料で固め、後ろに流しているらしいが、この顔は忘れようもない、打席から自分を射るように見据えてきた鋭い視線の面影が、変わらずそこにはあった。
「きみは、もしかして──星飛雄馬ではないかな?」
「っ、誰、ですか、それは。おれ──いや、ぼくは伴さんの従兄弟で。あなたこそ、一体」
咄嗟に嘘をつき、飛雄馬は花形の瞳から顔を背けた。
「………失礼した。ぼくは彼の友人、そう、古くからの友人でね、花形満と言う名だ。怪しい者じゃない。そうか。だから昨日、伴くんは約束をすっぽかしたんだな。きみがいたから。ふふ……従兄弟か」
花形はニッ、と笑みを浮かべると、とりあえず事故や病気の線は消えた。
一安心だと言うなり、飛雄馬の顔を見つめ、伴くんによろしくと屋敷を出て行った。
ピシャン、と目の前の戸が音を立てて閉まったのを目の当たりにしたとき、飛雄馬はよろよろとその場に崩れ落ちた。今頃、全身からは汗が吹き出す。
なぜ、花形がここに。
確か、昨日約束をすっぽかしたと言っていたか。 そのせいでここを訪ねてきたのか。
飛雄馬は自分の警戒心の無さに歯噛みし、誰でした?と顔を出した老女に、町内の回覧板が回ってきただけです、と嘘をついた。
ああ、そしておれはまた嘘をつくのか、と飛雄馬は唇を引き結んだまま、ふらふらと立ち上がると部屋へと戻った。
冷たい畳の上に体を横たえて、飛雄馬はぼうっと天井を仰ぐ。
花形は、今や自身の妻となったねえちゃんや、とうちゃんにおれのことを話すだろうか。
そうしたら、ねえちゃんは血相を変えてここに飛び込んでくるだろうし、とうちゃんは…………。
飛雄馬は、涙を堪え、はあっ、と息を吐く。
どうして、こうなってしまったのか。
おれの人生、どうしてこう、空回りばかりしてしまうのか。ようやく掴みかけた巨人の星が霞んで、今は何も見えない。
伴、早く帰ってきてくれ、と飛雄馬が閉じた瞼の裏に彼の顔を思い描いたとき、伴宙太は区の図書館でSFの小説やオカルトじみた胡散臭い雑誌を漁っていた。タイムトラベル──時間旅行。
何かの弾み、はたまたきっかけで、過去や未来に時間や時空を超えて人間やモノが移動してしまうこと。
運良く元の時代に帰れた者もいれば、その世界で暮らすことを選んだ人間もいて、その帰還方法は──。
普段、書物の類などまったく読むことのない伴は小難しい言葉の書き連ねられた本を眺めつつ、目を何度も瞬かせる。
違う、なぜ時間を超えることになったのが今は知りたいのではなく、どうしたら元の世界に戻れるのかというのが知りたいんじゃい、と伴が文字の羅列を指で追いつつ、目線を上から下に滑らせていると、後ろから背中を叩かれ、彼はひっ!と声を上げた。
「ここにいたのか」
大きな声を立てないでくれ、と唇に人差し指を当てた彼こそ、先程伴の屋敷を訪ね、プロ野球選手時代の星飛雄馬と対面した花形、その人である。
「は、花形」
伴は開いていた本を閉じ、取り繕うように笑った。
「昨日、うちで食事をする約束をしていたのにきみがいつまで経っても訪ねて来ないのでね。夜遅いゆえに電話はかけなかったが、何かあったのかと心配したぞ」
「あ……」
しまった、と伴はつい先日、等々力の花形邸で夕食を摂る約束をしていたことを思い出し、口元を手で押さえた。
「ふふ、なに、人間だからね、忘れることもあるだろう。それはいい、そんなことより、ぼくはここに来る前にきみの家を訪ねた」
「な、なに!!?」
花形の言葉に驚いた伴は大きな声を上げてしまい、周りにいた人々から冷たい視線を浴びることとなった。あ……と伴は大きな体を縮こめ、それで?と尋ねる。
「………場所を変えよう。来たまえ」
伴のただならぬ態度に花形はニッと口角を上げ、図書館の出入り口を肘を曲げ、立てた親指で示した。
伴は飛雄馬に誰が来ても顔を出すなと言うことを伝え忘れた、あのお人好しのことだから手が離せないのならばとばかりに玄関に出向いたのだろう、と冷や汗をかきつつ、本を元の場所に仕舞うと、ドアの前で待っていた花形の顔をちらと見遣った。
花形は近くの喫茶店を指定し、伴もその後を追う。
店員に案内されるがままに席に着くと、コーヒーをふたつと花形は彼女に告げ、それで、とテーブルの下で足を組む。
「あ、会ったのか?」
「……誰に?」
花形は意地悪く目を細めつつ、唇の端を吊り上げる。
「っ、そ、の、わしの……家に、行ったんじゃろう?誰かに、会わんかったか?」
「例の家政婦ならニコニコと出迎えてくれたが、それが?」
「そ、れだけか?」
伴は椅子に浅く座り、花形に詰め寄る。その額には脂汗が滲んでいる。
「それだけ、とは?ふふ、何か大事なものを隠しているような口ぶりだね。もの、いや、人──かな?」
「…………!」
花形は、わしをからかっている、と伴はテーブルの上で両拳を握る。
「あれは、従兄弟と言っていたが、星飛雄馬だろう。それも、現在、行方不明の彼ではない。数年前の星飛雄馬。なぜかは分からんが、プロ時代の彼が今、昭和五十年を迎えた東京に存在している、違うかね」
「あ………」
たらり、と伴の額を滑った汗が彼のこめかみを流れ落ちた。体の芯が変に冷えていく。
親父ならどうにか丸め込めた──いや、こうしている間にも家に親父が訪ねてきていてお前は誰だと喚き散らし、星を追い出してしまっているかもしれない、たった一人、誰も頼る者のいない星が寒空の下放り出されるなどあってはならないことだ。
星を、わしはもう二度と一人にはさせない。
伴は下唇を噛み、花形を睨む。
その鬼気迫った表情に花形は予想的中か、と内心ほくそ笑む。
いくらなんでも他人の空似と言うには従兄弟だと名乗った彼は星飛雄馬に似すぎている。
しかし、確証が持てないために、花形は伴を煽った。
「ふふ、誰にも言いはしないさ。明子にも、父上にだって」
「信用して、いいのか」
低い声で伴は問う。
コーヒーをふたつ、持ち寄った店員が伴の剣幕に恐れ慄きつつ、震える手でテーブルの上にそれらを並べた。
「……無論だ。ぼくは約束は守るさ。それも、ふふ、星くんのことなら尚更、ね。それにしても水臭い、星くんの足取りがわかったら隠しだてせず、すぐに報告しあおうと誓った仲なのに」
花形はコーヒーを啜り、伴を睨み据える。
「それは、行方不明の星の話じゃろう。うちにいる星はそうではない」
「…………何にせよ、今ぼくたちがいる未来、星飛雄馬という人間はきちんと存在しているし、大リーグボールも三号まで投げたという事実がある。きみの家にいる星くんがいつの時代の彼なのかは判別がつかんが、ちゃんと元の時代に帰れたのだろう」
「あ……そ、そうか!そうじゃな!そうでなければ左腕を壊した星が行方不明になったのには繋がらんからな」
「…………」
嬉々として砂糖とミルクをたっぷりと入れたコーヒーを啜る伴を双眸に映し、花形は、とにかく、ぼくも星くんが元の時代に戻れる方法を探すことに協力する、と答えた。
「……すまなんだ」
「なに?」
「星のことを隠すような真似をして、おれ一人右往左往するより、他人の知恵を借りた方が上手く行く決まっとるのに……」
「…………」
花形は答えず、ここの勘定は自分が持つから早く家に帰れと伴を急かし、彼を喫茶店から追い出した。
伴は図書館で待たせていたベンツの運転席でいびきをかき、寝入っている運転手を叩き起こし、自宅へ戻るよう言った。
そうして、泣き疲れ、半ば眠りかけていた飛雄馬は玄関の戸が開く音にハッと目を開ける。
しかして、伴である確証が持てず、息を殺す。
伴の父親でないことだけを願いつつ、飛雄馬はゴクンと生唾を飲んだ。
廊下をすっ、すっと歩く足音に耳を澄ませ、襖の前で立ち止まった彼が、星、入ってもいいか?と尋ねたために、全身の力を抜き、ああ、と答えた。
「お帰り、伴」
飛雄馬は目を擦り、襖を開けた伴に笑いかける。
伴は飛雄馬が変わらずそこにいてくれたことに安堵しつつ、ただいまと答えた。
「昼飯、まだじゃろう。店屋物でも取るか」
昼の時間帯は通いで食事の世話や屋敷の掃除を賄っている例の老女も自分の家に帰っている。
そしてまた、夕飯の時間帯になると屋敷にやって来るのだが、最近では伴も夜は接待などが相次ぎ、朝は朝で朝食を食べずに出ていくことが多いため、専ら屋敷の掃除を行うことが主になってしまっている。
「…………」
飛雄馬は花形のことが気掛かりでまともに伴の顔が見られず、困ったような笑顔を浮かべる。
「何か、あったのかのう。わしの留守中に」
伴が訊くと、飛雄馬はあからさまに表情を曇らせた。伴は苦笑し、またしても飛雄馬の頭を大きな手でぽんぽんとやる。
飛雄馬はその仕草に顔をくしゃっと歪ませ、唇を引き結んだ。
その唇の動きが伴の目にはっきりと映って、彼もまた飛雄馬を一人にしてしまったことに対し罪悪感を持った。
星飛雄馬と言う男は、少し神経質なところがあるなと出会った頃より思っていたが、今こうして十代の星と二十も後半を迎えた自分とが対峙してみると、記憶よりもひどく繊細で、それも球質が軽いと身を引き裂かれるような重い宣告を受け、それでも前向きに頑張っていこうと思っていた矢先に左門に大噴水を上げられた後となれば、過敏になっているのも頷ける。
「伴、おれは、元の世界に帰って、本当にやっていけるんだろうか。いや、やらねばならない。それは分かっている。でも、怖い。帰る方法がいつまでも見つからなければいいとも思ってしまう」
飛雄馬は一息に言い切り、失言だったと視線を泳がせる。今の発言は自分のために一生懸命帰る方法を探ってきてくれた伴の優しさを踏み躙ったにも等しいものだからだ。
「…………にゃにを弱気な。星よ、大丈夫じゃい、元の世界に帰ってもちゃあんとわしがそばに付いとるじゃろう」
「っ………」
飛雄馬の瞳から一雫、涙が頬を溢れた。
伴は釣られて泣きそうになりつつも、飛雄馬の体を優しく抱き締めてやる。微かにその体が震えているのが分かって、伴は腕の力を強めた。
帰りたくないと言うのなら、もうずっとここにいたらいい。もうあんな、辛い思いをすることはないんじゃと言う言葉が喉元まで出かかりつつも、伴は飛雄馬の体を抱き締めることで堪える。
そこで伴の腹がぐうと鳴って、飛雄馬と伴は顔を見合わせ、プッと吹き出した。
「まったく、緊張感のない腹じゃい」
「ふふ、伴はいつも場を和ませてくれるからすきだ」
「…………」
涙に濡れた顔で微笑んだ飛雄馬に触れようと伴は手を伸ばしたが、ふいにそれを引っ込め、蕎麦でも取るか、と話題を逸らした。
「仕事は、いいのか?」
「仕事?わしなんぞ名ばかりの重役でおろうがおりまいが構いはせんわい」
言ったところで、家の電話が鳴り、伴は何事かと黒電話の置いてある廊下の端まで走る。
もしや花形で、星を帰す方法が見つかったのでは、と淡い期待を抱き、受話器を取り上げ耳に当てた。
『宙太!お前はまだ家におったのか!何しとる!』
電話口の向こうにいたのは伴の父親である伴大造で、伴は声を聞くなり体を竦めた。
「げっ……親父」
『げっ、とはなんじゃあ、親に向かって!早く来んと会議が始められんじゃろうが!』
「あ、う、う〜む、親父、すまんが朝から腹が痛くてのう。病院に行っていて連絡が遅くなった。会議はおれ抜きで進めといてくれい」
伴は言うなり、ガチャンと電話を切って、直ぐさま近所の蕎麦屋の電話番号のダイヤルを回した。
そうして、電話に出た店主にざる蕎麦三人前とカツ丼と親子丼の一人前をそれぞれ配達頼むと伝え、受話器を置く。
と、間髪入れず電話が鳴って、伴は親父もしつこいのうとぶつぶつ文句を言いながら飛雄馬の待つ部屋へと引き返した。
「電話、いいのか」
「ああ、構わん。いつもの親父じゃい。相変わらずうるさくて敵わんぞい」
「それだけ、伴のことが可愛いんだろう」
「そういうのをありがた迷惑と言うんじゃ」
言いつつ、伴は襖を閉める。
飛雄馬はその様を見上げ、いつもおれのせいで伴は親父さんに怒られてばかりだな、とボソリと溢した。
「またそれか。星、わしは自分がやりたくてやっとるんじゃい。星が気にすることではないわい」
「……きみは、優しいから、そうして嘘をつく」
笑みを浮かべ、飛雄馬は淡々と言葉を紡ぐ。
「…………じゃあ、星よ、きさまはわしが何をしたら信じてくれる?言葉だけでは信用ならんか」
「……信用、していないわけではない。きみが自分を押し殺してまでおれに尽くしてくれるのが忍びないのだ」
「じゃあ、星、お前の手でわしを殺せ。言葉で信用出来んと言うなら行動で示してやるわい。わしは星のためなら死ねるし、星に殺されるなら本望よ」
ドンと伴は自分の胸を拳で叩き、そんな台詞を吐いた。
「ばっ、馬鹿な、そんな……気でも狂ったのか」
飛雄馬が叫び、伴から顔を背けたところで玄関のチャイムが鳴る。
伴はしばらく俯いた飛雄馬のことを見下ろしていたが、またしてもピンポーンとやられたために、慌てて玄関先へと走った。
出前を持ってきた若い従業員に伴は代金を支払い、蕎麦と丼ものをそれぞれ手にし、部屋へと戻ってくる。
「腹いっぱいになったら、ちょっとは気分も落ち着くと思うぞい」
「……食べたくない」
「星」
「一人にしてくれ」
「…………」
伴は手にしていた盆を部屋の隅に追いやっていた座卓へと投げやるように置き、星!と声を荒げた。
びくっ、と飛雄馬は体を竦ませ、一瞬、顔をしかめたものの、眼光鋭く、伴を仰いだ。
「食べたくないと言ったら食べたくない。伴だけ食べたらいい」
「星が食べんというのならわしも食べん!武士は食わねど高楊枝じゃい!」
飛雄馬はぷいと顔を背け、目を伏せる。
二人の間には沈黙が流れ、壁に掛かる柱時計が無慈悲に時を刻んでいく。
「…………っ」
この雰囲気に耐えきれず、立ち上がり、部屋を飛び出そうとした飛雄馬を伴が制した。
「星、その、言い訳がましいが、わしなりの誠意じゃった。わしの不器用な言葉のせいで星の気分を悪くしてしまったのなら謝る」
「……伴」
顔を上げた飛雄馬の腹の虫が盛大に鳴いて、伴はぷっと吹き出すと、痩せ我慢しとらんでめしにしようと座卓を少し部屋の真ん中へと引き出して、どっとその前に腰を下ろす。
「いつか」
「む?」
カツ丼の蓋を開け、目に入った鮮やかな橙と黄色に目を輝かせた伴は飛雄馬の言葉に慌てて彼の顔を見た。
「いつか、伴がおれのために、死ぬんじゃ、ないかって……怖くて」
「……ぶっ、ワハハ……ハハ、星、きさま、そんなこと……ワハハハハ……この伴宙太、星を残して死ぬわけないぞい」
声を上げて笑いつつも伴の両頬には涙が滴る。
飛雄馬も涙の味がする蕎麦を啜り、少し塩気の効きすぎた親子丼を口に運んだ。
腹ごなしを終えたところで、飛雄馬はすまんが風呂を借りてもいいかと伴に尋ねる。
そう言えば、昨日は風呂に入らず寝たのう、と伴は昨夜のことを思い返し、別に断らずとも好きに使ってええぞい、と返した。
「……しかし、下着の換えはあったか?」
「し、下着?そ、そうか……ふむ、星が風呂に入っとる間に買ってくるわい」
一度脱いだジャケットに腕を通しつつ伴は言い、飛雄馬はまた、すまないと肩を落とす。
すまないじゃのうて、ありがとうじゃ、と伴は微笑んでから、ゆっくり疲れを癒やせと部屋を出て行った。
その後ろ姿に飛雄馬はありがとう、伴と声を張り上げてから、一旦部屋に戻り、朝方まで着ていたシャツとジャージのズボンを手にし、肌着を箪笥から取り出すと風呂場の方へと長い廊下を歩んだ。
そうして、脱衣所で服を脱いでから、飛雄馬は浴室へと入り、シャワーの湯を被る。
熱い湯が肌を撫で、排水口へと流れていく。
大リーグボールとか、伴は言っていたか、そんな魔球をおれはどうやって開発したのだろうか。
左門に打たれ、憔悴しきった今、とてもじゃないがそんなことを考える余裕などない。
そうでなくとも、何の弾みかおれが過ごしていた時代の八年後の世界を訪れていると言うだけでも現実離れしていると言うのに。
昨日は伴の手前、あんなことを言ったが、正直、怖いのだ──。
シャンプーを手に取り、飛雄馬はそれで頭を洗うと、石鹸をつけ、体を擦った。
体を十分に暖めてから飛雄馬は浴室を後にし、タオルで水気を取ってから肌着とシャツに腕を通した。
伴の服を身に纏うとき、ほのかに彼の香りが鼻をくすぐるのが好きで、飛雄馬は小さく微笑む。
ジャージを持ち寄ったはいいが、下着がないなと思い返し、飛雄馬はおばさんもいないし、それに伴のシャツも大きく上手い具合に隠れてくれるしなと下には何も身に着けない格好で廊下を引き返した。
しかして、部屋に到着した頃には体も冷え、飛雄馬は、くしゅんとくしゃみをして、仕方ない、少し心許ないがズボンを穿くかとジャージに足を通したところで、襖がガバッと開けられる。
飛雄馬はまだ風呂にいるだろうと油断していたがために、何の断りもなく襖を開けたのだが、よもや彼が部屋にいるとは思わず、しかも開けてすぐに目に飛び込んできたのは白い足を晒してジャージを穿こうとしている悩ましい姿で、伴は思わずその場に固まってしまった。
「伴、早かったな」
「あっ………っ、パンツ、買って、来たぞい」
「助かる。恩に着るぜ、伴」
伴は飛雄馬に衣料品店で購入したばかりの真新しい下着を投げ寄越し、飛雄馬はそれをキャッチするとジャージを脱ぎ、足を通す。
「わっ、たっ、たっ!星!きさま、羞恥心と言うものがないのか」
「シュウチシン?なぜ?いつも更衣室で一緒に着替えてるじゃないか。宿舎の部屋だって同じなのに」
伴は目元を手で覆い、顔を逸らした。
ことあるがごとに伴は飛雄馬を意識していたが、飛雄馬はそんな気は更々なかったわけで、尚且つ、この頃の飛雄馬と伴はまだ体の関係にまで発展してはおらず、彼がこんな反応を返してしまうのも至極、当たり前のことであった。
伴はむらむらと沸き起こる欲を懸命に押し込め、深呼吸をすると、もういいか?と訊く。
「構わんが……おかしな伴だな。昨日のことと言い、今だってそうだ。体調でも悪いのか?それなのに買い物になど行かせて悪かった」
「ち、違うわい。そうじゃのうて……つまり、その……」
「つまり?」
首を傾げた飛雄馬と、もごもごと口ごもる伴の耳にまたしてもピンポーンの音が入ったかと思えば、勢い良く戸が開かれ、宙太!の声が屋敷内に響いた。
彼の父である伴大造が帰宅し、声を荒げたようだった。
「わっ!親父!」
「宙太!顔を出さんかあ!家におるんじゃろう!」
「…………」
「すまんのう、ちょっと相手をしてくるわい」
「早く行くといい。ここまで来られたら面倒だぞ」
伴は部屋から出ると大きな体を縮こまらせつつ、玄関先へとなるべくゆっくり歩を進めた。
「今晩の接待は必ず顔を出せ!じゃないとクビにするぞ!」
「クビ、クビとは大きく出たもんじゃな親父も……」
顔を突き合わせるなり、伴の父である大造がまくし立てる。
「うるさい!わしは本気じゃ!会長の息子が仕事をサボり、会議中も上の空などと社員たちに示しがつかんじゃろうが!」
「まったく……野球をやめろと散々言っときながらいざやめて会社に入ったら今度はやれ会議だ〜接待だ〜とうるさいのう」
「宙太!親に口答えするな!」
「わかった、わかったわい。接待には必ず顔を出すから今日は一先ず帰ってくれい」
「約束したからな!赤坂の料亭かわ村に六時じゃぞ!」
唾を飛ばしつつ大造は何度も六時!赤坂の!料亭!かわ村!と繰り返し、ようやく去っていく。
六時と言うともうあと三時間ほどしかなく、ここからだと一時間ほどかかってしまう。
まったく、面倒くさいのうと伴はぼやいて、部屋に戻ると、聞いとったか?と飛雄馬に尋ねた。
「ああ、聞こえていた。六時と言うと、もうあまり時間がないな」
「…………星を一人、置いていくのは怖い」
「なに、心配することはない。食事だって冷蔵庫の中のもの使わせてくれたらいい。昔からねえちゃんの手伝い、していたから、料理も少しならできるぞ」
「そう、じゃのうて……星は一人だと色々考え込むところがあるじゃろう。じゃから、わしがいない間に、星のことだからまた色々考え、落ち込んでしまうんじゃないか、と」
ぽつり、ぽつりと伴は溢し、眉間に皺を寄せる。
「……伴。ふふ、それは少しおれを見くびりすぎだ。きみが考えているほど、おれはヤワじゃない。心配せず、接待とやらに行ってくるといい。クビなどになったら大変だろう」
「そう、かのう」
「そうだとも。伴、きみこそ色々と悪い方向にばかり考えてしまうのは大人になっても変わらんのだな。早く行け。遅刻するぞ」
飛雄馬は微笑み、伴の顔を仰ぎ見た。
「……星、早く帰ってくるからな。寝ていても構わんぞい」
伴が言うと、飛雄馬は頷き、行ってこい、と囁く。
伴もまた、飛雄馬の言葉に深く頷くと部屋を出て、玄関先で靴を履く。
ちらと背後を見遣れば、飛雄馬が部屋から顔を出していて、伴はニコッと微笑んだ。飛雄馬もそれに呼応するように笑みを返してくれたのを確認してから伴は戸を開け、屋敷の外へと身を翻した。


◇◆◇◆◇◆


伴を見送ってから部屋の座卓の上にあった経済新聞を開き、飛雄馬は暇潰しがてらそれに目を通すが、株価がどうとか取引がどうとかよく分からない単語の羅列に眩暈がし、早々にそれを閉じた。
高校中退の身には経済新聞など高尚なものは馴染みがなく、飛雄馬はテレビでも観ようかと電源を入れるべく立ち上がる。
と、再び玄関に訪問者があって、飛雄馬はぐっ、と息を飲む。しばしの沈黙の後、ピンポーンと二度目があった。
宙太と呼ぶ声がないのを見ると伴の親父さんではないらしい。
おばさんなら勝手に入ってくるだろうしと飛雄馬は三度目のチャイムを聞きつつ、ゴクンと喉を鳴らす。
「星くん、ぼくだ。花形だ」
「花形…………!?」
飛雄馬は訪問者の正体が分かっただけでもホッと安堵したが、それが花形であるならば顔を出すわけにはいかないと気配を殺す。
「星くん、顔を出したまえ。元の世界に戻れる方法が分かったんだ。悪い話ではないだろう」
「…………!」
花形が口にした言葉は何と甘い響きであるのか。
花形が発した言葉は飛雄馬を突き動かすには十分であり、彼は部屋を飛び出すと玄関の戸を開け、彼を睨む。
「やっぱり、いたじゃないか」
花形は飛雄馬を見つめ、フフンと鼻を鳴らした。
「世間話は後だ。元の世界に戻れる方法だけを聞きたい」
「ふふ、ここではあんまりだ。夕食でも食べつつどうだね」
「お断りだ。花形、おれときみがこれからどうなっていくかは知らんが、ライバルと食事だなんてしている暇があったら、練習に打ち込むほうが余程有意義だと思わないか」
「…………きみが、いつの時代の星くんかは分からんが、伴くんから聞いたろう?きみのお姉さんである明子とぼくが結婚したことを。つまり、ぼくはきみの義理ではあるが兄に当たる。そう邪険に扱うこともあるまい」
「それは今のあなたの立場で、おれが知る花形はそう易易とライバルであるおれを食事に誘ったりはしない」
やれやれ、と花形は苦笑し、それなら教えてあげられんな、と飛雄馬を煽る。
「いつまでも星くんがここにいたら伴くんもきみのことが気掛かりで仕事にもろくに行けないだろう」
「っ、…………」
「伴くんの優しさはぼくも身に沁みている。きみだってそうだろうに。彼はきみのためなら何だってする男さ」
「行けば、教えて、くれるんだな?」
花形は、ああ、と頷き、表情では冷静さを保ちつつ、内心ニヤリと口角を上げた。
星くんの素直さにはまったく頭が下がるね、と花形は彼を心中で褒めつつ、服を着替えて来たまえ、ぼくは外で待っていると告げ、屋敷の外へ出た。
飛雄馬は一先ず、下のジャージだけを脱ぎ、伴のふるいジーンズを借りて裾を何度か曲げ、腹はユニフォームのベルトで調節する。
何とも不格好ではあるが、他に衣服がないのだ。
「…………」
花形は現れた飛雄馬の格好に一瞬目を見開いたが、替えの服を買ってあげようと彼を運転してきたキャデラックの後部座席に案内すると、所持していた合鍵で伴の屋敷の鍵を締める。
そのまま、運転席へと花形は乗り込み、服の好みはあるかい?と訊いたが、飛雄馬はそんなことに構っている暇はないと彼を突っぱね、食事の席に急ぐよう急かした。
「相変わらず、つれないね、星くんは」
「おれからしたら不気味ですよ、今の花形さんの馴れ馴れしさは」
「ふふ……曲がりなりにも兄と弟の立場で、野球をやめた今、そう反発し合うこともなかろう、と言うのが今のぼくの気持ちさ」
ハンドルを握り、花形は車を走らせる。
「え?野球、を、やめた?」
飛雄馬は花形の言葉に食い付き、ぐいと身を乗り出す。野球をやめたとはどういうことですか?あなたほどの人が、と続け、飛雄馬は花形の顔を真っ直ぐに見据えた。
「ああ、伴くんは……それは言わなかったのか。彼からどこまで聞いている?そしてきみは、何を知りたい?」
「何を、って……元の世界に……」
ぶつぶつ、と飛雄馬は口元を動かしてから、自分がこの世界では行方不明なこと、それは左腕を大リーグボール三号とか言う魔球で壊してしまったからということ、花形さんとねえちゃんが結婚したこと、伴も野球をやめ、今や親父さんの会社の常務になっていることを花形に伝えた。
花形は黙って飛雄馬の言葉を聞いていたが、そうか、と納得したように呟き、きみは自分の左腕がいずれ壊れてしまうのを知っているのだね、と続けた。
「…………はい」
一瞬、間を置き、飛雄馬は頷く。
「逃げ出したいとは思わないかい。野球一筋に生きたきみの、恐らく命よりも大事な左腕が再起不能になったと知って、それでもきみは元の世界に戻りたいのかね」
「……花形さん、は、おれのこの体格のせいで球質が軽く、スピードこそあるが当てこそすれば、よく飛ぶ、と言われたこと、そして昭和四十三年のペナントレースで大洋の左門に打たれたことをご存じですか」
「きみは、あのときの星くんか」
花形は車を運転しつつ、バックミラーに映る飛雄馬の俯く姿を見遣った。
「それで、伴はそのあと、大リーグボールと呼ばれる魔球をおれが開発すると言っていました。だから、それにおれは賭けたい。たった一瞬の、煌めきでも構わない。夜空に輝く、巨人の星を一瞬でも掴むことが、出来たとしたら、それで、おれは」
「それでこそ星飛雄馬、ぼくのライバルだ。ふふ、きみがまだ大リーグボールを知らないのに対し、ぼくは大リーグボールを三号まで目の当たりにしている。よって、きみは元の世界に帰り、魔球を開発したという史実に何ら変わりはない」
「………それが、どうやって」
「降りたまえ。ここだ」
言って、花形は駐車場に車を止めると、料亭かわ村と書かれた店の暖簾をくぐる。
料亭、かわ村!?と飛雄馬はハッとなったが、花形は既に店の中へと入ってしまっている。
こそこそと花形の後ろに隠れるようにして、飛雄馬は案内されたひとつの個室へと入った。
「星くん、さっきの様子を見るにつけ何か不都合でもあるのかい」
「こ、こ……今日、伴たちが接待で使うと言っていた店で、もし、見られでもしたらと思うと」
「なるほどね。ふふ、そういうこと」
座布団の上に腰を下ろしつつ、花形は微笑む。
「それで、その、方法とは」
身を乗り出し、尋ねる飛雄馬を花形は制し、立てた親指で襖を指し示す。
「まあ、待ちたまえ。先に腹ごしらえをしてからでも遅くはないはずだ」
花形は座卓の上に置かれたおしぼりで手を拭いてから、襖を開け運び込まれる料理のきらびやかさに気を取られ、顔を輝かせた飛雄馬を見つめ、ふふっと堪えきれず吹き出した。
「あ……」
かあっ、と飛雄馬は頬を染め、気恥ずかしさゆえに視線を泳がせる。
「ふふ、食べたまえ」
箸を取り、花形は刺身を一切れ口に運ぶ。
飛雄馬もまた、箸を手にからりと揚がった天ぷらを頬張った。
掴みどころがなさすぎる、と飛雄馬は目の前の男を見据え、一体何を考えているのかが読めない、とさえ思う。
「…………」
「古い新聞、そう、きみがいた時代、昭和四十三年のスポーツ紙を読み返した。きみは姿を消し、一週間もしないうちに多摩川練習場で伴くんと共に大リーグボール一号の特訓をしている。後のインタビューによると、行方不明の間に鎌倉の禅寺で座禅を組んでいたともある」
「はあ……」
そんな未来の話をされたところで、一体どうしろというのだ。発破をかけているつもりなのだろうか、と飛雄馬は箸を置き、俯いた。
「…………誰かに、思いきり褒めてほしい。今までの頑張りを認めてほしい」
「!」
花形の言葉に飛雄馬の全身はカッと熱くなる。
「その深層心理が働いて、きみは未来にやってきたというより、伴くんに会いに来たんじゃないか、と言うのがぼくの推測さ」
「おれは、そんなに弱くはない。誰かに認めてほしいとか、そんなことを考えたことは一度だってない」
「だから、深層心理だと言った。気付いていないのか、それとも薄々気付いていながらも認めないようにしていたのか」
「なぜ、そんな話をおれにするんですか。おれに聞かせて、どうしようと言うんですか」
俯いたまま、飛雄馬はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「………きみの、その、欲が満たされれば自ずと元の世界に帰れるのではないか、という話だ」
「……別に、褒めてほしくて、認めてほしくて野球をやっているわけじゃない。夢だった、おれととうちゃんの。小さい頃からずっと抱き続けた夢」
「知っている。ずっと、きみのことを見てきた。だからこその今の言葉だ」
「…………」
飛雄馬は正座をした足の上でぎゅっと拳を握る。
おれは、何のために野球をやっていたんだろう。
花形さんの言う通り、誰かに褒めてほしかったんだろうか。とうちゃんの、喜ぶ顔が見たくて、それで──。
「食べたまえ。せっかくの料理が冷めてしまう」
「花形さんは、今幸せですか?」
「…………」
問われ、花形は着ているスーツのジャケットからシガレットケースを取り出して中から一本取ると、それを口に咥えた。
それから、ライターでその先に火を付ける。
紫煙が辺りには漂って、飛雄馬は俯けていた顔を上げた。
「ぼくが、なぜ野球をやめたと思う」
「なぜ……さあ、おれには花形さんの考えていることは、よく、わかりません」
「きみがいなくなったからだ。星飛雄馬あってこその阪神の花形満でいられたし、きみと戦うことだけがぼくの生き甲斐だった。だから、そういう面では、今は幸せではない。ただ、家庭を持ち、一人の夫として生きる人生も悪くはない、そう、思っている」
「…………」
飛雄馬はおずおずと箸を手にし、刺身を取るとそれを醤油につけてから口に運ぶ。
花形は煙草の煙をくゆらせ、飛雄馬の姿に目を細めた。
それから、花形は大リーグボールの話を語って聞かせ、飛雄馬はその荒唐無稽な魔球がよくよく頭に思い描けないようで、しきりに目を瞬かせていたが、座卓の上に並べられていた料理たちをその腹の中に収めた。
「花形さんと、話せて良かった」
「ふふ、なに、ぼくもきみとは話がしたかった。現役時代からずっとね」
帰りの車内の中で飛雄馬はうとうととまどろみつつ、そんな台詞を口にする。
もう間もなく、眠ってしまいそうと言うところで花形の運転するキャデラックは伴の屋敷の前へと到着し、飛雄馬はあくびを噛み殺しつつ車を降りた。
「星くん」
運転席の窓を開け、花形が飛雄馬を呼ぶ。
「あ、すみません、お礼……」
「フフ、礼など。ぼくときみの仲だろう。ああ、鍵を渡しておこう」
ぺこりと頭を下げた飛雄馬を手招き、花形は伴の屋敷の合鍵を受け取ろうと歩み寄った彼の唇にそっと触れるだけの口付けを与えた。
「な、っ……!?」
「おやすみ、星くん」
花形は飛雄馬に鍵を握らせ、ウインクするかのように片目を閉じ、そのまま車を走らせる。
驚き、硬直する飛雄馬は走り去るキャデラックを見つめていたが、花形が触れてきた唇をぐいと手で拭うと、伴の屋敷の門をくぐった。
そのまま貰い受けた鍵で戸を開けて飛雄馬は中へと入る。幸い、伴はまだ帰宅していないようで、飛雄馬はほっと胸を撫で下ろした。
暗い屋敷の廊下を一人で歩いて、飛雄馬は伴の部屋の襖を開く。
花形さんは家に帰ればねえちゃんが待っていてくれる。けれども、伴はこの大きな屋敷にたった一人で、一体何を考え、何をして過ごしているんだろうか。
着ていたジーンズを脱ぎ、飛雄馬が敷いた布団に潜り込んだところで玄関の戸が勢い良く開けられ、こちらに近付いてくる物凄い足音が聞こえてきた。
「星!おるか!星ぃ!」
「ば、伴?」
「星、帰ったぞい!寂しい思いをさせて悪かったのう!」
酒の臭いをプンプンとさせ部屋に入ってきた伴を見上げ、飛雄馬は目を見開く。
「…………接待、お疲れ様」
飛雄馬は視線を伴の顔からその足元へと遣って、彼を労う言葉をかけた。
伴も大人になったのだな、と飛雄馬はアルコールの臭いを纏う彼の姿を目の当たりにし、ふと、寂しさを覚える。
高校を中退し、そのままプロ野球界に身を投じたおれは社会の厳しさやしがらみを知らんからそんなことを考えてしまうのかも知れんが……。
「星」
考え事をしていた飛雄馬の目の前にはいつの間にか伴の赤ら顔があって、驚きからかドキッとその小柄な体が跳ねた。
「伴、どうした。何か親父さんに言われたか」
「そうじゃ、ないわい。そうじゃ……」
飛雄馬の左右の肩をそれぞれ掴んで、伴は唇を尖らせると顔を傾ける。
「あ、っ、伴」
薄く開いた唇を飛雄馬のそれに触れ合わせて、伴は柔らかな唇を舌でなぞった。
飛雄馬の体がそれによってビクンと跳ねて、そのまま目を閉じ合わせる。
「星、ずっと会いたかった。星…………」
ああ、伴の目の前にいるのはおれじゃない、と飛雄馬は布団の上に組み敷かれつつ、そんなことを思う。伴が見ているのは、行方不明のおれで──。
「伴!やめろ!おれは、違う!」
飛雄馬の首筋に口付けていた伴はハッと顔を上げた。そして我に返ったか体を起こすと、視線を右左と泳がせ、口元に手をやった。
「星、わしは」
「…………ふ、何があったかは知らんが、きみらしくない」
「っ、すまん」
伴の下から這い出し、飛雄馬は体を起こすと今にも泣き出さんばかりに瞬きを繰り返す彼の体を抱いてやる。
「伴、いつもありがとう。きみには感謝しても感謝しきれん。今日だっておれのために親父さんに怒鳴られ、それに消息不明のおれの行方だって探してくれているんだろう」
「……………う、ぐっ」
伴の肩が震えた。
飛雄馬は気にするな、と彼を労る。そのまま伴は鼻をぐずぐずとやり、年甲斐もなく泣き出す。
「ふ、ふ……泣くことは、ないだろう」
「泣いてなんか、おらんわい……」
伴は飛雄馬からそっと離れると、目元を拭い、汗を流してくると部屋を出て行った。
その姿を見送りつつ、飛雄馬はまたしても他人が、伴が触れてきた唇を指でなぞると、布団の中にごそごそと潜り込んだ。
頭のてっぺんまで布団に潜って、飛雄馬は何度も何度も自分の唇に触れる。
あの行為には何の意味があるんだろうか。
唇と唇を合わせて、一体どうするんだろうか。
それにしても胸が変に高鳴っている。
花形さんに触れられたときは驚きの方が大きかったが、伴のときはそれとは違う。現に今だって心臓がドキドキしている。
と、部屋の襖が開かれ、畳が軋む。
どうやら伴が帰ってきたらしかった。


◇◆◇◆◇◆


「星?」
伴は掛け布団を頭まで被った飛雄馬を呼んだが、返事がないため、眠ったか、とぼやいた。
実際のところ、飛雄馬は眠ってはおらず、伴が帰ってきたせいで顔を出すタイミングを失ったのだが、彼はそのまま息を潜める。
頭をタオルで拭きつつ、伴は飛雄馬の布団の横に腰を下ろすと、再び星、と呼ぶ。
しかして応答はなく、伴は辺りをキョロキョロと見回してからあぐらをかいた自身の足の付け根、そこにある男のそれを弄った。
シャワーを浴びるついでに一回出してきたのだが、星の匂いのする部屋に戻ってきたらばどうもまた催してきて、伴は下着の上からそれをさする。
「ふ、っ………星」
下着の中でむくむくとそれは大きさを増し、布地を持ち上げるようになる。
伴は腹を締め付ける下着のゴムの部分をずり下げ、中から男根を取り出す。
痛みを覚えるほどに勃起したそれは弾かれたようにそこから飛び出し、まるで意思を持った生き物のようにどくどくと脈打つ。
「ああ、いかん……なんだって、わしは、こんな」
独り言をぼやきつつ、伴は自身のそれを握り、上下にしごく。皮膚を擦る乾いた音が響いて、時折、伴の口からは声が漏れる。
それを布団の中で聞いていた飛雄馬は何事か、と布団をそっと持ち上げ伴の様子を伺った。
すると、伴が自分の股間を弄っているのが目に入って、飛雄馬は思わず身を震わせた。
その布団の動きに気付いた伴は星!と叫び、後退る。
「伴、っ、その、見る、つもりじゃ」
「あう、う、星、その、すまん、妙なところを」
「っ、その、いや、おれに、構わず続けてくれ。外に、出ておく、から」
だらだらと互いに汗をかきながらも視線を合わさず、二人は取り繕うように言葉を交わし合う。
「星……」
呼ばれ、飛雄馬はちら、と勢いの衰えない伴の男根に視線を遣る。
自分のそれよりだいぶ大きな伴のモノから飛雄馬は目が逸らせず、思わずごくっと喉を鳴らした。
「伴……」
飛雄馬は布団から這い出ると、伴のそばににじり寄る。
「あっ、星!すまん!怒らんでくれ!その、男の生理じゃ………っ、」
てっきり罵られるとばかり思っていた伴だが、飛雄馬があろうことか自身の露を垂らす男根に触れてきたために、ぶるっと体を戦慄かせた。
「きもち、いいか?」
「に、にゃにを、きさま、っ…………あ」
「これくらい、しか、して、やれんから」
飛雄馬は先程伴がしていたように彼の男根を五本の指で握ると、上下にゆるゆると擦る。
「う、ぐ、ぐ」
「おれのより、だいぶ、大きいな。ふ、ふ」
飛雄馬は顔をしかめる伴の顔を仰ぎつつ、先走りに濡れた手で彼の男根をしごいた。
自分の倍はありそうな伴が自分の小さな手で弄ばれ、体を震わせているのが何とも滑稽でありながら可愛らしささえ感じてしまい、飛雄馬は自分の体の奥が熱く火照り始めるのを感じる。
「あ、いかん、離せ、ほしっ、て、離すんじゃあ」
「なぜ……?きもち、いいんだろう、伴」
「ぐ、っ、星、好きじゃ、星ぃ……」
伴は目を閉じ、飛雄馬の名を呼ぶとそのままドクンと精を飛ばす。
ピュッ、ピュッと小刻みに精液を伴は畳の上に撒いて、肩を上下させた。
「あ、っ、」
飛雄馬は畳の上に放たれた液体に驚き、伴から距離を取る。
「わ、わは、は……すまん、星。まったく変なところばかり見せてしもうて」
伴はニコッと微笑んでから、座卓の上にあったティッシュの箱を手繰ると畳を拭き、自身の男根を拭ってから、飛雄馬に手を洗ってこいと告げた。
「…………」
言われるがままに飛雄馬は廊下に出て、浴室の隣にある洗面台
で手を洗うと、歯を磨き、部屋へと戻ってくる。すると伴は飛雄馬が寝ていた布団の隣にあぐらをかき座っており、彼が戻ってくると照れ臭そうに頭を掻いた。
「でへへ……醜態ばかり晒してしまっとるのう、不甲斐ないわい」
「別に、そんなこと、ないさ」
飛雄馬は苦笑し、伴の隣の布団へと体を横たえる。
「あ、晩飯、食べたか?」
訊かれ、飛雄馬はギクッとあからさまに動揺した。
脱いだジーンズのポケットには花形から渡されたここの合鍵が入っている。
決してここを出るなと言われたのに黙って外出して、しかも花形と会ったことがバレでもしたら──。
「食べ、たぞ。インスタントラーメンがあったからな、それを拝借した」
「……何か、隠しとらんか」
飛雄馬の上ずったような声に伴は何やら勘付いたか低い声でそう尋ねた。
「何も、別に、隠してなんか」
「……星、わしは隠し事をしていることに怒っとるんじゃない。きさまが一人、誰にも何も言わず抱え込むのが怖いんじゃ」
一転、優しい口調で諭すように言葉を紡ぐ伴に飛雄馬はぐっ、と唇を引き結ぶと、そのまま震える唇で語り始める。
「…………伴がいない間に、花形、さんと会っていた」
「は、花形と!?」
飛雄馬は頷き、続ける。
元の世界に帰る方法がわかった、と、花形は言い、それは、おれが誰かに思いきり褒めてほしい、認めてほしいという欲が何らかのきっかけで上手い具合に作用し、時間を飛び越えさせたのだ、と、そしてその自尊心を満たすために、おれは時を超え伴に会いに来たのだ。
だから、それが満たされればおれは自ずと元の世界に帰れるのではないか、と。
「…………なる、ほど」
黙って腕を組み、飛雄馬の話を聞いていた伴が深く頷く。
「ふふ……別に、誰かに褒めてほしい、認めてほしいなどと思ったことはないんだがな。おれは、おれの目標のために野球をやっているだけで」
「……星は、頑張っとると思うぞい。多分、何度も過去のわしも言ったかも知れんが、一生懸命、誰に何を言われようとも自分の意志を貫き、ひたすらにひたむきに頑張る星が、わしは好きで……昨日、星はわしに言ったじゃろう。左腕が壊れてしまうと分かっていても、それでも元の世界に戻りたい、と。どんな困難にぶつかろうとも前を向き、それを乗り越えようとする星が、わしはたまらなく好きじゃ」
「…………ば、ん」
飛雄馬の大きな瞳から涙が溢れ、頬を滑る。
堰を切ったようにそれはぼろぼろ、ぼろぼろと溢れ、顎先を滴り落ちた。
「わしも、昨日はずっとここにいてくれと言うたが、取り消すわい。星、元の世界に戻って、わしと一緒に頑張るんじゃい……」
「未来は、変えられんだろうか、おれと伴、戦わずに済む未来、っ……」
「……星」
小さな体をぶるぶると震わせ泣きじゃくる飛雄馬が不憫で、儚くて、それでいて強く、美しくて伴は彼の体をぎゅうと掻き抱く。
「伴、おれは、必ず、帰るから。会いに、帰ってくるから」
「ああ、作ろう。一緒に、大リーグボール一号を」
伴の瞳からもいつしか涙が溢れ、飛雄馬の頬へと落ちる。
伴は自分の胸に顔を埋め、しゃくり上げて泣く飛雄馬をより一層、強く抱いてやり、その頭に頬をすり寄せた。
「伴、さっきの、してほしい」
「さ、さっきの、とは?」
ドキッ、と伴は飛雄馬の言葉に身を震わせ、腕の力を緩める。飛雄馬は涙に濡れた顔を上げ、伴の首に腕を回すと目を閉じた。
涙の雫に濡れた飛雄馬の長い睫毛がむらむらと再び伴を掻き立て、伴はごくっと生唾を飲む。
「…………ほ、し」
震える声で伴は飛雄馬の名前を紡いで、その唇に自分のそれを押し付ける。
「ふ……」
飛雄馬の口から小さく声が漏れて、伴の下腹部が再び熱を持ち始めた。
「ここでやめておかんと、わし、星を壊してしまうかも知れんぞい」
「壊す?ふふ……どうやって?」
誘うように飛雄馬は囁いて、今度は自分から伴の唇に口付ける。
すると、伴の全身からぶわっと汗が吹き出して、彼はそのまま飛雄馬の二の腕をそれぞれ掴むと、布団の上にどっとその体を押し倒した。
飛雄馬の双眸がじっと伴を映す。
「し、知らんからな、星!わしは、忠告したぞ」
「壊してくれたって、構わないさ……おれのために死ねるとまで言ってくれた伴になら」
「っ、……」
伴は飛雄馬の首筋に顔を寄せ、その肌に吸い付きつつ、彼の着ているシャツの裾を弄る。
「あ、ぁっ」
鼻がかった声が飛雄馬の口からは上がって、ビクンと彼は背中を反らした。
ああ、それにしても、なんて小さな体なのか──と、伴は組み敷く飛雄馬の肢体を指でなぞりつつ、思う。
それは自分自身が大きくなったと言うのもあるが、それでも、この小さな体で星は父親の思いを背負い、たった一人、悩み、苦しんできたのだと思うと無性に泣けてきて、伴はグスッと鼻を鳴らす。
「伴……なぜ、泣く?」
「星、きさまはなぜ、そんなに強くいられる?何が星を支えている?」
「…………きみの存在さ」
「星……!」
飛雄馬は手を伸ばすと伴の頬に触れ、その涙を掬う。
「初めは、とうちゃんに褒めてほしかった。とうちゃんの夢を叶えてやりたかった。でも、それはきみと出会って、チームメイトと共に汗を流し、協力し合って行う野球の楽しさ、面白さを知った。きみと出会わなければおれは甲子園に出ることもなかったし、こうしてプロの道を歩むこともなかった」
「泣かせる、ことを言いおって……」
「それは、お互い様さ」
ふふ、と微笑んだ飛雄馬の唇を伴はそっと啄み、彼の腹を撫でつつシャツをたくし上げていく。
そうして現れた胸の突起に優しく触れながら、仰け反った飛雄馬の首筋に唇を寄せた。
「あ…………っ、」
ぷくりと伴の指が触れたそこは膨らみ、飛雄馬の興奮具合を物語る。伴は固く立ち上がった突起を抓み、指の腹同士で軽く押し潰す。
「ひ、っ、う……う」
びく、びくと飛雄馬は体を震わせ、恥ずかしさからか自分の口を手で覆った。
伴は一度、その手に口付けてやってからちゅっ、とその鎖骨付近に唇を触れさせ、間隔を置きつつ肌を吸い上げながら、遂に弄っていた乳首へと吸い付いた。
「っく…………」
そこを優しく吸い上げつつ、伴は飛雄馬の臍の下へと手を遣る。
緩いジャージの中に容易く手は滑り込んで、その中の男根へと伴は下着の上から触れた。
声を上げた飛雄馬の腰が跳ね、じわっと下着に染みが出来る。
伴は星、と囁きつつ、下着の中へと手を差し込み、先程彼がしてくれたように飛雄馬の男根をゆるゆるとしごいた。
「や、っ……あ、あ……」
脈打ち、先走りを垂らすそれを優しく上下に擦ってやりながら、伴は飛雄馬の乳首を舌の腹で舐め上げる。
その都度、飛雄馬は体を跳ねさせ、押さえた口からはくぐもった声を漏らした。
「星……辛くは、ないか」
「だい、じょうぶ、だ」
恐る恐る尋ねた伴に飛雄馬は笑みを見せ、腰を揺らす。伴は飛雄馬の顔をちらと見遣ってから、先に、行ってもいいか?と問うた。
「さき、……?」
「星、と、一緒になりたい」
「いっ、しょに?」
頷き、伴は飛雄馬の下着をジャージもろとも彼の足から引き抜くと、足を左右に開かせ、たった今まで弄っていた男根の下、いわゆる尻の中心へと指を這わせた。
びく、と飛雄馬は体を震わせ、伴の顔を仰いだ。
「ここに、わしのを入れたい。星、だめか。いや、無理強いはせん。星が嫌と言うならわしは」
「っ、伴なら、構わない……」
飛雄馬は伴の指が触れる窄まりをきゅうっと引き締め、力強く、そう言い切った。
伴は体を起こし、一旦、飛雄馬から離れると箪笥を開け、中から何やら掌サイズの容器を取り出すと、それを手に彼の足元へと戻ってくる。
何を伴は持ち寄り、今から自分は何をされるのかと飛雄馬は彼が容器の蓋を開け、少し白みがかった中身をたっぷりと指で掬うのを見守った。
と、伴は飛雄馬の立てた膝のそばまでにじり寄り、彼の尻へと先程掬った容器の中身を指で塗り込んだ。
「あ、っ、つめた……」
一瞬、ひやりとしたそれも伴の指で捏ねられているうちに温まって、くちゅくちゅと音を立て始める。
飛雄馬は立てた膝を揺らし、声が漏れそうになるのを堪えた。
そうして伴はそこを刺激に慣らしてから、ゆっくりと指を飛雄馬の中に挿入した。
「……っ、ん」
ぴくん、と飛雄馬は体を跳ねさせ、眉を顰める。
「い、痛かったかのう」
問うた伴に首を振り、大丈夫だと答え、飛雄馬はゆっくりと腹の中に侵入してくる指に神経を集中させた。
狭い粘膜を伴の指が押し広げていくのが分かって、飛雄馬は体を縮こまらせる。
違和感こそあるが、不快ではなく、飛雄馬は足の爪先でぎゅうと布団を掻いた。
伴は飛雄馬の様子を見ながら指を押し進め、ある箇所を指の腹で探っていく。
ほんの少し膨らんだ、男性にのみ存在する器官であるそこを伴は指でようやく探り当てる。
「あ……!」
ゾクッ、と飛雄馬の肌が粟立ち、腹の中が変に疼いた。
伴はそこに指の腹を当てたまま、指をゆるゆると左右に動かした。
振動がそこから真上にある器官に伝わり、飛雄馬の体はびく、びくと反応を返す。
「な、に、これ………っ、変、」
「変?何が変なんじゃあ」
思わず口をついた言葉に慌てて指を抜こうとする伴に飛雄馬は抜かないで、と嘆願し、へんなきもちが、する、と弱々しく答えた。
「…………」
伴は答えず、飛雄馬の中に二本目の指を飲み込ませていく。
「ん、あ、あっ、伴……」
入り口を慣らすかのように伴は指を出し入れし、時折、奥まで指を飲み込ませ、先程の場所を嬲る。
飛雄馬はその度に体を跳ねさせ、涙で濡れた目で伴を仰いだ。
「星、いいか……本当に、ここから先は、責任、持てんぞい」
「だいじょうぶ、だから……」
伴は指を抜き、浴衣の前をくつろげると、飛雄馬の腰の下へと枕を敷いてやってから下着を腿の辺りまで下ろした。
ああ、あれが、自分の中に入るのだ、と飛雄馬は腹の中をきゅんきゅんと疼かせつつ、その時を待つ。 不安半分、期待半分と言ったところか。
それも伴だからこそ。
自分のあるがままを受け入れ、褒めてくれた彼だからこそ。
伴は自身の男根にも先程の容器の中身を塗り付け、飛雄馬の尻へと己を充てがう。
「いくぞ、星」
飛雄馬は頷き、大きく息を吸った。
瞬間、指よりも大きく、質量のある伴のそれが腹の中を抉って、粘膜を押し広げた。
「は、あ、っ………あ、あ」
思わず飛雄馬は体を上ずらせ、思わず逃れようと藻掻いたが、伴がそれをさせず、彼の腰を掴むとゆっくり自身の腰を押し付ける。
伴の形に腹の中が馴染んで、彼を覚えていく。
「お腹、っ、中、ふふ、伴でいっぱいだ」
「痛くは、ないか?」
根元までを埋めた伴が飛雄馬の顔の横に手を付き、そう尋ねた。痛くないといえば嘘になる。
けれども、それより伴とひとつになれたことの方が飛雄馬には嬉しくて、その痛みさえもが心地良かった。
「なん、ども……訊かなくて、いい」
ふふ、と微笑んだ飛雄馬の体を衝撃が貫く。
すると伴がゆっくりとではあるが腰を使い始め、飛雄馬はうっ!と呻いた。
「星、星……」
「あ、んっ……ん」
がくがくと全身を揺らされ、飛雄馬は顔の脇に置かれた伴の腕に縋り付く。
ああ、なんて優しくて、なんて幸福なんだろう。
とうちゃんのために生き、すべてを押し殺し、我慢してきたおれにも、こんな日が来るなんて思ってもみなかった。
他人の体温が、優しさが、こんなに暖かで、心地良いものだったことを、この男は、伴は身を持っておれに教えてくれた。
ぎしぎし、と畳が軋んで、飛雄馬は声を上げつつ仰け反る。
「伴………っ、」
「あ、星、締め付けるな、出る」
言うが早いか伴は飛雄馬の中で達し、ぶるぶると震えた。
その脈動を感じつつ、飛雄馬は白い腹を呼吸のために上下させる。
「ふ………」
「ほ、星!すまん、中に出すつもりはなかった。三回目で、ある程度は耐えられるとは思ったんじゃが……」
飛雄馬の中から男根を抜きつつ、伴はしどろもどろになった。
「い、いから……しつこいぞ、いい加減、っ」
腹の中から掻き出された伴の体液が飛雄馬の尻を垂れ、布団に染みる。
しまった、と伴は顔を押さえ、飛雄馬はその気持ち悪さに眉間に皺を寄せた。
そうして、二人身の回りを整えてから飛雄馬の寝ていた布団に寝転がる。
「腰は、痛くないか?大丈夫か?」
「………おれのことを心配してくれているのはわかるが、大概にしてくれ」
「う、うぐぐ……」
伴の腕を枕に、飛雄馬は目を閉じると、ふふっと笑みを溢す。
「な、なんじゃい、急に」
「いや、何でもないさ」
「……変な星じゃのう」
「明日は、仕事に、行くんだろう」
「む?しかし、星が元の世界……」
言いかけた伴の腕の中で飛雄馬は目を閉じ、すうすうと眠ってしまっている。
今度は伴がふふっと吹き出して、ほんの少し体を起こすと彼の額に口付けてやってから、自身もまた眠るために目を閉じた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


飛雄馬はまだ日も昇らぬ早朝、雀の鳴き声で目を覚ますと、伴を起こさぬようそっと布団を抜け出す。
襖を開け、廊下に出ると朝食を作っているのか良い匂いが鼻をくすぐり、飛雄馬は唇を引き結びながら浴室までの道のりを歩み、そこに辿り着くとシャツと下着を脱いだ。
それから、シャワーを浴びて昨夜の痕跡を洗い流す。とは言え、腹の中にはまだ伴の感覚が残っていて、飛雄馬は泣くのを堪えるように目を閉じる。
髪を洗い、体を洗って、飛雄馬は廊下を戻ると、伴の部屋に帰ってから綺麗に洗濯してクリーニングに出してあったらしいジャイアンツのユニフォーム、それとグラウンドコートを身に着け、台所へと向かった。
「あら、星さん。おはようございます」
味噌汁の味見をしていた老女が振り返り、ぺこりと頭を下げた。
「おばさん。これ、ありがとうございます」
着ているユニフォームを手でさすりつつ、飛雄馬もまた、頭を下げる。
「いえ、そんな、お安い御用ですったら、いやですよ、改まって」
飛雄馬はふ、と顔を緩ませ、手伝いますと老女の朝食の準備の手伝いを買って出た。
茶碗に飯をよそい、焼けた魚を皿に乗せて、飛雄馬は席に着く。
「伴は、もう少し、寝かせていてあげてください。昨日、遅かったようですし」
「……ぼっちゃま、星さんが現れて見違えるように元気になられた。星さんが消えてからと言うもの、付き合いで覚えたお酒を毎晩煽ってねえ……星、星と喚きなさるんですよ。体に悪いから控えるように言うんですけどね」
老女から味噌汁の入った椀を受け取りつつ、飛雄馬は、そうか、伴が酒を飲むようになったのも元はといえば、「おれのせい」で──と、自身を責めつつ、熱い味噌汁を口に含むことで涙を堪えた。
「おばさん、伴は、きっと、もう酒に逃げたりなんてしないと思います」
二杯目のおかわりを受け取り、飛雄馬は老女を見据える。
「……ええ、そうでしょう。星さんの目を見てれば分かります。ぼっちゃまはもう、大丈夫でしょう」
老女は頷き、茶碗や皿を空にした飛雄馬がニコッと微笑むのに対し、彼女もまた笑みを返した。
飛雄馬はそれから、朝早いから顔を見られることもないでしょうから、外に出てきますと玄関先までやって来た老女に靴を履きつつ告げた。
「そうですか。どうぞお気をつけて」
老女は言うと、深々と頭を下げる。
「お世話に、なりました」
飛雄馬も被っていた帽子を取り、頭を下げると後ろも振り返らず屋敷を飛び出した。
おばさんの顔を見ていたら、決心が鈍ってしまいそうで──飛雄馬は住宅地を抜け、大通りに出るとタクシーを止め、乗り込みつつ花形が行っていた鎌倉の禅寺に向かうべく、鎌倉駅までと運転手に指示を出す。
「ほ、星、飛雄馬!?」
運転手はバックミラーに映った飛雄馬の顔に驚き、声を裏返らせながらも車を走らせた。
ゆっくりと太陽が昇り、空が輝き始める。
飛雄馬は道行く人々を目で追いつつ、少し眠ろうと目を閉じた。
「………さん、お客さん!」
ハッ、と飛雄馬は運転手の声で目を覚ます。
先程ハンドルを握っていた運転手はもう少し、年がいっていたような気がするが、と飛雄馬は思ったものの、ありがとう、と運転手に料金を払うと車を降りた。日は高く頭上にあり、目の前には鎌倉の駅がある。
飛雄馬は朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、駅舎の中に入った。
そうして、駅員に禅寺の場所を聞こうと窓口に歩み寄ったところ、詰所の壁に掛かるカレンダーの元号に昭和四十三年と書かれており、飛雄馬はすみません!と駅員を呼ぶなり、今年は昭和何年ですか!と尋ねた。
「あ、あんた、行方不明の星……な、なんだ?大洋の左門に打たれておかしくなったのか?今年は昭和四十三年だろう。ペナントレースが始まったばかりじゃないか」
「…………あ」
戻って、来れたんだ、と飛雄馬は脱力し、ぽろっと涙を溢す。それを目の当たりにした駅員は慌てふためき、目を白黒させた──。




「星!?」
伴は跳ね起き、飛雄馬が隣にいないのに気付くと浴衣の乱れも直さず廊下を一目散に駆けた。
先日と同じように台所に飛び込み、老女に星は!?と尋ね、彼女は、朝早いから大丈夫だろうと言って外に出られましたよと落ち着いた様子で答えた。
「に、にゃにい!?それで、行かせたっちゅうのか」
「……星さん、スッキリされた顔をしておいででしたよ。ここに来たときは本当に苦しそうな、辛そうな顔をしていましたけど」
「…………そう、か」
伴は吊り上げていた眉を下ろし、どすんと椅子に腰を下ろすと老女の用意してくれた朝食をもそもそと口に運んだ。
きっと、星は元の時代に帰ったんだ、と伴は思いつつ朝食を終えるとスーツに身を包み、就業開始時刻より早く父の会社に顔を出す。
昨日ガミガミやったのが効いたな、と大造はえびす顔であったが、伴がやる気を出したのも飛雄馬のお陰であることは語るまでもない。
とは言え、やはり考えるのは飛雄馬のことで、仕事中もどこか上の空であった伴に対し大造は頭を抱え、だめだこりゃと匙を投げた。
──この数ヶ月後、関東近郊の草野球チームの代打を引き受け、日銭を稼ぐ男が星飛雄馬ではないか、と言う情報を聞きつけた花形がそこまで出向いて、見事一徹にかけていたサングラスをかち割られ、その正体を晒した彼を家に招くことになるのだが、それはまだ当分、先の話である──。